第 31回 紀伊路  大阪府阪南市・山中渓 - 和歌山県・海南市   2004年10月31日


 熊野街道は17世紀末ごろから明治まで小栗街道と呼ばれ
ていた。泉佐野市上瓦屋で紀州街道と合流し、雄ノ山峠を越
えて紀州へ入る。

道案内には、藤白神社宮司の吉田昌生さん監修の地図が
必携のものだろう。
このマップは大阪府と和歌山県の県境、山中渓から始まる。
(歩行距離:16.4km、 標準歩行時間:4時間20分)




熊野古道 紀伊路の街道マップ【PDFダウンロード】

1.山中渓駅〜布施屋駅
2.布施屋駅〜海南駅



 JR阪和線・山中渓駅に 8:57に到着した。
なんともいえない風情の残る駅に、旅への期待感がふくらむ。
かつての街道は、64号和歌山貝塚線となり、しばらくは県道
に従って進む。

 本陣跡は駅の大阪寄りの方にあり、進行方向にまもなく
山中関所跡がある。
平日の朝だが、通勤の車もそれほど多くはない。
線路の東側を通る道路を進み、芦谷橋を渡る。
阪和自動車道のを山の斜面に見上げながら進むと、もう県境だ。



−−−山中宿 説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
熊野古道(熊野街道)
山中宿(紀州街道)
この地は、和泉山脈から流れ出る山中川の渓流地帯にあって、雄山峠越えで和泉と紀州を結ぶ
古道が通っており、神武天皇の御東征の道でもあったといわれています。
 古くは、「南海道」とよばれ、平安時代中期頃から摂津和泉を経て”紀州の霊場”「熊野三山」へ
向かう熊野詣の道となり「熊野街道」(熊野古道)「紀州街道」ともよばれてきました。
「熊野詣」は平安時代から鎌倉時代にかけて盛んに行われ時の上皇御幸から公卿、庶民にいたる
まで多くの人々が参詣して「蟻の熊野詣」と云われたほどです。
 京から淀川を下り和泉から紀州を南下して熊野まで約百里、往復二十五日の苦行の旅でした。
その道筋に熊野権現の分神として設けられたのが、「熊野九十九王子社」で、山中村の域内にも
「地蔵堂王子」「馬目王子」「長岡王子」の三王子社があり、現在もその跡地が残されている。

 また、統治には熊野街道(熊野古道)で、一番険しい雑所とされる「琵琶岸縣」(びわがけ)が
あって、「石壁(せきへき)の上に聳(そび)へ方岸(へきがん)下に縣(かか)れり行路狭隘にして
ややもすれば車倒れ馬たおる」(和泉名所図絵)と紹介されています。
 この熊野街道と山中川沿いに、古くから家が建ちはじめ、平安の時代から江戸時代にかけて全盛
をきわめた宿場町がここ山中宿です。
 旅籠も本陣をはじめ二十数軒あり、紀州徳川藩の参勤交代時代には近郷より三千人もの人夫、
助人がこの山中宿に集まり炊飯、運搬、補給などの仕事にあたった。
街道沿いの宿駅、馬継ぎ場として栄えた面影は、今も残されています。
 また、平成六年にはこの山中渓地区内の旧街道は、国の指定する歴史街道として整備
(石張、照明)され、永久に保存されることになりました。
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高架が阪和
自動車道。
道路標識の
ある場所が
県境。

手前の石碑
は、最後の
仇討ちが行
われた場所
を示す記念碑。




中山王子跡
(9:26)

踏切を渡ると
すぐの場所に
ある。







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中山王子跡

 かつて、京都から熊野三山までの熊野参詣道に、八十四カ所
の王子社が祀られていました。王子社というのは、属に「熊野
九十九王子」といわれる熊野権現の御子神を祀る社のことです。
中山王子は紀伊国に入って最初の王子社で、藤原定家の日記、
建仁元年(1201)十月八日条に、その名が見られます。
また、この付近は「雄の山中」といわれた所から、藤原頼資の日記
では「山中王子」と書かれ、承元四年(1210)四月二十四日条に、
修明門院が山中王子に参拝し、峠で雄山の人たちや無縁者等に、
帷(かたびら)五、六十両ほどを、ふるまったと記されています。
江戸時代には、道沿いに、周囲三十六間の境内があり、王子権現社が祀られていたようですが、
明治時代に春日神社に合祀され、旧跡も鉄道の敷設によって無くなりました。

 線路を左に見ながら生活道路を進み、第二踏切でまた県道へ戻る。

写真:左下)
県道64号線の標識。
ゆるやかな登り坂。JR阪和線のトンネルはこの左側の下になる。
道路は勾配を抑えて造成してあるせいか、登りも苦にならない程度
のものだった。

写真:右下)
山間に紀ノ川周辺の街並みが垣間見える。



















写真:左)
「急な下り坂」と
マップにある場所。


写真:右)
JR線路の下をくぐる。






写真:左)
山口王子の100m
ほど手前で県道から
分かれる。

写真:右)
山口王子跡
(10:11)






−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 山口王子跡

 この地は、かつて、雄の山口の湯屋といわれていました。
(現在も湯屋谷という地名があります)。
永保元年(1081)九月二十五日、
藤原為房は、ここから国府の南路、日前宮を経由して藤代に
向かっています。王子社名は、藤原定家の日記、建仁元年
(1201)十月八日条や、藤原頼資の日記、承元四年(1210)
四月二十四日条に見られます。
定家は後鳥羽上皇に、頼資は修明門院に随行した時に、日記を
書き残したのです。天保十年(1839)に完成した『紀伊続風土記』
には、三橋王子とも書かれており、江戸時代には、境内の周囲が
三十二間の王子権現社があったことが知られます。この王時差は
明治時代の神社合祀で、山口神社に合祀されました。
なお、古代に雄山(おのやま)に置かれていた関所は、白鳥関と
呼ばれており、白鳥伝説を残しています。











写真:左)
 小野寺橋を渡る。

写真:右)
マップ中の拡大図にある「墓地の中にある
道標」
ここで路地裏のような狭い道に入る。







農道を通っていくと
立派な鳥居がある。

山口神社の鳥居。
南方向を写す。
神社はこの背後方向
にあり、ここから本殿
は見えない。
街道は鳥居の向側へ
すすみ、突き当たりに
ローソンがある。



ローソンで、おにぎりを買い食べながら先を急いだ。
県道7号 粉川加太線。
歩道がなく、交通量が多い。
中村モータースの先から住宅街の細い路地に入るが
すこし分かりにくい。










「熊野古道」の文字
があるマンホール状の
道標。
マンホール風なので見落としやすい。















川辺王子跡

鳥居が低い。
鳥居の上(笠木)が
身長くらい。







−−−− 説明板より −−−−
 川辺王子跡

藤原定家の日記、建仁元年(1201)十月八日条に「川辺王子」、藤原頼資の日記、
承元四年(1210)四月二十四日条に「四橋」の王子名が見られます。
四橋王子という名は、和泉国と紀伊国の境にあった堺橋から数えて、四番目の橋付近
にあったことから、名付けられたのでしょう。山口王子が三橋王子といわれたのも、この
ためだと思われます。この王子社は、『紀伊続風土記』によるといつのころからか、八王
子社と呼ばれるようになり、江戸時代には川辺村(和歌山市川辺)の力侍神社境内に
遷座したとあります。当地に残った旧八王子社を川辺王子跡と考証したのは、『和歌山
県聖蹟』ですが、参詣路が不自然に迂回するため、川辺王子社は川辺村薬師堂付近
にあったとする説もあります。

このあたりは地図は役に
たたない。路面に埋め込まれた
標識だけが頼り。
突然、直角に曲がったり
するので、分岐点にくると立ち
止まり標識を探す。









川辺王子から中村王子へ向かう途中、街道マップの
「民家の庭にある高いシュロの木を目印に進む」
と記されるポイント。

中村王子の説明板が田んぼの前にあるはずだが、
見落としたのか、そのまま力侍神社に出た。







力侍(りきし)神社












−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

和歌山県指定文化財
 力侍神社本殿・摂社八王子神社本殿

力侍神社はもと天手力男命を祭神とし、力侍神社の名前も手力男に由来している。
 南から参道を通って社地に入ると、向かって左の社殿が本殿で、右側が摂社 
八王子社の社殿である。両社ともにはじめからこの場所に建てられていたのではなく、
力侍神社はもと神波(こうなみ)(現社地の北西約700m)にあり、その後上野(現社地
の北西約1km)の八王子社境内に移り、さらに江戸時代のはじめ寛永三年(1626)に
両社ともにこの地に移されたと伝えられる。
 社殿は流造、一間社、桧皮葺で、正面と両側面には緑をめぐらし、擬宝珠高欄をおき、
背面の見切に脇障子を構えている。身舎正面には引き違いの格子戸を入れ、側面と
背面は板張りの壁としる通常の形式である。
 両社殿ともに建立年代を示す史料はないが、各部分の様式や技法からみて十六世紀
終わりごろに建立されたものと考えられる。木鼻や蟇股などの彫刻も優れており、全体
に建立時の形態が良く保たれ、和歌山県内における桃山時代の神社建築の代表例の
ひとつとして貴重な資料である。

街道マップには、
「このあたりは導き石
を目印に進む」とある
ように、目印がないと
迷ってしまう。
写真右は、左から来て、
直角に向側へ曲がる。







古い住宅街を過ぎると、
紀ノ川の川端へ出て、
いきなり視界が広がる。
しばらく県道134号線を
歩き、また北側の道を
下る。

川辺橋のたもとの地蔵
川辺橋で紀ノ川を渡る。





橋を渡ると県道14号線を
東側へ曲がる。
布施屋(ほしや)のバス停
の手前で南へ曲がる。











(写真:左)
JR和歌山線の吐前踏切
を渡る。

すぐに吐前王子跡が畑の
側に見える。

12:30、山中渓から
3時間半経過した。



−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

吐前(はんざき)王子跡

 この王子社名は、藤原定家や藤原頼資の日記に見られます。頼資の承元四年
(1210)の御幸随行の日記は、『修明門院御幸記』と呼ばれます。それによると、
承元四年四月二十四日、修明門院は紀ノ川を、国司が用意した高欄・水引で飾った
船で渡り、「在崎」の行宮に着きます。この在崎は、吐崎(吐前)の書き間違いと思わ
れます。吐前では、紀ノ川の水で心身を清める水垢離を行い、祓いをして王子社に
参拝するのが通例でした。
江戸時代には、この王子社は王子権現と呼ばれ、付近は森に覆われていたようです。
この案内板の北東に、かつて周囲より一段高くなった土地があり、そこに王子権現が
祀られていましたが、現在は削平されています。地元の人は、この土地を「オコードー」
と呼んでいます。御幸道、あるいは御幸堂のことかと思われます。


(歩行距離:16.3km、 標準歩行時間:4時間20分)















 布施屋(ほしや)自治会館から
古い住宅街を少し進むと、
川端王子跡がある。










−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

川端王子跡

 後鳥羽上皇や修明門院の御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、吐前王子
に参ったのち、日前宮(にちぜんぐう)の奉幣使として、御幸の一行と別れ、日前宮
に参拝しています。その後、両人は和佐・平緒王子社に参らずに、奈くち(菜口)
王子社に参拝するのですが、川端王子は忠誠の参詣記には登場しません。
したがって、中世には、この王子社は無かったものと考えられます。しかし、江戸
時代の初頭の頃には、二社の和佐王子社があったそうです。一社は坂本(和佐
王子)で、他の一社は元は熊野古道沿い川端にあったのが、現在地に移された
といわれます。この王子社が、川端王子と呼ばれるようになったようです。明治時
代に高積神社に合祀されて、建物は取り壊されましたが、地元の人たちがこの
小祠を建て、今に残されているのです。

和佐歴史研究会による
道標。
目の高さの標識がやはり
わかりやすい。









(写真:左)
 「至誠小学校跡」の説明板


(写真:右)
お堂と鳥居









水路沿いに立つ趣きのある
民家












 旧中筋家住宅は
改築工事中だった。












 平たい石を積み上げた
珍しい石垣

県道9号線に合流して
すぐに斜面に和佐王子跡
がある。








 和佐王子跡












−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
和佐王子跡

 後鳥羽上皇や修明門院の熊野御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、日前宮
奉幣使となって、吐前王子から日前宮に赴いたため、和佐王子社や次の平緒(平尾)
王子社には参拝していません。しかし、御幸の一行は熊野古道を通り、和佐王子社
に参拝したものと思われます。江戸時代初期には、二社の和佐王子社跡があり、
一社は川端(川端王子)で、他の一社がこの王子社跡です。紀州藩種徳川頼宣は、
寛文年間(1661〜72)にこの地を和佐王子跡と定め、緑泥片岩に「和佐王子」の
四字を刻んだ碑を建てています。『紀伊続風土記』には、川端王子を和佐王子と称し、
この王子社は坂本にあったことから、「坂本王子」と称すと記されていますが、川端
王子を中世の和佐王子とするには無理があります。この王子社は明治時代の神社
合祀で、高積神社に合祀され、今は往時の石碑を残すのみです。


矢田峠を越える。












細い土道の登り坂。

標高が高くなり、遠景が
見える。
紀州のなだらかな平野
の緑が美しい。









 ここが峠
このまま土の道が続くと
思われたが、この先から
コンクリート道になる。
14時をすぎたので、
昼食にした。








傾斜地には蜜柑畑が。












 県道9号線を横断し、しばらく行くと、
西側へ分岐した道に入る。


平尾自治会館の前に「平緒王子跡」が
あるが、見落としてしまった。








風情のある古い街並み
を抜けると、南海貴志川線
の踏切に出る。











さらに進むと用水路沿いの
家の裏に出る。
私有地のような感じがするが
そのまま進み、道路へ抜ける。


コスモスとお地蔵さん。







柿の無人販売
一袋100円













 街道脇の須佐神社
その先に奈久智王子社跡
がある。










 県道9号線を行く。













(写真:左)
奥に阪和自動車道の高架
が見える。
くぐってすぐに左に曲がり、
右にため池を見ながら進む。

大池のところで県道から
分かれる。






街道マップには阪和自動車
道と街道の間にもう一本道
があるように記されているが、
それは無かった。
実際は、もっとも高速道路
寄りのこの道が熊野古道。






















亀ノ川を六ヶ橋で渡る。













 光明寺

この先で、畑地が開け、民家に沿って
私道のような細い道を進み、自動車整備
工場を過ぎると県道に合流する。









 県道136号線に出てすぐのところに、『松阪王子社跡』がある。
他の王子社跡のような説明版や石碑はない。

くも池を左手に見ながら進むと、近代的なゴミ焼却場が現れる。
プールも併設されている。
県道は対面2車線で、交通量もやや多い。
登り坂。








坂を上りきって、向こうを
見ると、海南市の市街が
少し見えてきた。










汐見峠の説明板
雄ノ山を越え、紀ノ川を
渡り、集落を抜け、峠をい
くつか越えて歩いてきた。
そして、ここで海が眺望さ
れるのである。
海原の風景に歓声を上げ、
大きさに立ちつくした古人
の気持ちがよく分かる。

(写真:右)
呼び上げ地蔵


 県道18号線との交差点に
コンビニがある。
左手にこんもりと茂っている
のが春日神社の鎮守の森。
当時のままの照葉樹林
という。

松代王子は春日神社の中に。
(写真:右)
神社は左折。
街道は直進する。

















 菩提房王子跡
建材店の軒先にある。


この先で右手に曲がる。























(写真:左)
 蓮花寺を過ぎたところで、
17時をまわった。

(写真:右)
熊野一の鳥居跡
次回はこの南側の道へ
入っていく。
本日は直進し、JR海南駅
へ向かう。




夕闇迫る海南駅周辺。

秋の特別ダイヤで、
「快速熊野古道2号」で帰る。











本日の歩数は 40,608歩 (1,666 Kcal) 33km以上、8時間20分の行程だった。
マップ上の歩行距離は32.7km

曇りがちで、夕方には小雨も降ってきた。
このコースは特に見所があるわけではなかったが、舗装道路が中心で雨天でも特に問題はない。

  紀伊路 つづく


更新: 2021/5/24 リンク切れ修正