第14回 竹内街道  堺東 - 當麻町長尾神社  2003年5月6日  (更新:2005/11/7)

    海と大和を結ぶ、仏教伝来の道

 竹内(たけのうち)街道と呼ばれたのは江戸時代から
であり、このみちは古代の丹比(たじひ)道であるとさ
れている。


 起点は仁徳陵の北端、現在では榎元町四丁の西高野
街道との分岐点となる。
終点は奈良県當麻町長尾の長尾神社。
大阪府下の距離は約23キロ、奈良県側の距離は約3キロ、
合計約25、6キロの行程で、約8時間半を要した。




 街道起点の最寄駅は、南海高野線・堺東駅であり、
ここを8時25分に出発。
堺市役所を過ぎ東の住宅街へ踏み切りを渡って入ると
榎元町1丁に出る。
 住宅街で分かりにくいが、榎元町2丁と3丁の境界の
弓なりの道を進むと、榎元町4丁で西高野街道との分岐点
に出会う。 (写真・左)

商店の前に街道の標識と説明板がある。
この二股道、左が竹内街道、右が西高野街道であり、
西高野街道は中世以後、堺へ上陸した人の高野参詣の道
として発展した。大阪府下の距離は18km。



  左の台石の上の説明の碑文がある。 (以下碑文より)
西高野街道は堺から紀州の霊山、高野山に向う信仰の道です。
高野詣でが盛んだった平安末期から鎌倉初期にかけては船で
堺に上陸した西国の人たちで賑わい、物資輸送にも盛んに
利用されました。
起点は堺の大小路で、河内長野で中、東の両高野街道と合流
します。

竹内街道は竹内峠越えで堺と大和を結ぶ要路でした。
古代は丹比(たじひ)道と呼ばれ沿道には渡来人ゆかりの地も
多く大陸から仏教文化が伝えられたのもこのルートです。
飛鳥時代、遣隋使もここを通り住江津から船出しました。
ここには西高野街道との分岐点で、近くに奈良時代創建の
向泉寺跡もあります。




仁徳天皇陵北側、府道2号線(大阪中央環状線)向陵西町の
交差点で広い車道に合流する。
ここから東へ約500mで広い自動車道から別れ、黒土町の
住宅街へ入る。









府道28号線と突き当たるが、東へ二本道があるが北側のは住宅の
路地裏状の細い道で、南側の細い道を交通局検査場へ向けて
進む。 (写真左の細い道を直進する。)













長曾根町、交通局検査場の手前の古い道標。

 『右 大八まん』 とある。
示す方向の1km先に金岡神社がある。


府道28号線(地下鉄御堂筋線の地上の道)を横断し、金岡町へ
入る。
溜池の手前で上下の弓なりの道に分かれるが、北側は観音寺の前
を通り、南側は金岡小学校の前を通る。
街道は寺社の前を通るのが多いが、竹内街道は南側の弓なり道を
進む。
これは下の金岡小学校の研究発表の地図による。



金岡小学校の正門脇の塀に
郷土史研究発表がしてある。
タイル焼で内容も立派なもの
である。
地図と見比べて現在は溜池
が随分埋め立てられている
ことがわかる。








金岡神社。 竹内街道は神社南側の道(左の写真、鳥居に続く
石柱の並び右側の道)


     金岡神社の説明板の引用
主祭神は底筒男命(そこつつおのみこと)、表筒男命(おもてつつ
おのみこと)、素戔鳴命(すさのおのみこと)、大山昨命(おおやま
くいのみこと)、巨勢金岡(こせのかなおか)を祭る。
 このあたりは昔、河内国八上群金太郷とよばれ、河内絵師といわ
れる人々が住み、これらの人々は優れた絵や彩色などの技術を
持ち、奈良の大仏殿の絵を描くなど活躍した。
 その中で特に優れた金岡は絵所長者といって絵の仕事をする
役所で最高の位を極めた。



家原寺(えばらじ)の重要文化財 行基菩薩行状絵巻伝も金岡の
筆によると伝えられ、またこの地区に、金岡が筆を洗ったという
金岡淵という地名が残り、巨勢金岡ゆかりの地とされている。
 巨勢金岡の業績を称え当社の祭神として祭っている。
当地には、かつて頭正院という神宮寺があったが、明治初年
(1868)の神仏分離令により廃寺となった。
 その後明治政府の神社合祀策により同40〜41年(1097〜
1908)に南八下村の菅原神社・熊の神社・金峯神社・八幡神社・
八坂神社二社・金岡村の長曾根神社・北八下村の河合神社・
須牟地曾根神社・八坂神社三社をそれぞれ合祀した。
 例年5月3日に絵画・技芸の上達を願い画神際が、10月10日
には大祭が行われる。




巨勢金岡 : 9世紀末、平安前期の画家。
生没年未詳。宮廷画家としての名声を博し、多くの伝説を残す。
確証のある作品はないが、唐絵の大和絵化を始めた代表的画人。
その系統は巨勢派と称される。 (数研出版・日本史辞典より)

(写真・左) 拝殿奥の本殿。
切妻造りの本殿が2棟並んでいるのが珍しい。

ちなみに、鳥居は笠木(鳥居並行の木、上段上層)、島木(それに
合わさる横木)の先端が斜めに切られている、「八幡(はちまん)鳥居」の形式。

 お参りを済ませ、神社南側の道を進む。
歩道はブロックで舗装され竹内街道であることが分かるようにしてある。



















金岡神社から東へ200mほど行くと大泉緑地の南側を走る府道2号線(大阪
中央環状線)に合流するが、横断して大泉緑地沿いの道へふたたび分岐する。

中村町を抜け、野遠町、金岡中央病院を越えたところで道が分岐するが、南側
の道を行く。

このあたりは溜池が多く、かつては田んぼが一面に広がったのどかな風景
だったろう。








西除橋を渡って松原市へ入る。
小工場、住宅がつづく。














南北に通る309号線と丹南1丁目で交差する。 (「丹南北」交差点)
いったん広い道にでると、歩道を渡った狭い道が竹内街道なのか、
迷うが、それは錯覚。
それほど現代の広い車道から比較すると、この由緒ある街道も狭く感じる。













松原市岡の松原南図書館前にあった道標。

  右 ひらの
     大坂

  左 さかい


この道標の上に、街道の案内プレートと略地図が
据え付けられていて、親切。
できれば、道が分岐するところや大きく曲がるなど
迷いやすいところに現代の道標があれば、街道歩き
には迷わなくてありがたい。
しかし、年とともに失われつつある街道、あれこれ
地形などから、推測しながら街道を探すのも
それはそれでまた楽しみがある。




立部で阪和自動車道の高架下をくぐると、街道は南東の方角に曲がる。
美原ロータリー、高架下をくぐってすぐ南東へ向けて(左写真では正面の道)
31号線(堺羽曳野線)を渡るともう羽曳野市。













新ケ池(左写真)の北側に沿って東へ回り込み直進し池の東端で168号線
(群戸大堀線)に出る。
そこで直進する道はすぐ近くの池で北へ曲がり31号線と合流してしまうので、
一本南側の道を東へ進む。












そこで、池に面した神社があった。
「日吉神社」
このあたりで11時を回る。堺東からは2時間半経過した。


羽曳野市樫山から東除川に架かる伊勢橋を渡る。
橋のたもとには架け替え前の古い端の欄干が道標のように保存してあった。

(写真下段右)
 左 :  伊せはし
 中 :  不明 (年号らしい)
 右 :  伊勢橋




橋の名前からしても
竹内街道が江戸期には
伊勢参りの主なルートの
ひとつであることが分かる。












伊勢橋をわたるとすぐに南側の民家の敷地内に道標があった。
場所的にいって、街道沿いから移設したものらしいが、犬が吼えるので
街道から撮影。

(久延毘古様からのご指摘) 「失われた街道を求めて」
写真手前の広い道は大正時代の道路拡張工事で造成されたもの。
本来の竹内街道は車道から右手(写真の坂道)を行き、道標を左手
へ進む。 その先に『日本書紀』去來穗別(履中)天皇即位前紀に登場
する、「埴生坂」がある。
* ご指摘ありがとうございました。街道本来のコースと違った紹介
をしている箇所があれば訂正し、今後も正確を期したいと思います。
*使用地図には記載がないが、この区間は南側に迂回するように
旧道が50mほど続く。



野々上4丁目の190号線(西藤井寺線)と交差する場所に木製の常夜燈
を発見。左の写真では左に曲がると野中寺が50m先に見える。
このあたりは野中寺の寺域であったらしい。

足元の石柱に 「元野中寺伽藍」 としるしてある。











ちょっと寄り道して野中寺を道路越しに見る。
先を急ぐので寄らずに東へ道路を渡る。
コンクリート作りの古びているがしっかりした造りの公民館があり、
そこの説明板には、先人が開拓した農業用の溜池のおかげで町は開け、
今またその溜池を埋め立て土地を売ったので、こんな立派な公民館が
できたという内容が記してあった。

平野が続き、水利に恵まれたこの一帯は古くから豊かな農業地帯だった
ことが想像できる。
しかし、溜池の多くは埋め立てられ、住宅地、商業地となってしまっている。

竹内街道はこの野中寺の方へ曲がらず、常夜燈のあった場所を東へ直進し、
仁賢天皇埴生坂本陵(前方後円墳:藤井寺市)の手前を迂回するように南東
へ回り込み、峰ケ塚古墳の北側で31号線に合流して東行する。


街道からははずれるものの、野中寺からそのまま
東へ500mのところ、応神天皇陵の南側に誉田八幡宮
があり、今日はそこで参拝して昼食にすることにした。
常夜燈のある交差点を竹内街道と反対に北側の道を
入る。
すぐ南には墓山古墳が位置する。

このあたりは街道風景を思わせる古い住宅街であり、
道標もあった。

 すぐ  ふじい寺
      大坂

実は、歩いているときは、誉田八幡宮へ通じるこちら
の方が街道だと思っていた。
しかし、古市に設置してあった説明板でこの道は街道
ではなく、上に説明したルートが竹内街道である。
* (久延毘古様からのご指摘) 「失われた街道を求めて − 竹内街道」
羽曳野市野々上4丁目4に入ってすぐの道を南下する。地図には道を挟んで烏帽子型の池が南北に道路に
両断されてあるが(北側が廻鶴池、南側が高松池)、廻鶴池の西側に沿って南下する。
高松池の北東あたりで、南東へ曲がるり、府道31号線に合流する。
期間限定のサイトにこの区間の詳しい説明を写真付きで案内いただいた。
写真を見ると、民家の階段のようなところをあがったり、池の脇の狭い道だったりと、
非常に分かりにくい区間だ。
このあたりは、現在では住宅地だが、ため池の点在する様子から判断して以前は一面の田が
広がっていたのだろう。公民館の説明板にもあるように農業用水の確保のために池が新たに
作られるなど、ずいぶんと道も変遷を余儀なくされた様子が想像された。

ご指摘いただいた箇所を以下に引用させていただきました。
(野々上4丁目からはびきの1丁目、府道31号線までの間の詳説)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−(リンク先に写真付きで解説があります。)
池の南端のT字路、街道は直進。
左折すると仁賢天皇陵の御拝所。
T字路から左を見ると、民家の屋
根越しに仁賢天皇陵が見える。
住宅街に入り道は下り坂、カーブ
ミラーのあるT字路を直進
緩やかな下り坂から急な下り坂になる。
急な下り坂を、左にカーブを描き
ながら下っていくと、広い道路に
出る手前、右に階段がある。街道
はその階段を登る
階段を登ると右側は池。
フェンスに挟まれた細い道を進む。
細い道を抜けると左は新興住宅地。
新興住宅に沿って広い道を進む。
広い道路に出て左折(東進)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


羽曳野市誉田3丁目のあたりで北側に応神天皇陵が畑の向こうに見える。
誉田八幡の場所は地図の記号の位置がずれいて、通りがかりの人に場所を
尋ねたら「八幡さんですか。もうすこし先の方です」と親切に教えてくれた。












  〜 誉田八幡宮 〜
 誉田別命(こんだわけのみこと)(応神天皇)を祭神とし、永享5年(1433年)
 につくられた『誉田宗廟』縁起』には、欽明天皇が命じて応神陵の前に営んだ
 社を、後冷泉天皇の頃(1045-65)になって、南へ1町(約109m)離れた現在
 の場所へ造り替えたことが伝えられている。
  鎌倉時代から室町時代にかけては、源氏の氏神である八幡神を祀る社として
 幕府の保護を受けて大いに興隆したが、戦国期にはたびたび合戦場となって
 兵火にかかることもあった。
 その後、豊臣氏からの社領の寄進や江戸幕府の庇護のもとに、社殿の再建と
 整備が進められた。『河内名所図会』や天保9年(1838年)の『河内国誉田
 八幡根本社内之図』を見ると、本社や摂社、神宮寺の塔頭など、多くの建物が
 並び、山系の人々で賑わうようすがしのばれる。
   源頼朝の寄進と伝えられる神輿や、丸山古墳で出土した鞍金具などの国宝
 重要文化財の『誉田宗廟縁起』や『神功皇后縁起』など、多数の貴重な文化財
 が社宝となっている。


 竹内街道からは外れてはいるものの、伊勢参りの参詣者ならおそらくこちらの道を
通って誉田八幡にも参詣したに違いない。



誉田八幡宮東側の門の外側の道は
東高野街道。
東高野街道を南へ進む。













誉田2丁目の道標2基

  左側の道標
    柏原 大阪方面
    藤井寺大阪方面
 大阪の字体からすると明治以降のものか。

  右側の道標
    すぐ大峰道
    右大峰山
こちらの道標の方が古い





東高野街道の説明版
誉田八幡宮のにぎやかな様子。
山車を大勢の人が引いている。
説明文は誉田八幡宮について。













近鉄南大阪線道明寺駅、古市駅の間、古市駅よりで南方向へ横断する。
踏み切りの向こうは古市1丁目。
この道は東高野街道。












踏み切りを渡ってすぐに駐車場のフェンスの前に設置された説明板。


  〜 「古市代官屋敷跡」 〜
 江戸時代、古市は竹内街道(大和街道)と東高野街道(京街道)が交差し、
 石川水運の剣先船(長さ13mの浅瀬用の運送船)や石川の野通し船
 (渡し船)の船着場などがあり、水陸交通の要地として非常に大切な地で
 あった。このため、江戸時代中期以降、古市村と誉田村との中間にあたる
 この地に「上方代官所」を設け、古市は天領として支配された。
  幕末には十津川で捕らえられた天誅組河内勢の志士たちの厳しい取調
 べもここで行われた。





古市は鍵形に道が曲がっているが、始めの曲がり角に西琳寺(さいりんじ)
がある。
 〜 西琳寺 〜
  飛鳥時代(7世紀前半)の創建。寺伝では百済から渡来した王仁(わに)の
 子孫である西文氏(かわちのふみうじ)が、欽明天皇の頃(6世紀中ごろ)に
 建てた寺とされている。
  これまでの発掘調査によれば、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍
 配置が推定され、境内には舎利孔と添柱穴をもつ巨大な塔心礎が残っている。
  金堂の棟を飾っていたと考えられる鴟尾は高さが1.3mあり、腹部に宝珠、
 火焔宝珠、蓮華紋などを浮き彫りにした、類例の無い優品である。

 鎌倉時代には奈良最大事の僧叡尊が中興し、広い寺領を所有して隆盛をきわ
 めた。



王仁といえば、日本に漢字を伝えたとされる渡来人、阿直枝(あじき)とならんで
論語(儒学)・千字文を伝えたとされている。
西琳寺の創建は6,7世紀だが、王仁が難波津で船を下り、竹内街道を通って
大和の朝廷へ歩いたのは応神天皇の治世である4世紀末。
このあたりには古墳が点在するが、王仁の子孫の寺と応神天皇陵は700mほど
しか離れていない。
かつて先祖が使えた天皇の陵の側に、子孫が住まいつづけたことになる。
ちなみに、仏教が百済経由で伝わったのは6世紀中期なので、王仁はその200年
前に儒教をもたらしている。
 日本への外来思想の一番乗りは儒教となるが、これは政治思想として受け入れ
られ奈良に大学、地方に国学を設け行政担当者教育の背景となった。






西琳寺門前の道標

ここからわずか30mほどで鍵型に折れる蓑の辻にでる。

















古市、蓑の辻
竹内街道、東高野街道が交わる。
江戸時代の両替商銀屋の建物
は取り壊されたらしい。
ここで説明文を読んでいると
地元のおじいさんが声を掛けて、
そう言っていた。
跡地らしい場所には道路を新しく
つけて新建材の住宅がまとめて
建築中だった。惜しいことをした。







蓑の辻でもとの竹内街道へ戻り、東行すると、石川に出る。
街道は渡し舟などを使ったと思われるが、20mほど北側に
ある臥龍橋を渡り、また20mほど南に戻り166号線に重なる。












東岸の川沿いの道が166号線
と分岐するところにある道標

 右の道標
  日本最初大黒天通 是より五丁

 左の道標
  右法華寺 江 是より七十丁
  (安政6年)
  大阪の法華信者が建てたもの

近鉄南大阪線の北側の道(国道166号線)を行く。国道といっても道幅は狭く
街道らしい、というか国道らしくない。逢坂橋から100mほどに杜本神社がある。



  〜 杜本(もりもと)神社 〜
 杜本神社は駒ヶ谷の宮山の頂上近くに位置し、現在の祭神は経津主命(ふ
つぬしのみこと)、経津主姫命(ふつぬしひめのみこと)とされていますが、平安
初期には百済宿禰永継(くだらすくねながつぐ)とその祖先の飛鳥戸氏を祭る
神社でした。永継の子・冬嗣は、娘の順子と仁明天皇との間にもうけた文徳
(もんとく)天皇が即位すると、外祖父として宮廷の実権を握ります。そして、
永継とその祖先神を祭っていた杜本神社は、大・小の官社(式台社)とその
祭神を記した平安時代前期の「延喜式」「神名帳」の明神大社として、宮中の
月次祭(つきなみのまつり)や新嘗祭には朝廷の勅使が派遣されました。
 織田信長の高屋城攻めの兵火を受けて焼失しますが、江戸時代に金剛輪寺
(宮寺)の住職・覚峰によって再興されて現在に至っています。
例祭は春が、4月8日、秋が10月7,8日で、後醍醐天皇や後村上天皇の
書状、人身獣面の「隼人石」などが残されています。



月読(つきよみ)橋を渡る。















街道を東に向う。道の向こうにある山が二上山。
竹内峠はこの山を越える。














近鉄・上ノ太子駅前を通る。
この先で踏み切りを越える
と50mほどで、南河内郡
太子町春日に入る。

駅前の案内板でルートを
確認する。

街道は踏切を越えて初めの
信号で国道166号線と分岐する。
信号を直進。





太子町では竹内街道が色分け
されて舗装されているので、
分かりやすい。













太子町のマンホール蓋
「和を以って 貴しと為す」 十七条憲法、第一条が町のあちらこちらの
道路にある。













春日の街道風景。

だんだん上り坂になってくる。


道標
左 いせ@@@









案内板が何箇所かあり、
参考になる。
太子町近辺だけを散策する
というのもいいコースかも
しれない。











町役場のあるあたりで六枚橋を渡り、
国道166号線を2,30m重なったあと
また分岐する。

さらに坂道を登っていく。
















餅屋橋の道標をすぎて坂道をさらに登ると
竹内街道 歴史資料館への道しるべがある。


だんだん雰囲気が街道らしくなる。
写真下段右)珍しいわらぶき屋根。
その向こうに平野がかすんで見える。






























常夜燈




街道から脇にそれ住宅道路を登ると開けた土地があり、そこに竹内街道
歴史資料館がある。
あいにくこの日は休館日だった。 残念。


街道に戻り50mほど上ると国道166号線に合流する。
その手前に道標2基
下段の写真左・中)  大坂講中とあるので、伊勢講が道しるべとして
設置したものか。




























国道との合流点。
歩道がなく大型車の通行が多いので、注意する。














竹内峠
昭和59年に掘り下げられ、旧道は南側の道(写真右手のガードレール)
ここから、奈良県當麻町へ入る。



地図には載っていなかったが、奈良県側へ下りはじめてすぐにカードレール
で通行止めにしてある道があり、これが旧道と思われる。
国道の下をくぐって林道を下る。








夕方4時近く、日も傾きつつある。
人気のまったくない道を行く。













林の途切れるところから道の南側に
トンネルが掘削されている工事現場。
バイパスらしい。












林道を1kmほど歩き、池のあたりで再び国道と合流する。





菅原神社(左手崖の上なので過ぎてしまわないと分からない。
後戻りした)のあたりで、街道はまた国道から分岐して、
風情のある当麻町の街並みに入っていく。

ここから500mくらいの間は街道風景が楽しめる、
落ち着いた街並み。


























地図では直線になっているが、
突き当たりの辻を北よりの道
へ曲がって進む。












木が生い茂っている場所があり、竹内街道
の終点である長尾神社にたどりついたらしい。
しかしこの道沿いには鳥居は無く、突き当たり
を右(南)へ50mほどのところに鳥居があった。
到着は16:45











 近鉄南大阪線 磐城駅は長尾神社から50mほど。


  竹内街道の起点である、堺東から終点まで8時間15分の行程だった。
  万歩計のカウンタは 37,717歩 (1,514Kcal) 約22km強

 竹内街道はそのまま横大路に繋がっており、伊勢参宮のときの開始点
だった初瀬街道まで伸びている。
次回、横大路を歩くと、これで堺東から伊勢神宮まで徒歩での街道踏破を
達成することになる。




* お伊勢詣りルート (横大路へつづく)



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