〜 飛鳥・奈良時代の遷都 〜

    <街道と遷都>
 奈良には古い町並みや風景がよく残っている。
それは街道をたどるときに往時をしのぶたいせつなもので、その魅力には、訪れるたびに
心惹かれるものがある。
 その魅力をもっと掘り下げて、奈良が政治、経済、文化の中心であった時代をそれぞれ
の都と、時代的な背景をふまえて概観してみたい。

 下の地図は7,8世紀の遷都の様子を位置と順番を示したものである。
その下の表には、一行を10年単位とし、飛鳥板蓋宮から始めてそれぞれの都を時系列上
でとらえ、また近畿の3つのエリアを列に表示し移動したさまを表している。

 7世紀半ばから8世紀にかける150年の間に、実に13回の遷都が行われた。
単純平均すると、10年少々で遷都を繰り返したことになる。
  これは、「大王(おおきみ)のくに」から律令国家へと大きく変わる過程で国家の規模が大き
くなる転換期であるともいえる。
しかし、それだけでこれだけ頻繁な首都の引っ越しを説明できるだろうか。
井沢元彦の説を紹介しながら、都が移り変わった様子を、歴史的背景をもとにたどってみよう。




 7,8世紀の遷都

 数字は遷都した順番















西暦 天皇(色付きは女帝) 大阪エリア 奈良・京都エリア 滋賀エリア 社会の流れ
640


舒明・皇極”・孝徳 A難波長柄豊崎宮 645 @飛鳥板蓋宮 643 山背大兄王襲撃 643/大化改新 645 <古代天皇制>
650 斉明” B飛鳥宮 655  
660 天智 C近江大津宮 667 白村江の敗北 663
670 弘文
天武
D飛鳥浄御原宮 672 庚午年籍 670/壬申の乱 672
680 (白鳳文化)
690 持統 E藤原京 694  
700 文武 大宝律令 701/和同開珎の鋳造 708 / <律令制成立>
710


元明・元正 F平城京 710 古事記 712
720 聖武 日本書紀 720/三世一身の法 723 (天平文化)
730 藤原四子の病死 737
740 I難波京 744 G山背恭仁京 740 H柴香楽宮 744 藤原広嗣の乱 740/国分寺の設置の詔 741
大仏建立の詔・墾田永年私財法 743
/(荘園の始まり)
750 孝謙 J平城京 745  
760 淳仁・称徳 道鏡皇位事件 769
770 光仁 藤原の復権(百川)
780 桓武 K長岡京 784 藤原種継暗殺 785
790 平安
時代
L平安京 794 徴兵廃止・健児の制 792
800 天台宗 805、真言宗 806開く

    <古墳時代/大和時代 (3〜6世紀)>
 現代でも大阪上空を飛ぶ飛行機の窓から視認できる仁徳天皇陵は、5世紀前半に作
られた。
今は鬱蒼と茂る樹木に覆われているが、完成当時の様子を「近つ飛鳥博物館」の巨大
なモデルで見ることができる。
 墳丘の長さは480m、三重の堀を含めた全長は850mにも及ぶ。
建設には土地を平らにならし、溝を掘り、土を積み上げ、土留めにおびただしい数の石
や円筒埴輪を規則正しく並べていく。
その労働力の規模の大きさは、当時の大王(おおきみ)の政治・経済力の大きさをしめすが、
一方で、これだけの規模の土木工事を設計から施工までやり遂げた当時の技術水準の
高さも見逃せない。

 1600年後の現代、上空から見てもちゃんとした前方後円墳の姿をとどめるこの巨大
古墳は、当時けっして目分量やカンで作られたものではないことを物語っている。
 さらに、作る側に立って考えると、労働力の手当から、労働者の食住、必要資材の計算
と、資材、重量物の輸送など、一連のプロジェクト管理もかなりの水準にあったに違いない。
いずれにしても、「古墳時代」という後進的なイメージからはほど遠い、確立された大がかりな
組織が機能していたことの証左である。


(近つ飛鳥博物館)
仁徳天皇陵モデル
 1/150 縮尺


左: 仁徳陵全体

右: 陵の周囲に
 設けられた建設
工事のための施設



 上の表は640年代、舒明天皇から始めているが、その先代、推古天皇の時代から大王と
いう呼称に代わって天皇の称号が使われるようになった。
大王の時代は、最有力豪族として氏姓制度のトップにあり、関東以北、九州南部など国内
の統一に、大王が自ら剣を持って軍を率いる一方、宋書東夷伝にあるように、宋へ朝貢し
日本の統治者としての権威付けを求めるなど、国際外交も行われていた。
その成果の一つに仏教伝来(538年/欽明7年)があった。当時、 内政は、祭政一致の
スタイルであり、宗教的行事と政治は未分化であったので、この外来の神(仏)を受容するか
どうかという問題は、国の基本に関わる大きな問題であった。

 現代日本人の宗教感覚もそうだが、当時も外来の宗教が入ってきて始めて、従来から存在
する宗教感覚というものを再認識したことだろう。 自然を畏敬し、人間もその一部であるとする
日本人の原初的宗教感覚は、現代にも連綿として受け継がれており、古代からの生活様式や
生活感覚を今に伝えるのが神道の特徴であると思う。
仏教やキリスト教、イスラム教のように論理的に構築された宗教世界観を持ち合わせないため、
神道はつかみ所がない。しかし、「自然」を、そもそも自然の一部である人間が掌握し、完全に
コントロールできるなどとは考えないところが日本人の感覚の奥にあるのではないだろうか。
「自然は開拓する対象」とする発想がある一方で、自然を人為的にいじることに漠然とした恐れ
を抱くのが日本人の心性ではないだろうか。
こうした、現代にも残る原初的な日本人の心性を分析し、歴史観に一石を投じたのが、井沢元彦
の一連の著作である。
 それは、『言霊信仰』、『怨霊信仰』が古代より現代まで日本人の感覚の中に存在し続けていること
を解き証し、歴史の理解について、戦後のマルクス史観を「歴史の宗教的視点の欠如」として批判
する。また、資料の無いものは前後の状況からあるうることでも、歴史上も無かったことにしてしまう、
「資料至上主義」を批判する快著であり、これらの足かせをはずして歴史をなぞると、歴史教育が
答え得なかったさまざまな事柄について見事にこれを解き明かしてくれる。

 そのひとつが、「なぜ頻繁に遷都を繰り返すのか」である。
井沢説では、「権力者、皇族など力を持つ者が不遇の死に際して抱く怨念が生きた人間に祟りをなす。」
と、当時の人間は感じたという。歴史学界では菅原道真の祟りとそれに端を発した天神信仰が怨霊信仰
の始まりとするが、これは資料至上主義の欠陥とする。
祟りをなす怨霊には、これを手厚く祀り、霊が喜ぶようにあがめると祟りは静まる。それでだめなら
怨霊の居場所から人間の方が逃げるしかない。

また、「血」や「死」を「穢れ」とする感覚も現代にも受け継がれる根強いもので、衛生の知識を持っている
現代人でも、完全滅菌をしても消えないと感じる感覚がある。
「穢れ」は、禊(みそぎ)や祓(はらい)によってしかぬぐうことはできない。それでもまだ「穢れ」を感じれば、
これもまた、居場所を変えるしかない。


 <豊浦宮・小墾田宮・飛鳥岡本宮・田中宮・百済宮> 
 飛鳥の板蓋宮以前の遷都を主な出来事と合わせて列記する。

592年(崇峻5年)推古天皇、崇峻天皇暗殺のわずか1ヶ月後に(1)豊浦宮にて即位
            蘇我氏の邸宅の一部が宮殿に転用されたものとみられる。
            規模は150mx80m程度
            それ以前は、磐余(いわれ)(櫻井市)に多くの宮殿がおかれたが、ここで
            はじめて飛鳥の地に遷った。以後約100年間、藤原京へ遷るまでを飛鳥時代
            とされる。
603年(推古11年)(2)小墾田宮(おわりだのみや)に遷る。天皇の正宮にふさわしく、新たに造営
            した宮殿と考えられる。 隋との国交が開始され、隋や新羅の使いもここに参内した。
            南門を入ると朝堂が並び、その北には大門があって、天皇が座す大殿へと通じていたらしい。
            小墾田宮の位置は、飛鳥川東岸の雷丘付近と見られる。
            この宮で、冠位十二階が制定される。
604年(推古12年)聖徳太子、憲法十七条を作る
607年(推古15年)小野妹子を隋に派遣
















(写真・左)甘樫丘の北側、飛鳥川西岸より東南東を臨む。右側の小山が甘樫丘、左の小山が雷丘、
手前が飛鳥川、小墾田宮は写真・左手前のあたりにあったと推定される。現在は畑と住宅地になっている。

(写真・右) 甘樫丘の展望台より北を臨む。右手にはこんもりとした耳成山、雷丘はすぐここの
すぐ北側だが木に陰になり見えない。小墾田宮は写真右手に位置する。

630年(欽明2年)犬上御田鍬を唐に派遣。 (3)飛鳥岡本宮へ遷る。
636年(欽明8年)岡本宮焼亡。(4)田中宮へ遷る
640年(欽明12年)(5)百済宮へ遷る
644年(皇極3年)蘇我蝦夷・入鹿、家を甘樫丘に並べ建て、宮門と称し繁栄を極める。

推古天皇即位後の52年間で飛鳥エリア内で5回、宮を遷している。
この間、有力豪族、蘇我氏の力を借りて天皇を中心とした律令国家が形成された。
しかし強大化した蘇我氏は天皇家をしのぐ勢いであり、大陸では隋に替わった唐が朝鮮半島にも
勢力を伸ばしており、内外の情勢は緊迫の度合いを増してきた。

    <@ 飛鳥板蓋宮>   〜古代天皇制の動揺〜
  推古天皇の下で、蘇我氏と組んで外来文化を取り入れた聖徳太子が622年に亡くなった。
蘇我氏による暗殺説もあるが、その後、蘇我氏によって、山背大兄王はじめ太子一族は殲滅された。
(643年)ことを考えると、それが真実かもしれない。
そしてその翌々年、中大兄皇子、中臣鎌足らは、政治の実権を握り強大化した蘇我氏の中心、入鹿を
飛鳥板蓋宮で暗殺し、父の蝦夷は甘樫丘の邸宅に自ら火を放って蘇我氏宗家は滅びた。
(大化の改新 645年)。

    <A 難波長柄豊崎宮>   〜古代天皇制の動揺〜
 同年、騒然とする飛鳥板蓋宮から難波長柄豊崎宮へ遷都したが、血で穢れた飛鳥板蓋宮を捨て、
蘇我蝦夷入鹿、父子の怨霊の祟りを恐れて、遠く難波へ遷ったのではないだろうか。
難波長柄豊崎宮で、孝徳天皇が親政を行う。
655年、孝徳天皇崩御のため、兄妹の斉明天皇(皇極天皇)が重祚した。
大化の改新の暗殺事件後十年でB 飛鳥宮へ戻る。
難波の地は船で大陸と繋がっており、唐の不穏な動きから地理的に危険であるし、また奈良盆地の
各豪族との連携に於いても不便だったのではないだろうか。
また、孝徳天皇の崩御で蘇我氏の怨霊に対して禊は済んだと考えたのだろうか。

    <C 近江大津宮>  〜唐の侵略を想定し、都を大津に〜
  このころ、朝鮮半島では、新羅・唐の連合軍が、同盟国、百済を攻めており、
応援に応じて兵を出すも、白村江の海戦で大敗する(663年)
朝鮮半島の国際情勢は、当時からすでに地理政治学的に日本に直接の影響を与えた。
斉明天皇(母)から為政者としての実権を譲られていた(称制)中大兄皇子(天智天皇)は、
緊迫する国際情勢に対して敗戦の翌年、新羅の上陸地点と予想される筑紫に大規模な
防衛施設、水城を作らせ、対馬、壱岐、筑紫に防人、烽(とぶひ)を置くなどして防衛体制を
固める(664年)
 また、難波津に唐・新羅連合軍が直接攻めて来た場合、飛鳥へは徒歩の行軍でも一日
半の近さであるため、首都防衛上の理由もあり中大兄皇子は近江大津宮へ遷都し(667年)
翌年正式に即位して天智天皇となった。
これには、おそらく母方の有力豪族が大津に勢力があり、身内で体制を固める意図も
あったと思われる。
そして大宝律令にさかのぼる33年前に近江令を制定し、兵役、納税の基礎となる戸籍
を作った(庚午年籍 670年)。
 こうした国内の近代化(当時の先進国、唐にならう)は、海外からの脅威にさらされた
ことに端を発していると考えられる。
この国際情勢と国内政治の変化は、明治維新前後の様子に似ていないだろうか。

   <D 飛鳥浄御原宮 > 〜 中央集権国家としての歩み・壬申の乱〜
 中大兄皇子は称制として、母の斉明天皇から実権を受け、緊迫する国際情勢の中で
改革を推し進めていた。こうした変則的な体制は政権内部に派閥の対立を生み、急激な
政治改革は守旧派と対立し、改革派内も路線が分かれ政敵をもまた生み出すのは現代
も変わらない。
 この険悪な政治情勢の中で天智天皇(中大兄皇子)が崩御(671年)すると、弟の大海人
皇子と子の大友皇子、それらを取り巻く豪族の勢力争いのなかで、ついに大規模な内乱
が勃発した。

 大友皇子は近江大津宮で即位(弘文天皇)し、近江の政治基盤を引き継いだ。
一方その叔父の大海人皇子は、吉野の豪族勢力を頼り、政治の中心地から身を引くが、
近江朝廷が陵の造営を理由に大量の人夫を動員したことに端を発し、大和地方から、伊勢
伊賀、近江、山背、河内を巻き込む大規模な内乱となった。
 結果は、甥の弘文天皇(大友皇子)が破れ、叔父の大海人皇子は大和に入り、大友皇子
の残存勢力の残る近江から飛鳥浄御原宮に都を移し(672年)、即位して天武天皇となった。
(673年)


屋根は板葺で、「エビノコ郭」と云われる
一角が南東につきだしている。

(橿原考古学研究所付属博物館)










 (飛鳥浄御原宮趾 より南を望む。 右手が甘樫丘、左手奥に飛鳥板蓋宮趾)

 壬申の乱で有力豪族が疲弊したところで、天武天皇は飛鳥の地で、有力氏族の介入を抑
え、政治の中心を皇族でまとめた体制を作る(皇親政治)。
天武天皇は律令の編纂で律令国家としての法の整備を行い、中央に二官八省、各地方には
国司・郡司・里長を置き、中央集権の行政システムを構築した。
 交通システムとしては、30里(16km)ごとに駅を設け駅馬・伝馬の制により、中央の意志が
迅速に地方にも伝達されるようになった。
また、唐の制度にならい五畿七道の制もたてられ、国としての体裁が形作られていった。
 さらに国家意識を高めるため国史の編纂(古事記・日本書紀)を命じた。
 こうした相次ぐ改革は、最有力豪族としての古代天皇制から、日本を国家規模にまとめ、その
支配層としての天皇制へと大きく時代の様相を変えて行った。
天武天皇の病死後、皇后が遺志をを継ぎ、持統天皇として即位することで、その路線は継続さ
れ、天武天皇のデザインしたとおりに政治、経済のシステムは皇室に集中するようになった。

 こうして天武・持統天皇(夫婦)は大宮人のふるさとである飛鳥の地で、経済力を背景に白鳳
文化を開かせた。
それは(律令)国家形成期にふさわしい国家意識が高揚するなかで生まれた、新興の気風に
あふれる文化であった。
 代表的なものに、薬師寺東塔、薬師寺金堂薬師三尊像、法隆寺金堂壁画があり、いずれも
大陸風の文化の直接の影響を受けた前代、飛鳥時代のもの(法隆寺、法隆寺釈迦三尊像など、
柱にエンタシスがあり、仏像はアルカイックスマイルをたたえる)から日本人の美意識により消化
された独自の創造性が発揮された優れたものである。
 文学では万葉集の中の、天智天皇、天武天皇、額田王、柿本人麻呂、高市黒人(たけちのくろひと)
などの歌に当時の様子を垣間見ることができる。

   <E藤原京>  〜初の本格的都〜
 中央集権体制が進むにつれて、飛鳥浄御原宮が中央集権都市としてのインフラも手狭になり、
また経済力もこれまでにないほど発展したため、国家としてふさわしい大規模な都の建設にいたった。


(写真は万葉文
化館展示より)

左:藤原京
朱雀門より耳成山
を臨む

右:役人の仕事
風景





 天武天皇が着手した初の本格的な都である藤原京は、
持統天皇朝のは694年に、条坊制を取り入れた都市で、
大極殿始め官衙の建物には瓦葺きが初めて大規模に用
いられ、その数は200万枚以上と推定される。

 資料: 『よみがえる藤原宮と京 〜創都1300年にむけて』

*右下の継ぎ足したような区画は飛鳥浄御原宮のエビノコ郭







 『藤原京には六千人の官吏やその家族、商工業者、農民、僧侶が暮らし、1505戸が軒を連ねたという。
宮仕えの少女までがうらやましがられる華やかさであったらしい。 こんな歌が『万葉集』に残っている。
   藤原の 大宮仕え 生(あ)れつぐや
     乙女がともは 羨(とも)しきろかも
     作者不詳
 藤原京につかえるために生まれ継いでくる少女達は、なんとまあ羨ましいことよ』 (『こだわりの大和路』より)

 壮麗な都は、飛鳥の地から西北西5kmほどの場所に位置する。
畝傍山、耳成山、香具山の「大和三山」にすっぽり囲まれた地域に条坊が収まり、
「大和の青垣」と云われる周囲の山々がその向こうに遠望される。

 (藤原京・大極殿趾から周囲を臨む。) 西:畝傍山(199m)    北: 耳成山(140m)          東(手前右側):香具山(152m)


ー 作成中 ー




  <平城京>
































 下ツ道を考えるとき、藤原京と平城京との位置関係が重要になる。
藤原京の西端、耳成山の西側から平城京、朱雀大路にかけて北上した道が
後に下ツ道となった。

 当時の朱雀大路の道幅は発掘調査によって74mと正確に判明している。
しかし、都が移るとき、建物は解体され新都へ運ばれ、跡地は破棄され田畑になる。
当然、朱雀大路も同様の末路をたどり、往時の様子は復元された一部で想像する他
はない。

 しかし、大がかりな都を作ったものの16年で、藤原京から北北西約20kmの場所に
平城京へ遷都(第1次)する。その造成は数年前から進められていたと思われる。
 この当時の遷都は、建築物の材料(柱、屋根瓦、壁)など再利用できるものは分解して
運び、また組み立てた。
ということは、大がかりな物流があったということであり、そのためには膨大な人手と、道路
が整備されていなければならない。
 藤原京から平城京までは、同じ盆地の中の平地での移動で済み、しかも徒歩で5時間程度
の距離である。
さらに街道歩きの視点からおもしろいのは、藤原京の条坊制
 また、ここでも30年で、平城京の北東約10kmの恭仁京(京都府加茂町)へ遷都する。


−−−−−−−−−−−−−− つづく

(参考資料)
飛鳥藤原京展 (奈良文化財研究所)

「よみがえる藤原宮と京 〜創都1300年にむけて」

天皇系図(系図の迷宮) 、 歴代天皇系図(日本会議)


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