第 22回 暗越(くらがりごえ)奈良街道  南生駒 - 奈良・三条大路/平城宮趾   2004年4月2日


 桜が満開の頃、近鉄生駒線・南生駒駅を起点に東方向へ向かう。
暗越奈良街道は国道308号線をそのままたどれるわかりやすい
ルートで、奈良平城京趾の朱雀大路であった下ツ道と交差する場所
が奈良側の起点となる。

 暗峠の生駒側の麓(近鉄・南生駒駅)とこの起点間は、徒歩で約2時
間半(約14,000歩/9km)の道のりで、奈良側を朝の8時頃に発て
ば、ちょうどお昼時に暗峠の公園で昼食をとり、午後から東大阪側に
下りるというウォーキングに適したルートである。
 国道308とはいえ、大半のルートは道幅も狭く、交通量も少ない。


暗越奈良街道は、奈良と大坂を結ぶ最短ルートであり、往時には物資
の輸送に、旅人の往来に賑わったであろう。
しかも、暗峠の大阪側の麓から奈良側の起点までは、開発もそれほど
されておらず、街道の雰囲気を楽しめるおすすめのコースである。
暗峠だけでなく、平城宮跡までの通しで楽しむのもいい。

 今回は、前回同様、近鉄・南生駒駅を起点にするが東方面へ向かう。
その前に、駅前の弁当屋「ポポロ」でサービス弁当A(¥380)を購入。
ウォーキング開始は、遅めの11:20だった。

駅の南側にある二つめの踏切(国道308の標識がある)を渡ると、いき
なり道幅が狭い。車一台が通れる道幅だが、一方通行ではなく、地図
によっては「車両通行困難」とまで記入されているものもある。
2−3m程度の幅であり、この幅こそまさに街道サイズ。
自信をもって国道308号線をたどっていく。



 住宅街が坂道に沿って続いている、小瀬町のあたり。
コンクリート舗装の滑り止め丸印の道を進む。

この先には新しく住宅地がまとまって建築中だった。









 大瀬中学の手前で、整備された広い道路と約250m重なる。

 学校の敷地脇の歩道際の碑。
このあたりにゆかりのある万葉歌の石碑があるのだろうか。

変電所を過ぎたところで山側へ曲がる。












坂道を上っていくにしたがって眺望が開け、背後には生駒山のアンテ
ナ群がわかりやすい。そのすぐ南側のくぼみが暗峠であり、東斜面には
棚田が並んでいる。

 下の写真は県境を生駒市側から見たもの(左)と、大和郡山市側(右)
から見たものである。
「この先幅員減少」とあるが、大胆なほど減少している。
道路行政が行政単位で行われるためか、一本の道も各自治体の懐具合
によって、様相が変わる。
これは車にとってもそうだが、街道の保存、整備の状況も同様であり、
道を連続したつながりとして、もっと当たり前に扱えないものだろうか。














街道はこの先で峠となるが、暗峠ほどではないにしてもけっこう勾配がある。
大和郡山市域は県境から200mほどで、奈良市域へと入る。
 峠付近には「八十八カ所」の道標があり(写真右下)、その向かいの塀は
寺院のものだが、本堂は見あたらなかった。

 木製の道標には
南生駒 1.7kmとある。













右上の塀の端、入り口に
 「大正十三年」
 「弘法大師乗詣道」 の道標


下り道にそって数軒の集落が続く。





 木のトンネルをくぐり、下りていく。
「子供の森公園」の手前、警察犬訓練所手前で、草を食べる
山羊を発見。 どうしてこんなところに山羊が・・・。



 奈良市大和田町、近畿大学グランドが西北西に見
えるあたりに、「庚申堂趾」の石碑がある。

 その20mほど先に鳥居があり、「追分神社」の鳥居と
小さな祠が石段の上にある。
名前からすると、この近辺には暗越奈良街道の他にも
街道があったらしい。
しかし、地図にもそれらしい道は見あたらない。






 追分神社

 神社から100mほどの場所
に古い様式の家屋がある。














村井家住宅

萱葺の頂上に
桟瓦が押さえに
載っている。








−−−−−−−−−−説明版より−−−−−−−−
奈良市指定文化財
追分本陣村井家住宅
十九世紀初め〜中期
主屋、本陣座敷
付 表門、道標二基

 村井家住宅は奈良から生駒暗峠を越えて大阪にいたる
街道沿いに位置し、ここが大和郡山との分岐点であるため
に追分の本陣と呼ばれる。
 主屋の屋根は萱葺と桟瓦(さんがわら)葺きを組み合わせ
た大和棟形式で、この主屋の南東に上段の間、控の間、玄
関などからなる座敷棟が接続する。
 村井家住宅は市内では珍しい宿場建築として貴重である。
                奈良市教育委員会
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 村井家住宅の南側の二基目の道標。
 文字は判別しづらい。
その10m先に「追分梅林 記念碑」がある。(写真右下)
谷間に向けて梅林が第二阪奈道路で寸断されるまで続
いている。















 国道308号線は旧道の手前で第二阪奈道路の上を跨ぐ。
旧道はその分岐を曲がらずに道なりに進み、高速道路の防音壁の下をくぐる。
写真のように向こうの丘のくねくねと曲がった道へ続いていく。
 高速道路ができる前はこのあたり一面が梅林だった
のだろう。

 桜の満開の時期だが、1,2ヶ月前なら梅の花も満開
だったろう。










 高速道路下のトンネルをくぐり、坂を登り切ると、再び国道308号線
と合流するが、それまでは両手を伸ばした程度の道幅であり、ひときわ狭い。

 峠からは市街地が遠望され、200mほどで小集落があらわれる。













 奈良市大和田町、第二阪奈道路
中町インターチェンジ近くの集落
のどかな町並みが100mほど続く。
















 集落はずれの辻に、常夜燈、道標。

 常夜灯の基部に「交通安全」とあり、笠の部分
などの摩滅の程度からも、戦後もものではないだろうか。
ただ、道標は指の矢印が特徴的で、常夜燈より古いと
思う。
 常夜燈もよく見ると、基部の最下段とその上の摩滅度合い
が異なっているので、もともとあったものを戦後新しく同じ場所
に置いたものではないだろうか。





















 秋篠川手前で、来た道を振り返る。
写真では右手の山を下って、畑の中の道を
まっすぐ通る。
 犬が遠くを見ていた。

 富雄川を渡ると、すぐの辻にお堂、常夜燈、道標がある。








大和田町
砂茶屋










砂茶屋の地名からも、川べりに茶屋があったことが想像される。


 道標の陰の部分に基部があり、折れた上部がその脇に
置いてある。車にでも当てられたのだろう。
文字はかすれて判別できないが、渡しがあるすぐの場所に
建っていた古いものだろう。






砂茶屋の集落。
三階建ての蔵が珍しい。
道路標識では、「奈良まで6km」。



この先の、「赤膚焼窯元」
を過ぎ、第二阪奈道路を
再びくぐる。









 高架下から200mほどの場所に小さな公園を見つけ、そこで
昼食にした。
 そこから50mほどで道が分岐しているが左手に進み、五条畑
一丁目を抜ける。









 宝来一丁目、垂仁天皇陵の北側の道標。
西北西約1kmに安康天皇陵がある。
 垂仁天皇陵は堀もちゃんと残っている前方後円墳で、街道沿いから
こんもりと茂った木々が垣間見える。















 近鉄橿原線・尼ヶ辻駅前の踏切を越える。
駅の入り口に建つ道標。

 「 菅原 (喜光寺 天満宮)道
   是より北四丁余り 」



















 尼ヶ辻中町、都橋手前、新・国道308号線からの分岐道と旧・308号線とが
合流する橋の手前の三角状の場所に新しいお堂がある。
−−−−−−−−−−−−−−説明版より−−−−−−−−−−−−−−−−−

「伏見崗」と称する此処に旧跡阿弥陀堂・地蔵堂が建ち、東大寺大仏建立にまつわる
「伏見翁」縁の霊地です。

 東大寺大仏造立誓願守護のため、文珠菩薩が伏見翁に化身し、天竺五台山より
影向の霊地。
 天平十五年(743)聖武天皇は夢のお告げにより仏縁を結び、国家安泰祈願して
盧舎那大仏像立勅願を発して、行基僧正に大勧進を宣下された。
 その頃より三年間、ものも言わず食もせず、時々頭を擡げ東方の大仏営構の過程
を覗み、この崗に臥す翁を里人は、伏見翁と名付け、翁も亦、臥せる崗を自ら臥見崗
と名付けた。
 天平八年(736)印度僧、婆羅門僧正は文珠菩薩を求めて平城京に来朝。
天平十八年(746)十月、大願主聖武帝、導師婆羅門僧正、呪願師行基僧正、大仏
の前後に萬余の燈明を燈し供養を行いし後、両僧共に菅原寺に帰る途次寺の東方崗
に臥せる翁を見て両僧恭敬三拝し時、翁初めて起きあがり時なる哉と唱え三人共寺
に入り、拍板を鳴らし悦び、舞い、大仏成就を両僧に託し西方に飛び去る姿は婆羅門
僧正求めし文珠菩薩化身の姿と悟る。
 その後、三年行基僧正は菩薩となりて後入寂。 この頃より翁亦この崗で三年臥し
読経、天平勝宝四年(752)開眼供養の日に起きあがり、鯖売り翁と成りて華厳会
読師を務むれば、鯖八十匹は忽ち華厳経に転じ、杖もまた白槙木と成る。
 天平の頃よりこの崗を東大寺守護神、文珠師利菩薩影向の霊地として如来像を安置
し、供養する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 秋篠川
平城宮造営以前の秋篠川は、ここより約300m東側を流れ
ていた。
当時の平城京では、この川を利用した庭園が作られ、そこ
では宮人達による宴などが雅やかに催されたことだろう。
(秋篠川 公園脇の説明版より)












 居酒屋の駐車場に建つお堂
−−−−−−−−−説明版より−−−−
 奈良市指定文化財
石造地蔵菩薩立像
 この像は、左手に宝珠をもち、右手に
錫杖をもたない古式の姿の地蔵を厚肉に
刻んでいる。光背に文永二乙丑八月日と
いう刻銘があり文永二年(1265)に
作られたことが分かる。
 市内には石造の地蔵菩薩像が多数ある
が、本草は制作年が明らかで彫技も優れ
ており、本市における鎌倉時代の代表的
石仏のひとつである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

三条大路、三丁目、二丁目の間の交差点。
平城京の条坊制では、第二次大極殿の南にあたる。
 暗越奈良街道の終端で交差する下ツ道は藤原京の
西端、耳成山の西部からまっすぐ北上し、平城京の朱雀
大路へ繋がるとされている。
しかし、朱雀大路は大極殿(第一次)の朱雀門の南にあり、
この場所(第二次大極殿・壬生門の南)から西へ200m
ほどずれている。
 さらに、おおむね下ツ道と重なるとされる国道24号線は
この壬生門の南からさらに東へ約200m離れている。



 終点はこのあたりで、正確な場所は下ツ道次第だが、南生駒駅からここまで
約、14,000歩、2時間40分の道程だった。

下ツ道の場所を探る上で藤原京と平城京の位置関係は重要なので、別のページでさらに考えてみたい。

 飛鳥・奈良・平安時代にかけての遷都の様子



(左)朱雀門 (右)朱雀門から南方面を望む当時の朱雀大路
















更新: 2021/5/25 リンク切れ修正