第 51回 歌姫街道/山背(やましろ)古道  平城宮跡 - 城陽市   2006年10月16日


 秋の気持ちのよい季候は街道歩きのベストシーズンである。
奈良盆地南部や、紀ノ川の南部方面では柿や蜜柑の収穫の
時期でもあり、その風景はまた香りとともに楽しませてくれる。
 そんな時期、比較的手軽に行ける奈良の北部へ、秋の景色
を期待してでかけた。

 奈良盆地の北側、南山城の東の山裾、木津川の東岸を北上
する道を山背古道として自治体が中心となり整備している。
山の辺の道の北側に繋げ、山城へ向かう古代の道を再現しよう
としている。
 熊野古道のように平安時代から近世まで続いてきた道は
よく残されているものの、さすがに飛鳥時代やそれ以前の古道
はもう、考古学の世界に属するので地層の下を掘るしかない。



 しかし、山の辺の道(北部はほとんど消滅)の北端から伸びる
道があることは充分あり得ることであり、木津川の流れや、
巨椋池を迂回することなどから東の山裾沿いに古道があった
ことは確かだろう。
 ここでは、考古学的な考証は専門家にまかせて、古代の人々
も眺めたであろう古道からの遠景を楽しみながら歩いてみる。

 街道歩きの時に楽しみでもあり悩みの種となるのが、現代
でも歩けるコースを探すことだが、山背古道には詳細な地図が
PDFファイルで提供されており、これを使った。
 山背古道 山背古道探検地図
 (pdfファイルA4 9ページ 16MB)




 歌姫街道
平城京の北側から延びる道で、下ツ道の北部へ延びる延長
である。上の写真は朱雀門で、平城宮跡の北側には第一次
大極殿が現在復元されつつある。写真:左は大極殿の東脇
から北へ延びる県道751号線が、歌姫街道と比定される。

 都の造営工事には木津川の水運を使って大量の木材を
運び入れ、山裾の瓦窯からは何百万枚もの瓦が運びこまれた。
近世の街道は道幅が5,6mだが、古代の官道は唐にならい、
数十メートルの幅を持つ直線の道が作られた。
 現代の歌姫街道は対面1.5車線の舗装道路で、北部の
住宅地からの通勤の車両で混雑する道だった。




 近鉄大和西大寺に7:35に到着し、平城宮跡へ向かう。
復元工事中の大極殿の東側、駐在所前の信号のある交差点
から歌姫街道へ入る。
8:00に歌姫街道を歩き始める。

街道の名の由来だが、これは雅楽寮から由来している。
緩やかな丘陵にはかつて、宮殿や池、官署のある松林宮
があり、雅楽に携わる楽人や歌舞を行う女官が住んでいた
ことに由来する。
 30分ほど歩いたところに添御縣坐神社がある。
歌姫越えとも云われるが、この先で緩い下り坂になっている
程度で高低差は少ない。



















−−−− 説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
延喜式内 添御縣坐神社 (そうのみあがたにいます)
祭神 速須佐之男命 (はやすさのおのみこと)
   櫛稲田姫命 (くしいなだひめのみこと)
   武乳速命 (たけちはやのみこと)

 祭神・速須佐之男命は皇祖・天照大神の弟神櫛稲田姫命は、速須佐之男命によって八岐大蛇
の難をのがれ、命の妃となった姫神。武乳速命は添え御縣の池の租神です。

 延喜式の祈念祭の祝詞によると、御県の神は代々天皇の午前に野菜を献上したと記されています。
また祭神・櫛稲田姫命の神名は「奇し稲田」が原義でその神格は農の神であります。
 当神社は、大和平野中央を貫く古代の下つ道の北端に位置します。そして、大和から歌姫越えで諸国へ
旅をする際に、国教に鎮座する手向けの神として尊崇されていました。万葉集に左大臣・長屋王の詠んだ
つぎの歌があります。

  佐保すぎて 寧楽の手向けに 置く幣は
    妹を目離れず 相見しめとぞ

 この歌は、大和と山城の国境いの神、添御県坐神社を拝し、旅の安全を祈念したものと考えられます。
 当神社は、格のある式内社・御県社の一つとしてだけではなく、農の神、旅の神として崇敬されて
きました。江戸時代には「牛頭天王社」「八王子社」として除災・治病の神としても信仰されてきました。
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左:
歌姫町


右:
県境。ここから
京都府に入る。
(8:48)








 歌姫町で道が大きくカーブ
すると、左手に新興住宅街が
広がり木津町へ入る。(8:48)

写真:上右の場所から道路の
反対側には、写真:左の県境
石がある。
稲の刈り入れの最中で、ところ
どころで、籾殻を燃やす匂い
も秋を感じさせる。

歌姫街道としては1時間弱の道程
だった。





木津町、国道
163号線沿い
の風景

山背古道に
接続するべく
東へ進む。






<山背古道のマップ7ページ参照>
 山背古道のマップ8ページからたどっていくが、その
南端と歌姫街道(県道751号線)は木津町内で約1km
の間隔で繋がらない。
 千数百年前の道だから、木津川やその支流も流域
を変えてきたことだし、ここはあまりこだわらず、
京奈和自動車道の高架下から斜めに東行し、国道163
号線を進み、24号線と直交する手前約200mから
マップ中のルートをたどる。
 マップに「いずみホール」と記された場所の南側道が
この163号線である。交差点には、マップ中にはないが
コンビニがあり、店内には椅子とテーブルがあって中で
食事もできる。 肉まんを店内で食べて小休止。
(9:27) 写真は北行してすぐのお堂。



木津町
商店街
虫籠窓
の商店が
続く。

写真:右
魚屋さん








マップではJR片町線の手前で右折するが、線路を
越えてしまうと清瀧街道で通った見覚えのある料亭と
常夜燈が見えてきた。
 かつて木津川に渡し船があったときの灯台である。

その近くには和泉式部の墓を祀る寺もある。
(写真:左下)

 堤防沿いの道を行き、泉大橋で木津川を渡る。
(写真:右下)は往時、渡し船があったあたりの様子。
泉大橋から撮影。
橋を渡るとすぐに左折して堤防沿いの道を行き、
2つめの降り口を泉橋寺の脇へ下りていく。



左:泉式部の墓
があるとされる。




右:泉大橋を渡る
(9:50)









左:泉橋寺の
塀に沿って行く

右:門の脇に
ある石仏地蔵









−−−−−−−−−−−−− 説明板より −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
泉橋寺
泉橋寺は、奈良時代の高層・行基にyほって木津川に架けられた泉大橋を守護・管理するために建立された
寺院である。
 その門前にある地蔵石仏は、永仁3年(1295)に石材が切り始められて、その一三年後徳地三年(1308)
に地蔵堂が上棟・供養されたもので、またその願主は般若寺の真円上人であった。その時、地蔵石仏の本体は
ほぼ完成していたとみられるが、台座と光背、その後に完成が目指されたもので、この地蔵石仏の造立がいか
に大がかりなものであったかが偲ばれる。
 1470年頃から応仁の乱の影響が南山城地域にも及び、文明三年(1471)に大内政弘の軍勢が木津や上狛
を攻めて焼き払った際に、泉橋寺地蔵堂も焼かれて石仏も焼損、それイラ地蔵石仏は露座のままとなっている。
 現在みる地蔵石仏の頭部と両腕は、元禄三年(1690)に補われたものである。
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 宇治の南に位置する山城町は
茶の流通を担った町として繁栄した。
現在もお茶の卸を商う店が街道
沿いに並んでおり、抹茶の香りが
漂ってくるなど、落ち着いた街並み
の景色だけでなく嗅覚でも楽しめた。

 JR奈良線・上狛駅の西側に広がる
街並みの様子。

左:「山城茶業之碑」








左:
山城町郵便局
ポスト脇に
「旧上狛町役場
跡」の石碑。








左: 山背古道の案内地図。
地図右上の水色が琵琶湖。
左の灰色が京都市街。水色の太線が
高速道路。細線が河川。下の中央に
ある白抜きのエリアが山城町。
山背古道は緑色の線で、蛇行しながら
南北に延びている。


右:
お茶の卸店の軒先にあったお茶の
自動販売機。一袋500円。

左下:
上狛小学校に隣接する「なでしこ公園」
きれいなトイレもある。





右:
マップにある
「坂田商店」
ここで山背古道
の地図(350円)
を買う。
店のおばさんが
親切にこのあたり
の見所を教えて
くれた。
古道は商店の右
側の道を進む。
(10:20)



<山背古道のマップ6ページ参照>
左:
道路に埋め込まれた山背古道の
標識。城陽市まで同様のマークが
所々にあるが、曲がり角など必要な
箇所に無い場合もあるので、地図を
頼りにしたほうがいい。

右:
山背古道の案内石柱
これも所々にもうけてある。
迷ったかなと思うときに、路面マーク
や石柱を見つけるとホッとする。



山城町上狛
から椿井(つばい)
にかけて。

左:
JR奈良線の西側
を歩く。

右:
ちょうど秋祭りの
時期で、多くの
家々には御神燈
が掲げてある。



左:
山背古道は直進
するが、左の道
を行くと椿井大塚
山古墳がある。
全長185mの
前方後円墳。
大和とも近く、
北部には橘氏の
基盤もあり、
古くから豪族の
拠点のひとつと
なっていた。



 木津川を渡った泉大橋の東には、
恭仁京跡もあり、さらに南の天理市、
石上神宮は物部氏の拠点でもある
など、大和盆地の山裾沿いには古代
から豪族の勢力圏が並んでいた。
 平地を避けたのは防御上の必要性
からであったろう。

左: やすらぎタウンコミュニティ広場
のあたり。交差点で左側の道へ曲がる。

右: 曲がってすぐに 春日神社がある。
(10:37)



右:
山城町平尾で
JR線の高架を
くぐり、東側を
線路に沿って
北行する。










JR棚倉駅前に
ある湧出宮
(わきでのみや)
本殿は元禄5年
の建築で、三間社
流造。
延喜式内社
ここも参拝を
していく。







左:
JR奈良線棚倉駅


右:
マップの拡大図
のあるあたり。
踏切を渡り、
線路の西側へ
出て一つめの
角を右折する。





<山背古道の
マップ5ページ
参照>


左:
蟹満寺近くの
遠景。山裾を
古道は続く。

右:
蟹満寺
(11:26)




蟹満寺
(かにまんじ)
山城町綺田
(かばた)
真言宗。
創建は飛鳥時代
秦氏によると
伝承される。







かつては紙幡(かみはた)寺、蟹満多(かにまた)寺とも呼ばれていた。蟹満寺とはおもしろい名前だが、
地名の綺田(かばた)と音も似ており、「蟹の恩返し」の説話(「今昔物語」「元亨釈書」にも出ている)が
広まって人の口を介すうちに通称が名称になったのではないだろうか。

−−−−−−−−−−−−−「京都府の歴史散歩(下)より」抜粋−−−−−−−−−−−−−−−−−
蟹の恩返し: 昔、観音を厚く信仰していた父と娘がこの地に住んでいた。ある日、娘は村人に捕らわれて
いた多くの蟹を助けた。その後、娘の父親も蝦蟇が大蛇に呑み込まれようとするのをみて、大蛇に娘をやる
と約束して蝦蟇を助けた。数日後、若者の姿をした大蛇が娘をもらいにやってきた。2人は一心不乱にお経
を唱えて大蛇が退散するように祈ったが、大蛇は怒り狂って暴れ回った。しかし、しばらくして静かになったの
で、外に出てみると、無数の蟹と切れ切れになった大蛇の死骸があった。2人は蟹と大蛇の霊を弔うために、
蛇を葬った所に寺を建てた。これが蟹満寺であるという。
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これは殺生を戒める仏教説話だが、別の視点からみると、漁の獲物を逃がした娘も悪いし、カエルを助けるため
に蛇に安請け合いをした父親も悪い。八岐大蛇もそうだが、昔話では蛇はたいてい簡単にだまされて最後は
ぶつ切りにされている。蛇が人の姿をして現れるというのも上街道の箸墓古墳の伝説にあり、古代、中世までの
感覚には、蛇には特別な霊性を見ていたのだろう。
 気候変動と人類の生活・歴史の関係を科学的に解明する環境考古学を確立した安田喜憲は「森を守る文明・
支配する文明」のなかで森を象徴する生き物として蛇を挙げ、蛇信仰が古代のギリシャ・ローマ・ヘレニズム世界
に広く見られていたことを示している。自然を支配の対象とした都市文明の発達により欧州、中東からは深い森
が姿してしまった。 戦後、大きく変貌した日本でも自然破壊が進んだが、まだかろうじて森を守る文明は残って
いる。 街道歩きで、蛇とは極力出会いたくないものだが、森を守る文明の復活はぜひとも望みたい。


−−− 綺原(かんばら)神社由来  説明板より −−−−−
 ここに鎮座されます、綺原神社は、「大日本史」、「日本書紀」、
「延喜式」にも綺原座伊那太比売(かんばらいにますたていなだひめ)
神社として、記述されており、祭神は、「タテイナダヒメ」とされ、
タテは健康、イナダは稲田で、達者で農耕にいそしめるよう祈願
されたものだと考えられます。
 ここの地名「綺原(かばた)」は、その昔、紙織(かびはた)または
神織(かむはた)とも呼ばれ、神に献ずる衣服を織る技術者及び
養蚕技術者を祀った社とも言われており、綺(かば)氏一族(秦氏
一族)の創起だと言われております。
 現在は、菅原道真公を祭神とする天神社及び八王子社を併せ
ておまつりしております。
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左:
不動川を天神橋
で渡り、右折して
北行する。

右:
井手町の手前、
渋川で、川沿い
に逆「く」の字型に
曲がる。
写真はマップ中
の拡大図の箇所
(11:40)



 竹林を右手に見ながら1,2分進み、小橋を渡り用水路に沿って
東へ戻る。地図では渋川となっているが、砂防地区に設けられた
用水路なので川を目印に探すと行き過ぎてしまう。
この迂回路は竹林を避けるためのもののようで、古道とは関係が
ないと思う。
 次の橋を渡り、左に曲がってすぐに北へ向かう道を進む。
ふたつめの分岐を右に曲がる。(写真:左)
 看板の下に古道の標柱がある。
(11:51)







<山背古道のマップ4ページ参照>
井手町にある橘諸兄の墓の近く。
 奈良時代、皇族出身の橘諸兄は天平元年に山背国班田使に任命
されると、木津川を眼下に望むこの地に居を構え井手を橘氏一族の
本拠地とした。
 天平9年(737)に猛威をふるった天然痘により、権勢を誇った藤原
不比等の四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が相次いで亡くなると、
政界の中心に就いた。その権勢は757年、諸兄の子、奈良麻呂が、
再び勢力を伸ばしてきた藤原仲麻呂を打倒すべく計画したクーデターが
発覚し、一族が処分されるまで続いた。(橘奈良麻呂の乱)
 橘諸兄が聖武天皇を補佐したこの20年あまりの間に、律令国家の
経済的基盤である班田は、三世一身の法(723年)につづき、墾田永世
私財法(743年)と、公地公民の原則は崩れて荘園制が拡大していった。


 さらに、天平12年(740)には、藤原広嗣が唐への留学帰国組である、
玄ム、吉備真備が聖武天皇に重用されていることに反対し、大宰府で
挙兵し、その余波で藤原氏と対立した長屋王が自死させられるなど、
不穏な政情が続いた。 (藤原広嗣の乱)
 そのために、聖武天皇は都をまず恭仁京に移し、さらにその後、柴香楽宮
難波京と移した。
 荘園制を背景にした藤原氏など有力臣下の経済的な台頭に対して、強権
で押さえることのできなかった天皇は、対抗策としてこれらの遷都が企図
されたのではないだろうか。

 もう一つの対策が、当時の最新科学である仏教の力を借りて難局を
乗り切ることだった。聖武天皇は、国分寺建立の詔(741年)、盧舎那仏
建立の詔(743年)を出すなど海外留学組を重用した仏教による鎮護国家
の政策を進めた。



 「平安」、「天平」、
「大仏」とくればのんびり
した平和な時代を想像
するが、実際はその反対
だったからこそ、「かく
あれかし」と、都の名前
や元号を付けたのでは
ないだろうか。

 橘氏の本拠地、井手
から北西方向。
平城京からは徒歩4時間
の距離 (12:00)



 玉川を橋本橋で
渡ると直進の道は
工事中だった。
迂回すると、すぐに
井手町まちづくり
センターがあり、
ここでは無料のお茶
トイレ、休憩所が
設けられている。







左: 井手町まちづくり
センター 椿坂


マップにはこの付近
にも小野小町の墓が
あるが、あちこちに
存在しているのが
興味深い。
坂道を上がっていく。






左:
井手の町中で、マップ
中、「く」の字に曲がる
箇所。お堂が目印。
四叉路のお堂の右手
の坂道を上がる。

右:
マップ中の拡大図
の箇所。地道に入る。






竹林をすぎると、畦道
を進む。
眺望がよい。
写真は北西方面。












 しばらく人家の無いアスファルト道を行く。
左: 道路に埋め込まれた山背古道の
マーク(緑の山型デザインの丸いタイル)
がある。

右:
マップ中の拡大図の箇所
ガードレールの切れ目から下る。
 (12:35)



<山背古道のマップ3ページ参照>




城陽市の街並み。
マップでは真谷川
に沿って右折するが、
道に迷ったので、JR
山城多賀城駅の東側
の道を直進した。

「多賀繁栄会」のアーチ








左:
マップ中の拡大図、
青谷川に沿った南岸
の土手道の様子。

橋を渡り、車道を越え
20mほどで左折し、
また右折し、青谷の
町中に入る。
公園で15分ほど昼食
休憩。





左:
マップ中の拡大図に
ある「オレンジ色の屋根」
のある家。
右が市辺天満神社、
家の手前側の道が
ルート。(13:40)

右:
市辺天満神社






左:市辺天満神社
拝殿脇の畳の部屋
で地域のおじいさん
が寝ころんでテレビ
を見ていた。
地域に根付いた神社
の様子はいいものだ。
ちょうど秋祭りの時期
でもあり、古道沿いの
町々で祭礼の提灯を
よく見かけた。
右:宅地化が進むが
まだこうした風景も多く
見られる。


<山背古道のマップ
2ページ参照>


城陽市北垣内、北石上
をすぎ、出口、観音堂
へと向かう。

右:青谷梅林








左: 観音堂。JR線踏切手前の三叉路に
ある常夜燈と道標 (14:05)

道標:左「左 長池陸軍演習場道」
    右「右 中村 田原 道」

この後、再び線路を越え、長池駅前にある
新興住宅街を抜ける。

右:マップ中の拡大図にある城南病院
(14:21)





左:地図中では点線
になっているが開通
している車道。
(14:23)
古道ルートは青少年
野外活動センター
へ向けて右折する。
「虫取り厳禁」の標識
右:
青少年野外活動
センター 友愛の丘
古道を「ピースロード」
とする意味不明の看板。



野外活動センターの
林を抜けて、府道256
号線を東へ250mほど
進む。

途中、浄土宗 常光寺
の門脇にあった銅像が
見事だった。
左は俳聖芭蕉か。







<山背古道のマップ
1ページ参照>

城陽市総合運動公園
の中へ入る。

左:宿泊施設も備えた
立派な施設。
上には大規模な子供
用の遊具が砦のように
そびえ立つ。日章旗
ではなく星条旗が掲げ
られているが、べつに
米軍基地の施設では
ない。


遊具の裏から山背
展望台への表示が
あったので登り降り
を繰り返して展望台
へ到着。(15:00)

右:
展望台から西方向









展望台から北西方向













左:水度神社 (15:24)
山背古道はここからJR奈良線城陽駅を終点としている。
はじめにおことわりしてように、「古道」は近世まで続いた街道と異なり
正確なルートは考古学の領域に入る。
しかし、平城京から山裾沿いに北上するこの古道の雰囲気は結構
楽しめたと思う。 宇治に近くここから北北東へ約1時間歩くと宇治に
至る。どうせ街道としてのルートが分かっていないのなら宇治へ行って
第2回鳥羽街道と、歩いた道を繋げてしまおうとも思ったものの、街道
歩きの初期で資料もなく当てずっぽうで歩いたコースなので、また
調査の上でこの続きを歩くことにした。
 なお、このあたりの北部には巨椋池がかつてあり、街道はこの山裾
の道にあった。




近鉄京都線の久津川駅から乗車 (16:00)

(歩行データ)
オムロンのWalkingStyle万歩計を紛失していたが、同じものを買って
持参した。通常の万歩計は先週、飛鳥を散策した日にズボンと一緒に
洗濯してしまい壊してしまった。

47,106歩 / 38,127歩(しっかり歩行)
1,402Kcal / 101.8g (燃焼脂肪)
距離: 33km

春以来の久しぶりの街道歩きだったが、道が平坦なので歩きやすかった。



更新: 2021/5/25 リンク切れ修正