第 48回 西国街道  高槻市 - 西宮市   2006年5月8日


 3月25日の続きは、高槻市白梅町からスタート。(10:32)
前日からどの街道を歩くか迷っていたが、ある程度下調べがついている
西国街道の続きを歩くことにした。しかし、一部の区間で不明箇所が残っ
ていた。
それは、石橋市石橋、伊丹市の国道171号線との交差付近、西宮市で、
ネットを検索して「写真紀行 西国街道をゆく」を参照して不明箇所に
あたりを付けてから出かけたために出発が遅くなった。
結果的に、西宮戎神社にあと1時間の道程という門戸厄神で日暮れを迎え
てしまった。
 羅城門後から西宮まで2回に分けて歩く場合、その中間の街道付近に
鉄道駅があるのは高槻なので、高槻から歩く場合、9時ごろからスタート
するのが望ましい。


西武百貨店の北側を通る。
写真:左)
交差点の北側に上宮天満宮
の参道が続く。
「北山の天神さん」と愛称される
神社で、京都の北野天満宮
より古いので「上宮」を冠する。
山崎の合戦の際、秀吉方の
本陣が置かれた。

芥川町2丁目の交差点を
直進して渡る。


高槻市の中心部に近い割に、
芥川宿の風情が残る街並み。
(写真:左)の三差路を左へ。

写真:右)
曲がると道の向こうに大木が
見えるが、これが芥川の一里塚。







−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         芥川一里塚と旧芥川宿
 一里塚は、江戸時代、街道の1里(約4km)ごとに塚を築いて榎を植え、
路程の目印としたものである。芥川一里塚は、西国街道の宿場町「芥川宿」の
東口にあたり、市域では、ほかに梶原にあった。
 淀川とともに重要な交通路であった西国街道は、江戸時代には、「山崎道」
といい、京都・山崎と西宮を結ぶ脇街道として、西国大名や旅人らが多く行き
交ったという。
 12世紀頃、すでに芥川は宿(町)として成立していたが、17世紀初め、
徳川幕府によって宿場町としての姿を整えた。
参勤交代のための本陣や伝馬(公用の荷馬)、旅籠などが置かれ、享保19年
(1734)に描かれた芥川宿絵図では、整然とした街並みや寺院、東に一里塚
もみえる。
 19世紀前半(天保期)には、旅籠33軒、家数も253を数えて大いに賑わい、
幕末の文久3年(1863)8月には、政変に敗れて長州に逃れる途中の三条実美
ら七卿も、この芥川宿に泊まっている。
 しかし、時の流れとともに宿場町の面影は姿を消し、僅かにのこる格子窓の家
に往時が偲ばれる。街道の両側にあった芥川一里塚も、東側だけが残り、昭和
16年(1941)5月、府の史跡に指定されている。

                   平成元年三月 大阪府・高槻市教育委員会
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 高槻市芥川町
街道は一里塚で鍵型に曲がり、
西行する。
途中左右に緩やかに蛇行しな
がら芥川橋へ向かう。









橋の手前で街道は上り坂になる。
写真:左)
地蔵堂と、文政五年の常夜燈。
街道の10mほど先、バイクが見え
るあたりに支流にかかる橋がある。
写真:右)
反対方向を写したもの。
自転車で半分隠れているが、
川が増水したときに使用する
水門扉を嵌める石柱がある。
芥川橋の支流の氾濫に備えた
もの。


写真:左)
支流の橋を渡ると常夜燈がある。
『金毘羅大権現常夜燈
  従是道汰六十三里等』

さらに10mほどで芥川を芥川橋で渡る。
都市開発が進んでいる北摂にありながら、芥川宿は
比較的よく保存されいると思う。
高槻駅から歩き始めてすぐに街道風情があるのが
意外だった。




芥川橋を渡り、川西町へ入る。
(10:51)


写真:左)
川西町のJA。
かつての農協は、郵便局ととも
に街道筋に設置されていた。





写真:左)
高槻市郡家新町の長屋門

写真:右)
氷室町1丁目25の道標。
道標の後ろ、民家のブロック塀
の一部に古い道標がある。
『右 妙見道』
手前の比較的新しい道標は、
手前側 『右 石川 見山 妙見道』
街道に平行して、
『右 芥川 山崎 京都
 左 豊川 池田 神戸』


写真:左)
今城塚古墳の西を流れる支流。
街道から北向きに撮影。
住宅街の向うに見えるのが
実際の継体天皇陵ではないか
と云われる今城塚古墳か。
別の機会に訪れたい。

写真:右)
この支流に直角に流れる用水路
の北側を進む。



写真:左)
街道は氷室町と宮田町の境の道
を進む。
氷室町3丁目から宮田町2丁目
へ続く道で分岐点がある。
ここまで街道は多少蛇行するとは
いえ、道なりに進めば迷うことは
ない。写真の辻を左へ進む。






茨木市に入り、高田町と東太田の
境に続く道を西進する。
(写真:左)の左側には太田東芝町
の東芝工場がある。
その手前から登り坂となり、この
あたりはゆるやかな下り坂となる。
このあたりは雲見坂と呼ばれた。
街道の北側50mには宮内庁が
管轄する継体天皇陵がある。




−−−−−太田(おおだ)神社・雲見坂  −−−−説明板より−−−
 太田神社は、平安時代の延喜五年(905)に醍醐天皇の命により編纂された
「延喜式」の神名帳に記されている神社のひとつです。
天照皇大神、速素戔嗚尊、豊受皇大神を祀っており、明治五年に村社になりました。
約六四四坪の境内には、本殿・拝殿・石灯籠などのほか、境内社として、天神社・
稲荷神社もあります。
 また、東から西へ下るこの坂道は、「雲見坂」と呼ばれています。 この名の
いわれは、『摂津名所図会』に、「太田村にあり、太田頼基ここにて天文を見て雲気
を考え、軍の勝敗をさとりし所といふ」とあることから、太田城を築いたといわれる
太田太郎頼基が、空の雲の動きを見て、天気や戦のやりかたを判断したといわれる
ことからです。 
 また、この坂の上の方に大きな石があって、これに紫式部が腰を掛けて、ここから
西の方にある勝尾寺山を眺めたともいわれています。 (茨木市教育委員会)


写真:上段左)
道標
 『左 京
    ふしみ 道 』


茨木市太田の街並み







写真:左)
太田1丁目17

写真:右)
お堂があり、その後ろが
公民館になっていた。









太田川を越える。
街道に直進する方の橋を渡り、
車道を横断して、名神高速道路
の下をくぐる。
(11:37)
高槻から1時間ほどの道程。







写真:左)
高速道路をくぐると、同じような
道幅の道が左手に見える。
街道は奥の一方通行標識の
ある道。 (十日市町)

写真:右)
茨木市耳原の道標
(明治四十一年)





写真:左)
耳原交番北 交差点。
南北の道は府道46号線。
ジャパンには屋外に手洗いがある。


写真:右)
阿為(あい)神社御旅所





−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       阿為神社御旅所
 ここは、ここから約1.5km北にある阿為神社の御旅所です。御旅所とは、神社の御例祭の際に、本宮から出た神輿
がしばらく仮にとどまる所です。
 阿為神社は、平安時代の延喜五年(905)、醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」の神名帳に記されている式内社
のひとつで、中臣藍連が初めてこの地に来て、祖先である天児屋根(あめのこやね)命を氏神として祀ったのが始まりだ
といわれています。明治四一年(1908)には、手久良山の幣久良(てくら)神社(式内社)を合祀されました。
 毎年五月三・四日に行われる阿為神社の御例祭の際には「神輿とふとん太鼓」が安威・耳原地区をまわり、この御旅所
で休息をとります。
 またここから約100m北へ行きますと、帝人(株)大阪研究センターがありますが、この研究センター内に、六世紀頃に
造られた円墳で、横穴式石室を持ち、その内部に家形組み合わせ式石棺と家形刳抜き式石棺が安置されている
「耳原古墳」があります。
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 茨木市耳原の街並み













写真:左)
幣久良(てくら)橋手前。
右手の畑の先に、地蔵がたくさん
まとめてあり、戦没者の奥津城、
さらに山裾に小規模な墓地が
あった。
このあたりは、白井河原合戦跡
で16世紀、茨木・伊丹氏と池田氏
の戦場跡だった。
写真:右)
100m上流で、茨木川と勝尾寺川
が合流する。

 −−−− 白井河原合戦跡  (説明板より)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この茨木川をはさんで付近一帯を「白井河原」といい、茨木・伊丹両氏と、池田氏とが歴史上の合戦をしたところです。
茨木方を支持する和田伊賀守惟政と池田方の荒木摂津守村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立となり、元亀二年
(1571)八月、ついにこの白井河原で激突しました。この時、和田勢500余騎、池田勢2500余騎が相対しましたが、和田軍
はまだ戦列が整っていませんでした。
そこで部下の一人、高利平太夫(軍兵大夫)が時間かせぎをしようとしましたが、その計略がみやぶられたため主君惟政に
「多勢に無勢・・・」などと進言しました。しかし、惟政これを聞き入れず、後続軍の到着を待たずに200余騎の少数で突撃しま
したが、この時惟政は、池田方の武将・中川瀬兵衛に討ち取られました。主君を失った和田・茨木の郎党たちは、「主を討た
せてどうして生き残れようか」と斬って出て討ち死にしたので、「白井河原は名のみにして、唐紅いの流れとなる」ほど赤い血
に染まったそうです。          (茨木市教育委員会)
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戦国時代には、北摂の町同士で
戦争をやっていたのである。
江戸時代にも、池田近辺でも
運送業者(馬借車借)で荷の取り
合いで仲が悪かったらしいが、
宅地開発が進み人口が流入した
今日、こうした確執は見られない。

時の流れを感じつつ、ちょうどお昼。
昼飯に、アルプラザ内の食堂で
カレーライスを食べた。(¥400)
12:00より15分間休憩。


 茨木市中河原町の府道110号線
との交差点。
亀岡街道と西国街道(山崎道)
が交わる。

(12:25)







−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
中川原の道標
 この地は、茨木市内を東西に走る西国街道と、南北に走る亀岡街道が交差するところです。
町名を「中河原町」といい、茨木城の城主として名を連ねている賎ヶ岳七本槍のひとりとして
有名な、「中川清秀」が生まれたといわれる由緒地です。
 中川清秀は、中川佐渡守重清公の長男として生まれましたが、『中川資料集』によると、
天文十一年壬寅(1542)「城州所詳ならずに於いて、御誕生御名虎之助、後瀬兵衛尉と
称し奉る」とあり、生まれた詳しい場所は分かりませんが、清秀の菩提寺である梅林寺の
蔵書に、摂州島下郡中川原とあることから、この辺りであるとも考えられています。
 ここから、西国街道を、西へ約1km行くと、江戸時代の参勤交代などの時に、西国の
大名が宿泊する宿として有名な「郡山宿本陣(椿の本陣)」があり、東へ約1.5km行くと
「太田茶臼山古墳(第二十六代継体天皇陵)」などがあります。また亀岡街道を北へ約0.8km
行くと、中川清秀の氏神である福井の「新屋座天照御魂神社(にいやにいますあまてるみたま)」
や古墳時代後期(六世紀後半)の「新屋古墳群」、また天平二十年(748)行基の開基といわれる
「麒麟山真龍寺」などがあります。
 さらに北へは、風光明媚な山地部を通り、京都府の亀岡へと続いています。
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下井町
茨木市内では(写真:左)にある
ような道標が目印となる。
高槻からの街道は3,4箇所の
間違いやすいポイントを除いて
ほぼ道なりに南西方向へ直進
している。

写真:右)
下井町の石碑
『南無阿弥陀仏法界』



写真:左)
西国街道と国道171号線が交差する辺り。
このあたりで国道171号線は2本に分かれ
ており、街道のルートは地図上では分かり
づらい。
直進して、信号を横断する。 (下井町側)
写真:右)
さらに2本目の国道171号線に出る。
 茨木市宿河原町 陸橋の様子。
陸橋の左側へ入りる道が西国街道。
路面が石畳にしてある。
50mほどで椿本陣がある。


宿河原町。椿本陣手前の道筋が鍵型に曲がるところにある
道標三基。





道標:左
『 左 かちをうち (勝尾寺)』
   右 西国道




 郡山宿本陣(椿の本陣)

椿の本陣の付近は石畳にして街道で
あることが分かるが、この先の茨木市、
箕面市では、アスファルトの色を変える
などして西国街道であることが分かるよう
にしてある区間がある。
普通の住宅街にはいると色が途切れる
ので、西国街道を通して施してあれば
街道あるきに地図もいらず気軽に歩ける
だろう。



----------  説明板より −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
郡山宿本陣(椿の本陣)
 京都と西宮を結ぶ西国街道沿いには、かつて山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の五つ
の宿駅があり、郡山宿本陣は、その中央にあって重要な役割を果たしていました。
 この本陣は、享保三年(1718)に類焼にあって、建物とともにほとんどの古記録が
焼けてしまい、現在の建物は、享保六年(1721)に、西国諸大名などの寄付によって
再建されたものですが、このような形で現存するのはここだけです。
 建物としては、母家二棟・土蔵三棟・納屋一棟・茶席一棟で、居間数は、茶席を含め
て二十五あります。また、焼ける前の元禄九年(1698)の宿帳をはじめ、和時計・関札
・駅鈴・古文書・火縄銃・銃丸製造具などが数多く残っています。
 残された宿帳から、摂津・備前・備中・美作・四国の讃岐などの大名や、忠臣蔵で有名
な赤穂城主 浅野内匠頭長矩が宿泊し、また慶応元年(1865)七月十五日に、明治天皇
がお立ち寄りになっています。
 この本陣の正門の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから、
いつしか「椿の本陣」と呼ばれるようになりました。
 昭和二十三年十二月十八日に、国の史跡に指定されています。
                     茨木市教育委員会
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写真:下段左)
土色のアスファルト舗装。街道にはふさわしい色。

写真:下段中)
道標は勝尾寺への道を示す。

写真:下段右)
宿河原町から鍛冶屋橋を渡り豊川1丁目に入る。
















 豊川1丁目の神社。
街道から左に折れ、公園となっている
参道の先の宮橋で勝尾寺川を渡ると
石段が続く。
「祝大典記念 宮橋」
後ろには昭和初期の年号(2,3年?)
が彫ってあり、昭和天皇御即位に際して
の記念であることが分かる。






住宅街の途中で府道4号線にT字型に
交差する。
古くはないが道標がある。
『是ヨリ
 豊川学校 勝尾寺寺 道
 粟生 宿久庄 清水 』








写真:左)
山下橋で勝尾寺川を渡る。

写真:右)
府道1号線に沿って延伸工事中の
大阪モノレール豊川駅。
府道を横断し、西豊川町を過ぎると
箕面市に入る。 (13:03)

場所場所で路面に色が付いているので
道標の替わりになる。



府道を渡ると小野原西1丁目に入る。
すぐに公園があり、水道・トイレも使える。



写真:右)
春日神社 御旅所が右手にある。







−−−−−−−−−−−−−説明板より −−−−−−−−−−−−−−−−
   春日神社のお旅所と西国街道

 小野原地区には、神護景雲年間(767〜769)の創建が伝えられる春日神社が、
村の氏神として鎮座します。
 この地は春日神社の大祭の際に御輿が巡行するため「お旅所」と呼ばれ、御輿を
置くための台座が所在します。
 また隣接する西国街道の脇には、京都伏見への方向を示す享和二年(1802)に
建てられた道標や、村への疾病の侵入防止を祈願して建てられた常夜灯籠、
楠木正成が水を求めたと伝えられる井戸などがあります。
                          箕面市教育委員会
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 小野原東の鍵型に曲がる箇所に
地蔵堂がある。

手前の道標
『左 京ふしみ道』

太神宮常夜燈

『楠水龍王之地』





 箕面市粟生新家の勝尾寺参道との分岐。
写真:左)
西国街道の進行方向

写真:右)
街道右手、北方向を撮影
1666年建立の鳥居。
表面を削り、銘文に色を付けたのか
コンクリート製の新品に見える。
路面の工事に合わせて過剰な手入れ
をしたのだろうか。20mほどに国道171
号線が迫る。


−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−
勝尾寺表参道と大鳥居

 勝尾寺へ向かう参道は幾筋もありますが、西国街道に
面した、新家の大鳥居を起点として北へ向かう三十六町
(約4km)の道が表参道です。参道沿いには、寺への距離
を示す町石が残されており、宝治元年(1247)に建てられた
下乗石から七町石までの八基は、最古の町石として国の
史跡指定を受けています。
 現存する石の大鳥居は寛文六年(1666)に建てられた
ものですが、勝尾寺文書には、鎌倉時代の寛元三年
(1245)に木の鳥居が建てられたことが記録されています。
                       箕面市教育委員会
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府道119号線と国道171号線の交差点
のすぐ南側に出る。

写真:左)
交差点の10m南、府道と交差する
進行方向を撮影。

写真:右)
その交差する場所から北側の国道171号線
を撮影。
パソコンショップとコーナン・K’s電気がある。



横断してすぐにある観世音菩薩碑。
箕面市今宮。ここから萱野三平宅
まで1.6km


写真:右)
路面の土色舗装はやはりあったり
無かったりする。

千里川の上流を渡る。




箕面市西宿
街道Walker第3回 西国街道でこの
あたりから箕面市牧落までを掲載
しているが、距離にして2km程度しか
紹介できていない。
地図だけを見て旧道らしい道を探した
ので牧落の交差点で旧道を見失った
のが原因だった。いちど間違って進んで
しまうともう分からなくなる。
こうした教訓をもとに下調べをするよう
になった。
(写真:左)には南の方角に新船場の
卸団地のビル群が丘陵に見える。

今宮、西宿、萱野にかけて国道171号線
の南の通りを旧道は進むが、大阪、京都
の幹線道路である国道のすぐ南にこんな
光景があることには気づかない
歩くことで見える景色がある。









写真:左)
西宿2丁目で国道と合流する。
その約250m先で新御堂筋の高架下を
くぐる。

写真:右)
国道171号線の向こうに高架が見える。
新御堂筋の下をくぐる。






写真:左)
新御堂筋の高架下から進行方向を撮影。
JA大阪北部 を過ぎてすぐの道を左へ
曲がり、また右へ曲がる。

写真:右)
また街道を示す舗装路面が現れる。
カラーアスファルトに、路側に石を敷いた
道になると史跡が近い。
この先に萱野三平旧宅がある。



−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  萱野三平旧邸
 美濃の旗本大嶋氏の所領である椋橋荘(現豊中市大島町)の代官を務めていた
萱野重利の三男として、延宝三年(1675)当地に生まれた三平重實は、十三才の時、
大嶋出羽守の推挙により、播州赤穂の浅野内匠頭の小姓として仕えるようになりました。
 元禄十四年三月十四日、江戸城松之廊下で、内匠頭の吉良義央に対する刃傷事件後、
三平は大石内蔵助を中心とした仇討ちの同士に加わろうとしましたが、三平を推挙した
大嶋氏へ迷惑が掛かることを心配した父の反対を受け、元禄十五年(1702)一月十四日、
当地において自刃し二十八才の生涯を閉じました。
 「涓和」の俳号で多くの優れた句を残した文化人でもある萱野三平の生誕、終焉の地
である旧邸は、地元自治会の努力により保存継承され、昭和四十八年、大阪府の史跡
指定を受け、平成四年箕面市へ寄贈されました。
                       箕面市教育委員会
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写真:上段、左)
萱野三平旧邸
内部を見学できるが月曜日は休館。
前回も月曜日だった。

写真:右)
その先のカーブ内側に高札場跡が
ある。







−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  芝村の高札場跡
 江戸時代、放火やキリスト教、偽金銀の使用の禁止等のお触書きを掲示するために、
村々に高札場が設置されました。
 この旧芝村の高札場は、西国街道と村の中を通り抜ける道が交差する、人通りの
多い場所に立地しています。
 また現存しませんが、萱野地区の西国街道沿いには、一里塚があったことも推理
されています。
                                     箕面市教育委員会
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 萱野三平旧邸から100mほど
の場所で間違いやすい分岐がある。
写真:左)
分岐点手前、道なりに進むと、広場
のフェンスに沿って歩いてしまう。
実際に間違ってしまい、国道に出た。
戻ってフェンス際から分岐を写した
のが(写真:右)。

ここで左折する。




写真:左)
萱野3丁目


写真:右)
萱野3丁目南 交差点
横断する。







また、カラー舗装の道になる。

西国街道は、箕面市稲(いな)を抜け、
牧落で国道171号線と合流する。










写真:左)
牧落で国道と合流する場所。



写真:右)
牧落交差点
向こうに見える陸橋手前で北側の道へ
国道をそれる。





写真:左)
上段右の奥に映っている陸橋付近。
西国街道は、国道171号線の北側の
道へここで分かれる。
写真:右)
箕面市百楽荘
かつては藁葺きだった家屋が数軒ある。
トタンで覆ってあるのは費用的な問題だと
思っていたら、実は消防法で住宅地での
藁葺き、萱葺は禁じられているのも原因。
戦後、復元された城郭がコンクリートなのは
建築基準法で高層木造建築が認められ
ない為であった。 史跡は除外して欲しかった。
−− 牧落の旧札場と道標 −−−−−−
 本地は、もと牧落村の高札場である。
幕府や領主から出された命令・規則の御触
れを書いた木札・貼紙をここに掲示して、
村民・諸人へしらしめた。この地は箕面・
大坂道と西国街道の交わる四ツ辻にあたる
ので、行路の目安となる道標二基が今も
建っており、次のような道しるべが刻まれ
ている。
   大坂     四り半 
大      天神      道
   はっとり   二り
小 みのおみち
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 箕面市牧落













 箕面市百楽荘で阪急箕面線の踏切
を越える。


桜井1丁目に入るが、桜井駅前の通り
になっており、道幅は急に広くなる。


写真:右)
蔵の屋根が段違いになっている建て方
が珍しい。



写真:左)
左に曲がるとすぐに阪急桜井駅がある。
街道は写っているように、駅前でもとの
幅に戻る。


写真:右)
箕面市半町(はんじょう)






−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−
    瀬川・半町立会駅所と本陣跡
 江戸時代の瀬川と半町は西国街道筋の駅所村でした。
公用の人と馬、荷物を継ぎ立てる立会(共同)駅と、参勤交代の西国大名の
泊まる本陣、庶民のための旅宿もあった宿場町でした。
寛永年間(1624−1643)頃に、瀬川の宿駅が整備され、宝暦年間
(1751−1763)には、半町も瀬川本陣同様の旅舎を造りあげ、半町本陣
を名乗るようになりました。
 明治十三年(1880)駅所は廃止されましたが、半町本陣の建物の一部は
現存し、古文書や宿札等、貴重な資料が数多く伝え残されています。
                           箕面市教育委員会
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 写真:上段は進行方向を写したもの。
路面の敷石が史跡の目印となるが、この跡地は現在
自動車教習所になっている。

写真:右)
反対方向を振り返って。
駐車場のブロック塀の向こうに白壁の家屋が見えるが、
これが半町本陣の現存する建物か。






 瀬川2丁目の(写真:左)の場所は
うっかりすると、道なりに直進してしまうが、
街道は左に曲がる。
ここは注意する。
(15:11)
 直進して川に当たったので間違いに
気づいた。
 歩きながら次の目印として、曲がる場所
や、橋、交差点を覚えておき、そのポイント
を通過したらまた次のポイントを覚えておく
といい。


ここまで西国街道は道なりに直進してき
たが、池田市石橋は、国道176、171号線、
阪急宝塚線など錯綜しており、街道は
見失いやすいので注意する。

写真上段の地点で左折した街道は南行
する。用水路脇の道を南下する。
マンションに隣接する石橋2丁目公園
で水道が使える。
写真:右)
高架は国道171号線。その下に阪急の
踏切がある。


(写真:上段右)の踏切の奥にふたつの
赤いサンシェードが見える。
(写真:左)は踏切を越えたところ。
ガードレールの先で国道171号線と合流
する。ただし、この国道171号線は立体
交差の手前で同じ国道が分岐したもので、
400m先で国道176号線に合流する。

西国街道は、(写真:左)の場所から50m
ほどのところで(写真:右)のような分岐
を右側(西側)の道を入り、石橋阪大下
の交差点で国道176号線と合流する。



写真:右)
国道176号線と合流する。











石橋阪大下 交差点から南方向の様子。
交差点から南50mほどの地点(写真:右)
で国道から分かれ、南西方向へ進む。

タイガース模様の軽トラックが店の看板
がわりに置いてある。
(15:21)







阪急宝塚線の踏切を渡ると、踏切を直進
する道をたどる。方角でいえば西に向かう。

石橋1丁目から、池田市住吉へと進む。

写真:右)
池田市住吉2丁目。
左手にこんもりとした森があるのは、
住吉神社。横断するときに左手に陸橋が
平行して設けてある。
渡り終えると、左手の神社の敷地に
亀之森幼稚園がある。


池田市住吉

側溝というより清流が流れている。











 中国自動車道との交差も地図では
把握しづらい。
中国自動車道の高架の手前、右側の
歩道脇ある地下道をくぐる。(写真:左)

写真:右)
高架の柱が見えるが、もう一つ地下道
をくぐる。






中国自動車道の南西側に、地下道から
上がる。  (15:41)
写真:左)
地下道の出口を車道側に下がって撮影。
西国街道はこのあたり、高速道路建設の
際に寸断されているが、判明している道
とつなぎ合わせて復元を試みている。

街道ルートは、地下道出口すぐの黄色い
テントの弁当屋の角で左折する。

写真:右)曲がった先の街並みの様子。



豊島南の様子。


北今在家広場が右手にある。
(トイレ、水道なし)


このあたりから200mほど南で伊丹空港
の敷地になる。





写真:左)
豊島南5の分岐。左へ進む。

写真:右)
府道10号線(高架)、箕面川を越える
新開橋手前側の様子。
高架をくぐらずに、その手前で石段を上がり
人専用の小橋で渡る。
廃棄されたテレビなどが橋一杯に置いて
ある。渡り終えたところに廃品回収屋が
あり、そこの倉庫代わりといった小橋だった。


 小橋を渡り終え、新開橋交差点手前、
(写真:左)では、左の箕面川沿いの道
を下流へ向かって進む。
ここからは伊丹市にはいる。 (15:50)
写真:右)
川沿いの道。左手に箕面川を挟んで
伊丹空港がある。右手はダイハツの
物流センターで、視界を遮る建物もなく
ひろびろとしている。
街道は土手道を直進するが、橋を左折すると
飛行機が見られる駐車場完備の公園がある。
ドライブで来るにはお薦めのスポット。


 箕面川の北岸の道を歩く。
対岸にはすぐに大阪空港。

写真:右)
写真左手に写っている四角い赤いものは
レーダー。その付近が公園になっている。
道路脇には、駐車場に入りきれない車が
並ぶ。






写真:左)
この時は、滑走路は南から北へ向かって
の利用だったので迫力ある離着陸シーン
は見られなかった。
滑走路のかなたに大阪市街が見える。
橋を渡って離陸を見物する。

また戻り、土手道を歩く。
写真:右)
この先が猪名川で、街道の渡しがあった。
常夜燈は見あたらなかった。
上流方向へ迂回して軍行橋で渡る。


写真:左)
軍行橋へ迂回する途中。北方向を撮影
句碑

写真:右)
軍行橋より伊丹空港方向を撮影。
着陸誘導灯が川の中にまで連なっている。
知らなかった。






軍行橋を渡り、再び下流の渡しがあった
ところまで300mほど南行する。

写真:左)
猪名川の西岸から空港側を望む。
このあたりに渡しがあった。

写真:右)
その場所から土手を下ったところに
石碑がある。
寛政六年 廻向供養の碑


土手を下ってすぐに右手に曲がる道がある。
ダイハツの工場を右手にしながら道は南西
方向へ進む。
道の反対のしゃれた建物はレストラン。
さっきの公園とセットにすればなかなかの
デートコースになるだろう。
−−− 猪名川西岸 (説明板より) −−
 猪名川は堤と堤の間が120間(216m)
もありましたが、渡し船はなく、あの松尾芭蕉
もここを歩いて渡って行ったそうです。
下流では高瀬舟を使って酒荷物が運ばれ
ていました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 猪名川に渡し船は無かった、ということで
常夜燈は初めからなかったようだ。

写真:左)
JR福知山線の踏切を越える。



写真:右)
北伊丹の様子。
街道は細い道へ直進する。




 橋を渡り北伊丹一丁目、府道13号線の
手前に「多田街道」の標識と休憩所が
あった。











(写真:上段右)の場所で、

南方向の様子(写真:左)

北方向の様子(写真:右)

多田街道とあるが、地図で確認すると、
南は50mほどで府道13号線に吸収され、
北は500mほどの国道171号線で
行き止まりになっている。




 府道13号線と交差する。
向こうに見える坂道は「摂津名所図会」
にも描かれた伊丹段丘に位置する
「伊丹坂」

写真:右)
渡って30mほどのところの右側に休憩
できる四阿がある。






写真:右)
 伊丹市では大理石の道標に簡単な解説
を付けた道標を設置してある。
伊丹市春日丘6丁目

伊丹坂

写真:右)
西国街道はゆるやかな坂道を直進するが、
左手の登り坂から120m先に、市指定史跡
の「伝和泉式部の墓」がある。
京都府相楽郡木津町にも和泉式部の墓
あった。

伊丹市高台の住宅街の中野商店街を越える。
写真:右) 伊丹市の道標
−−−−−−−−−−−−−−−−−
伊丹市春日丘3丁目 大鹿東口
 ここから約300m西に有馬道との交差点
があり、道標が立てられています。道標の
四面にはそれぞれ「すぐ京」「すぐ中山・有馬」
「すぐ西宮」「すぐ大坂」と記されています。
”すぐ”とは”真っすぐ”という意味です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
直進して信号機の立つ道を進むが、一本
北側の道が旧道だった可能性がある。


写真:左)
お塚の由来の石版
ここに経塚があった。
写真:右)
写真上段右の説明にあった、西へ300m
の府道322号線との交差点。
北西角には自衛隊の駐屯地がある。
道標は発見できなかった。
大鹿3丁目を2丁目との境の道を歩いた。
一本北側の6丁目寄りの道が旧道だった
かもしれない。いずれにしてもここの手前で
合流する。


 伊丹市千僧(せんぞ)
写真:左)
自衛隊敷地内のフェンス越しに桜並木が
植えられているが、一本一本に「国有財産」
の札が下げられているのが興味を惹いた。









 伊丹市千僧














 伊丹市千僧
写真:左)
西国街道の道標。伊丹市域では、石に
京都から西宮までの西国街道全体を
南を上にした地図に、現在位置を示した
ものも置かれている。

写真:右)
伊丹署南の交差点。
渡って右手にコンビニがある。
(16:50)


 伊丹市昆陽の街並み


写真:右)
稲野小学校の正門に新しい西国街道
の石碑と、正門左に道標

『すぐ 西ノ宮      東面
 すぐ 中山 小濱』  南面





−−−−−−−−−−−−−−−−−
 伊丹市昆陽6丁目 長勢橋
 元治元年(1864)の蛤御門の変で敗走
した長州勢がここで踏みとどまって戦った
といわれています。
『長勢橋の碑』は南側の長勢児童遊園
地内に立てられています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
日本が西洋近代化を受け入れ、大きく舵を
きった幕末から明治にかけての流れの中で、
歴史用語として「蛤御門の変」は知識として
持っていた。こうして京都から足跡をたどる
と当時の人々の息吹を感じる。

伊丹市寺本で国道171号線と合流する。
(17:10)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 伊丹市昆陽8丁目 西天神舎前
 西天神社は東天神社(昆陽4丁目)ととも
に昆陽村の氏神として親しまれてきました。
また、近くにある昆陽寺は行基上人によって
開かれた寺院で、山門・観音堂が県指定
文化財になっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−




写真:左)
 上段右の陸橋上から北側を撮影。


写真:右)
 上段右の陸橋上から南西の進行方向
を撮影。
陸橋を渡って国道171号線の北側を進む。
陸橋から50mほどで公団団地側に入り、
100mほどでまた国道に戻る。
戻った場所から25mほどで昆陽寺に着く。



 国道171号線に面した昆陽寺に到着。
(17:18)
すでに閉門している。











−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 
    昆陽寺
 昆陽寺は天平5年(733)、僧行基の開創と伝えられている。その後、天正7年(1579)
織田信長の兵火にかかって一山の堂塔を焼失したという。
 山門は、旧西国街道に面して建っている。上層周囲に縁をめぐらし、細部にみる絵様繰形
の形式手法は江戸中期のものである。内部戸口柱を通柱として、上層柱をも兼ねる構法は
珍しく、斗拱部(ときょうぶ)中備え間斗上の双斗肘木と妻飾虹梁下の大斗花肘木の意匠は
前代のそれをよく残している。
 江戸時代中期における豪壮な山門は、県下でも類例がなく、貴重な構造である。
                                             兵庫県教育委員会
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昆陽寺から西国街道は、国道171号線が大きく南側にカーブする西昆陽交差点までの
1kmほどの間、国道の北側を通るが、開発により旧道は消えている。
次に分かっている街道のポイントは武庫川の渡しで、西宮市上大市の報徳学園北側が
渡しの西岸であり、その対岸に東側の渡し(髭の渡し)があった。




写真:左)
昆陽寺間の石畳を西へ進み


写真:右)
さらに西へ道なりに直進すると、
府道42号線を横断して、そのまま
住宅街を進む。
西昆陽で尼崎市に入る。
行き止まりを南下すると、西昆陽の
交差点の手前に出る。



写真:左)
国道171号線が大きく南へカーブする
尼崎市西昆陽交差点手前から。

写真:右
街道は曲がらず直進して、
西昆陽歩道橋をくぐり南西の方向へ進む。







写真:左)
髭の渡し
常夜燈



写真:右)
髭の渡し。東岸から西岸を望む。
対岸には報徳学園の校舎が見える。
(17:52)



−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−
西国街道・髭の渡し
 この付近には江戸時代に武庫川を越える西国街道の渡し場がありました。
街道沿いの西昆陽村に髭をはやした老人が営む茶屋があったことから「髭の渡し」と
名付けられたといわれています。
 江戸幕府の命令によって文化3年(1806)に作られた「山崎通分間延絵図」を見ると、
武庫川の河原をはさんで街道の道筋が両眼の堤のところで途切れていますが、ここに
渡しがありました。渡し場の様子は描かれていませんが、尼崎側の街道沿いに「髭茶屋」
や「立場(人足が休息する所)」と注記された建物が描かれています。
 この渡しでは、東から西への川越は常松村と西昆陽の2カ村が月番で受け持ち、西から
東への川越は、段上村、上大市村、下大市村(いずれも現在は西宮市)の3カ村が月番で
受け持っていました。例年10月中旬から翌年春の彼岸までは、板橋が架けられ、水量が
増した時には人足の肩越えによる渡しが行われていましたが、後には船での渡しが行わ
れれうようになりました。
 参勤交代の大名や往来の旅人など数多くの人々に利用されてきたこの渡しは、明治の
終わりに下流に甲武橋が架けられ、西国街道の新道(現国道171号線)ができるまで続
きました。                               兵庫県尼崎土木事務所
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


写真:左)
武庫川を下流に向かって約600m進み
甲武橋を渡り、ふたたび上流方向へ
約600m河原の道を進む。


写真:右)
武庫川の西岸から髭の渡しを望む。
(18:00)





写真:左)
 武庫川の土手を上がり、報徳学園の
校舎の北側の道を西へ進む。

写真:右)
校舎の西端で左折する(南へ曲がる)。
電柱に「旧西国街道」の標識が高い位置
に取り付けてある。
西宮市域ではこの標識が目印となる。





写真:左)
上大市五丁目と段上町八丁目の境の道。
ブロック塀に説明板が立てかけてある。
(参照:下)
西国街道は道なりにゆるやかに右へ曲がり
南西方向へ直進する。

写真:右)
道の向こうに新幹線の高架が見える。
この先で阪急バスの上大市5丁目バス停
の脇を通る。


−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 西国街道(1)
 京都当時の西、羅城門を起点とする西国街道(京街道)は平安時代の延長年間(923−930)にできたと
いわれる。
髭の渡しを渡って段上村に入った旅人は、一里塚の木陰でひと休みし、この付近にあった石橋を渡った。
古地図に裏堀石橋とある。古老によると、そこには渾々と清水が湧き出ていたという。
この道はさらに鯨池上水場から上大市五丁目と段上町八丁目の境の道を南に下がり新幹線を越える。
そこに百間樋石橋があった。道は阪神水道企業団甲東事業所の池で切られているが、西南へと続く。
                                               甲東文化財保存会
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

写真:左)
新幹線高架下に「旧西国街道」の標識
がある。

写真:右)
くぐると右手に南西へ向かう道があり、
高架下の側道からそこへ入る。
街道は上大市3丁目と4丁目の境まで
100mほど南行する。
(18:14)




写真:左)
信号機のある交差点。
「旧西国街道」の標識があり、
交差点を右折する。
(18:14)

写真:右)
電柱の街道標識によるとは、街道は
ここで左折する。
上大市2丁目20の生け垣に説明板
がある。
(18:19)

−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 西国街道(2)
 西国街道もここ上大市四丁目13から県道中津浜線を横切り、下大市西町の厄神明王の道標までは
開発のため大きく変化しているが、多少昔の面影を偲ぶことができる。
古地図を見ると、山手には段上の集落、西廣寺、若宮八幡が、南の浜手には上大市、下大市の氏神で
ある八幡神社の森が描かれ、また永福寺の東北には戌亥石橋が描かれている。
                                                甲東文化財保存会
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

写真:左)
南北に通る県道337号線を直進方向
へ渡る。

写真:右)
下大市東町に厄神の道標

『厄神明王道        南面
 是ヨリ 西宮 三十丁』 西面
(18:30)





−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     西国街道(3)
百間樋川石橋を渡り、戌亥石橋を渡って川沿いにここ百合戸石橋に来る。昭和四十六年(1971)
の道路工事で川は暗渠の中を流れるようになり往古の橋もなくなってしまった。
この近くに三つもの道標のあることでわかるように甲山大師、厄神明王にお詣りする道が、また
尼崎、大坂に通ずる道と脇道がここに集まっている。
                                            甲東文化財保存会
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     両名刹への道標
 甲山観音と門戸厄神への道標でむかし別々にあったのを後年
ここに移建したものである。この碑の前を東西に走る道は約1300年前に平安の頃敷かれた
西国街道でこの二つの碑は信者や巡礼などを己が寺へ誘う道しるべとしてこの街道ぞいに
建てられていた。
左の道標は1740年ごろの建立で当時篤志家として名を知られた大阪新町の折屋徳兵衛夫妻
の寄進になるものである。
                                              甲東文化財保存会
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18:34に阪急今津線・門戸厄神駅
に到着。西宮神社まであと一時間の
道程だった。
日没まで僅か。惜しいが、本日は
ここまでにして、後日残りを
歩くことにする。








 歩行データ
 45,965歩/38,106歩 しっかり
 1,324Kcal 消費カロリー/ 89.5g 燃焼脂肪  33km

 北摂地域は開発が進み、河内方面と
比べても旧道の風情は少ないと思って
いたが、場所によっては意外と古い
家屋なども残っており、いい街道だった。
阪急を使っての移動だったが、電車代
がとても安くて、今日は千円で一日
遊べた。お薦めの街道である。
















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