第 32回 紀伊路  海南市 - 湯浅町   2004年11月02日


 JR天王寺駅を7:16に発ち、和歌山駅で乗り換え、海南駅に8:49に到着。
これまでは比較的平坦な道が中心で、雄ノ山峠も下りが中心だったためか、
苦もなく進んできた。 しかし、ここから先はいよいよ山に分け入り、
藤白坂、拝ノ峠、糸我峠と
150mから300mの標高のある峠を3つ越える。
 藤白坂の手前には街道マップの監修にあたられた吉田宮司の藤白神社が
ある。(後になって気づいた)
 峠越えでは一般の地図には道が記載されていないのでここでも街道マップが必携である。

熊野古道 紀伊路の街道マップ【PDFダウンロード】

3.海南駅〜紀伊宮原駅
4.紀伊宮原駅〜湯浅駅

(歩行距離:14.4km、 標準歩行時間:4時間45分)
 前回の続きの道へ戻るために名高を通る。ここは古い建物が息づいている
街道風情の残る落ち着いた街並みが続く。

 秋晴れの清々しい朝の空気を吸い込みながら、
足取りも軽い。 駅前の道を南へ進み、山田川を
蓬莱橋で渡る。
 名高の街並み。
「日限地蔵」の道標を北へ
向かうが、街並みに見とれて
通り過ぎてしまった。
引き返し、この道標の辻で
北へ曲がる。






 積み石の塀に沿って進み、
線路を越えて、熊野一の鳥居
の手前、
前回の続きの場所に
到着。



 この標識を過ぎるとまもなく
祓戸への道が右手にある。






 祓戸王子跡
(9:27)

 実際はここからさらに
110mほど北にあったらしい。









 (写真:左) 鈴木屋敷
全国鈴木姓の本家とも云る
鈴木屋敷。庭園は平安時代
の曲水泉を残すものだが、今
は水は涸れ、見る影もない。
県の文化財として指定は
されているが、公開されていない。

(写真:右)
 そこからすぐのところに
藤白神社の鳥居が見える。


−−−  小栗街道 説明板より −−−−−−−−−−−−−−−

 雄ノ山峠を越えて熊野へ参詣する熊野古道を小栗街道とも呼んでいます。
 小栗街道といわれるのは、不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の
土車に引かれて熊野権現の霊験を求め、熊野を目指してこの道を通った
ためです。
 判官は熊野本宮に参詣し湯ノ峰の湯を浴びてすっかり元気になり、照手姫
と結ばれました。
 判官は、後に機内五カ国(大和・山城・河内・和泉・摂津)と美濃(岐阜県
南部)を賜りました。
 この話は、説教師や和讃、浄瑠璃などに脚色されて伝えられています。
                           海南市教育委員会
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 藤白神社 (9:37)
−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−
和歌山県指定文化財
 史跡 藤白王子跡

 この藤白王子社は平安時代から江戸時代まで盛んに行われた熊野詣での礼拝所で熊野九十九王子社
のうち五体王子の一つとして特に重視された神社である。
中世の熊野御幸の際には当社を御宿泊所とせられ旅情をなぐさめられるために御歌会、相撲会などが催された。
「御幸記」<建仁元年(1201)>にはここで後鳥羽上皇が歌会を催されたことが記述されている。
そのときの和歌が有名な「熊野懐紙」で重要文化財となっている。

 海辺冬月
 うらさむく やそしまかけて よるなみ
 ふきあげの月にまつかぜぞふく

拝殿の正面の土塀の中に「御歌塚」とよばれている古い石製の宝塔が二基祭られている。
また神社には県指定無形文化財「藤白の獅子舞」がある。
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また、平安時代より文献にあらわれ、7世紀の斉明天皇の
牟婁行幸の際社殿が営まれたという。昔は「藤代」の文字も用いられた。

 現在は藤白神社

こちらの宮司様が、熊野街道歩きには必携の「和歌山街道マップ」を
監修された。
感謝の気持ちを込めてお賽銭は特にはずみたい。

 社務所で、小栗街道の大阪府下の小冊子を求めた。
さらに街道マップワンセット6冊を頂く。
このとき応対いただいた、のが宮司様であったと、帰ってから気づいた。
サインを頂けばよかった。


















 今は高速道路の下になっている紫川を過ぎる。
−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−
 紫川は、その名の由来を尋ねると、上流の谷の石が紫色を帯びて
いるからとも、村崎にあるからとも言われています。
 また、万葉集に『むらさきの名高の浦・・・』と詠んだ歌があります。
 『紫の名高の浦の愛子地(まなごつち)
   袖のみ触(ふ)りて寝ずかなりなむ』
この他にも二首あります。
 これらの歌の「名高の浦」に「むらさきの」という枕詞が付けられて
いるのは、紫が「貴い」色として名高いので「名高」にかかる枕詞に
なったのでしょうか。
 名高にも紫川と呼ばれる川があったことは、本居宣長の『玉勝間』
に紹介されており、名高浦へ注ぐ川を紫川と呼んだものでしょう。
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藤白坂の丁石地蔵

 全長上人は、海南市名高の専念寺第十四世の住職で、元禄年中
(1688−1704)専念寺に入り、延享四年(1744)に
入寂した学徳すぐれた高僧でした。全長上人は、藤白坂の距離を
明確にするとともに、憩いの場所として道中の安全を祈願する為
にと、十七体の地蔵を一丁ごとに安置されました。
 当時、藤白坂にはかご屋があいて、足腰の弱い旅人はかごを利用
して峠越えをしたものです。
 いつの頃から藤白坂のかご屋もなくなり、以来二百五十年あまり
の長い間に、丁石地蔵は谷に落ちたり地に埋もれたりして消え、
昭和五十六年に現存する物はわずかに四体に過ぎませんでした。
その後、新しい地蔵を加えて十七体が復元されました。
この「一丁地蔵」は当時(享保の初め頃)のものであり、丁石と
しては全国的にも珍しく、貴重な存在です。

 一丁地蔵
(9:56)
*一丁は約109m
一丁ごとに地蔵が復元されて
いる。高野山町石道もそうだが、
きつい坂道も今どれくらいのとこ
ろにいるのかが分かると、励み
になる。
一丁という距離は、実際に坂道
を歩くと、それがよく実感できる
間隔だと思う。
道はここより坂を上り始める。




 丁石地蔵


アスファルト道がまもなく
終わり、土道、石畳と
なる。








 途中、細い道もあるが、
危険はそれほど感じない。
 右手に海南の町がよく
見える。
さらに登り坂は続く。










丁石地蔵 (七丁)
徐々に標高も高くなり、
海南の港の全景が見えて
くる。

(10:07)








 かなり急な坂もある。

(写真:右)
この山を登っていく。
頂上の御所の芝まで
200m強の標高。









 丁石地蔵 (十丁)
(10:16)












 丁石地蔵 (十一丁)
 (10:19)

 竹林の中を進む。











 筆捨松
(10:27)


























写真:左)
 新しい丁石地蔵 (十七丁)



写真:右)
 丁石地蔵







写真:左)
 宝筺印塔
このあたりが頂上 (10:45)
藤白坂は約45分の登り道だった。

写真:右)
橘本の地蔵峰寺
横手にトイレがあり、その崎に
眺望のすばらしい御所の芝が
ある。

写真:下段)
三枚を繋げた写真。
御所の芝からの眺望














写真:左)
 地蔵峰寺境内にある休憩所。
塔下王子はこのあたり。

写真:右)
マップ中の拡大図、
「道標のところを左下へ」の箇所。
ここから地道になる。






 みかん山を下る。













 写真:左)
マップ中の拡大図2枚目、道標付近


 写真:右)
橘本の集落へ入っていく。








 浄土宗 阿弥陀寺の境内に
橘本王子跡はある。
 (11:07)











−−−−  橘本王子 /説明板より −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 藤原定家や藤原頼資の日記に、「橘下王子」と書かれているのが、この王子です。
定家や頼資の熊野参詣より約100年前の天仁二年(1109)十一月六日、藤原宗忠は
熊野参詣の帰り道に、橘本王子社の前から、塩津付近に向井、海を渡って、和歌浦・
吹上浜を見物したと、日記に書いています。江戸時代には「橘本王子」と書きましたが、
『紀伊続風土記』によると、王子は村の北にあって、土地の人は「本」の字を略して、
橘の王子と呼び、また、白河法皇が参詣の時に、この王子社に通夜して
   「橘の本に一夜の旅寝し入佐の山の月をみるかな」
という歌を詠んだと伝えています。現在はこの阿弥陀寺の境内に、その跡をとどめるのみ
ですが、室町時代の永享九年(1437)王子社の社殿を造営し、江戸時代の貞享四年
(1687)に屋根を葺き替えたという棟札が残されています。
『古事記』『日本書紀』垂仁天皇の時代に、田道間守(たじまもり)が常世の国から、橘の木
(トキジクノカクノコノミ = 非時の香菓)を持ち帰ったという伝説がみえ、それをこの地に
植えたという言い伝えに橘本王子のいわれがあります。橘を温州蜜柑の原種とする説に基づき、
この地は紀州蜜柑の発祥の地ともされています。

 加茂川を橘本土橋で渡り、
すぐに左へ曲がる。

橘本の落ち着いた住宅街
を抜ける。









 所坂王子
(11:20)

 石段を上がり、鳥居を
くぐると右手に王子跡の
石碑がある。
参道を登ると橘本神社
がある。



















−−−−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−
所坂王子
 この王子社名を、藤原定家は「トコロ坂」と日記に記しています。
『紀伊続風土記』では、「所」の字を当てて、所坂王子社と呼んでいます。
この王子社は、明治時代に塔下王子社・橘本王子社を合祀し、橘本王子神社
(現、橘本神社)となりました。そして、橘本王子の由来である、田道間守
を主神として祀っています。神社合祀で廃絶していく王子社の中で、神社に
なった一例がこの所坂王子です。田道間守は常世の国から橘の木を持ち帰り
この地に日本で最初に植えたと伝えられてます。その実が、日本で最初の
みかんとなり、菓子となったことから、橘本神社は、みかんとお菓子の神様
として、全国のみかん・菓子業者から崇められています。
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写真:左)
蜜柑の原種、橘の木。

写真:右)
全国的にも名の知られたお菓子メーカー、
老舗の名前が連なる。







 市坪川に沿って進む。

 一壺王子
 (11:20)
山路王子神社























−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−
一壺王子跡

「一坪王子」とも「沓掛王子」ともいわれ、現在は市坪、
沓掛の氏神で山路王子神社と称する。紀伊続風土記には
拝殿、玉垣、鳥居、鐘楼などがあり、瑠璃光山安養寺と
いう神宮寺があった。
 秋の大祭(十月十日)には県指定の無形文化財の獅子舞
(獅子幕内7人 鬼2人 笛5人 太鼓1人)があり、
続いてこれも県指定の奉納花相撲が催される。これは
村内外の幼児が赤いふんどしを締めて各々行司役の氏子
総代に抱かれて土俵の上で一勝一敗になるよう土俵の土
をつけてもらい子どもの健康を祈願する。これは一般に
「泣き相撲」として親しまれている。また子どもによる
三人抜き五人抜きも行われ終日祭りで賑わう。
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山路王子神社を出て、県道165号線を進む。登り坂がつづく。






























写真:上段左)
沓掛上り口より急な坂が続く。


写真:右)
沓掛児童会館








写真:左)
 沓掛の松
 弘法井戸



下津町沓掛の集落の
坂道を登る。







急な登り坂が続く。












 拝ノ峠頂上
標高は約300m
(12:30)











蕪坂・拝の峠
 藤白坂に次いで熊野古道の難所蕪坂を登りきったところを
「拝の峠(はいのと)」といい茶屋があった。昔、神武天皇
ご東征の折、八咫烏(鴨邑の建角見命どとされている)に
先導されたのでこの名があると伝えられている。
 万葉集に「木の国の昔弓雄の響矢用ち鹿獲り靡けし坂の
上にぞある」とあり、紀伊国名所図会には「鏑矢もて鹿を
打ちし坂なれば蕪坂と名づけしにや」とある。
右大臣宗忠公の「中右記」には「白倉明神、天狗の休み岩
に申の刻を過ぎて怪奇なる事あり。登るのも鏑矢を射て威嚇
せり」とある。
 また万葉集の「安太(あて)へ行く小為手(さゐで)の山
の真木の葉も久しく見ねば苔生じにけり」と歌われたのも
この付近といわれている。

写真:左、右下)
 蕪坂塔下王子ちかくに、
きれいな休憩所がある。
トイレもあり。
ここで昼食休憩をとる。









 蕪坂王子跡
−−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−
蕪坂塔下王子

 熊野御幸の盛んな頃、蕪坂には、峠の南麓の二か所に王子社
がありました。峠の王子社は、藤原定家の日記では「カフラサカ
ノタフ下王子」、藤原頼資の日記では「蕪坂王子」と記されて
います。南麓の王子社は「山口王子」あるいは「宮原王子」です。
ところが、『紀伊続風土記』では、峠に蕪坂王子・塔下王子の
二社があったと記しています。
これは藤原定家の日記を、読み間違えたと思われます。『紀伊国
名所図会』に「蕪坂王子社蕪坂の上にあり」と載せられているのが、
当王子社のことです。また、『紀伊続風土記』では、別名として、
「鏑鎚王子」を当王子社に比定していますが、『紀伊国名所図会』
では、麓の山口王子社の項に記しています。
この王子社は明治時代に、山口王子社と共に、宮原神社に合祀され
ましたが、平成元年、地元の愛郷会によって社が再建されました。
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ここからは下り坂となる。









 大刀の宮



























 爪かき地蔵堂













 密柑山のコンクリートの
道を下る。












 山口王子跡 写真正面、突き当たり。 (13:26)
−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−
山口王子
 建仁元年(1201)十月九日、藤原定家は、「カフラサカタウ下(蕪坂塔下)
王子」の次に、「カフラサカ山口王子」に参拝しています。また、藤原頼資は
承元四年(1210)四月二十五日に、蕪坂の次に宮原の王子に参拝してい
ます。共に、蕪坂を下って最初の王子社に参拝していることから、同じ王子
社と考えられます。蕪坂の麓にあるため、定家は「山口」といい、頼資は、こ
の地が宮原庄であったことから、「宮原」と呼んだのでしょう。江戸時代には
山口王子社、あるいは鏑鎚王子とよばれてたようです。明治時代には王子
神社となって存続していましが、神社合祀で、蕪坂塔下王子と共に、宮原
神社に合祀されました。現在の社は、平成三年に地元の愛郷会の人たちに
よって、再建されたものです。
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 県道164号線に合流し
宮原町畑から宮原町道
の集落を進む。

 伏原の墓
 (13:32)
熊野詣や巡礼の途中で
行き倒れた人を弔った墓や
地蔵。
 街道歩きをしていると、
人ごととは思えず、頭を垂
れ手を合わせる。


 夕暮れ橋を越え、宮原小学校と街道の間に、
熊野古道ふれあい広場がある。

直進するとJR紀伊宮原駅だが、湯浅までの7km
を歩く。









4.紀伊宮原駅〜湯浅駅
(歩行距離: 7.0km、 標準歩行時間:2時間)

 有田川の手前、
宮川の渡し場跡


宮原橋
 (13:55)









橋を渡り、左の土手道を歩く。
「熊野古道」の道標を目印
にして右へ曲がる。











 中将姫ゆかりの得生寺



























 得生寺を出てすぐに、
糸我村の一里塚がある。











 糸我稲荷神社
日本最初のお稲荷さん。












 糸我稲荷神社の隣にある、
くまの古道歴史民族資料館
 (14:18)

 お茶を頂いた。









藤原定家の御幸記をもとにした表がよくできている。
日程、道程に定家が、寒くて持病のぜんそくが出て
たいへんだとか、風邪気味なのに上皇の命で、水垢離
をしなければならない、とか宮仕えの苦労がコメント
されている。









写真:左)
「すく熊の道」の道標












 −−−  糸我王子  説明板より −−−−−−−−−−−−−−−−−
 藤原宗忠は、天仁二年(1109)十月十八日に、有田川に架かる仮橋
を渡って、伊止賀(いとが)坂を登っていますが、王子の名は、その時の
日記には書かれていません。それから約百年後、藤原定家は後鳥羽上皇の
熊野御幸に随行して、「いとカ王子」に参っています。「糸我」王子と
正しく書いたのは、藤原頼資の日記です。頼資は修明門院に随行して、
承元四年(1210)四月二十五日に、こうの王子に参拝しています。
糸我王子社は近世には廃絶していたらしく、『紀伊続風土記』に、「廃糸我
王子」と記されています。また、この付近には、江戸時代に「水王子社」と
「上王子社」がありましたが、地元では、上王子社を糸我王子社に比定
しています。両王子社は明治時代、稲荷神社に合祀されたましたが、平成
七年、愛郷会の人たちによって、当地に糸我王子社として再建されました。
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糸我町中番の集落を過ぎる
と、新池の手前で左へ曲がる。
まもなく、コンクリートの急な道
になる。










 糸我峠 標高約160m
地道を登る。

急坂手前の休憩所

竹藪の中の急な登り道








 糸我峠
 (14:53)
峠の茶屋跡

見晴らしが良い。









 急な下り坂














 行者石
(15:06)



湯浅町吉川の集落







−−−−−−−−−−−− 説明板より −−−−−−−−−−−−
逆川王子

 藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月十八日に「逆河王子」と
書かれているのが、最も古い文献です。藤原定家は「サカサマ王子」と
呼んでいます。この王子は、江戸時代には、吉川村の氏神として祀られ、
神社が置かれていたようです。明治時代には村社となっていましたが、
明治四十三年の神社合祀で、田村の国主明神(現、国津神社)に合祀
されました。王子の名の由来は、定家が王子の近くを流れる川のことを
「水が逆流しているので、この名がある」と日記に書いているように、
付近の多くの川とは異なり西の海の方へは流れず、東へ流れているとこ
ろから、逆川と呼ばれたのです。
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 逆川神社
(15:10)

写真:右)
説明にある山側へ流れるという逆川。
今では少し大きめの側溝となってしまった。
本当に逆に流れる川なのかみたが、
流れがよどんで分からなかった。










 腰掛け石の跡


 弘法井戸










 方津戸峠 (ほうづと)
マップ中の右から3つめの
拡大図にあるか所。











 湯浅署を過ぎ、山田川に出る。
途中、銭湯を発見。
まだ営業時間には早かった。











 北栄橋で山田川を渡り、湯浅町
の町中へ通る。

 街道風情の残る街並み。










 道幅はまさに街道サイズ。
ちょっと懐かしい感じの商店が
続く。

写真:右)
煉瓦塀は銭湯の入り口。
上級者向け(?)の銭湯、
入るのはさすがにためらった。






 16:04 JR湯浅駅到着。
歩行データ: 27,500歩 6時間50分の道程だった。
マップ上の歩行距離は21.4km。

本日のルートは、急な上り下りがあるが、それだけ眺望が開けるポイント
も多く、晴れた日には気持ちの良い道であり、車の通行に邪魔される
こともなくたいへんいい街道だった。







 つづく


更新: 2021/5/24 リンク切れ修正