第 39回 熊野街道(小栗街道) 大阪市北浜 - 和泉市北信太  2005年4月17日

 「紀伊山地の霊場と参詣道」が平成16年に世界遺産に登録された。
「熊野三山」、「吉野・大峯」、「高野山」の3つの霊場と、これらを結ぶ「熊野参詣道(熊野古道)」、
「大峯奥駈道」、「高野山町石道」からなる。 熊野古道には、田辺から本宮へ東へ向かう「中辺路」、
距離的には最短だが、高野山から千メートル級の峠を3つ越える「小辺路」、田辺から紀伊半島の海岸沿い
に回り込む「大辺路」がある。
 このシリーズで紹介する中辺路は、中でも天皇や皇族による熊野参詣の舞台となった道であり、九十九王子
社跡が現代でも歩き旅を励ましてくれる。
 大阪府下では熊野街道(小栗街道:近世の名称)、和歌山県に入ると紀伊路を通り、田辺より中辺路となり
熊野本宮へ向けて東へ延びる。
 この参詣の道をたどる前に、その背景について触れてみよう。

<熊野御幸の時代背景 平安時代後半~鎌倉時代初期>

 奈良時代には天皇を中心とした国造りが完成したが、公地公民を謳う律令制度も次第に形骸化していった。
墾田永世私財法以後、自墾地系荘園が増えていき、荘園の私有化が進んでいった。
その多くは有力者への寄進を重ねることにより、為政者から「不輸・不入」の特権をを持つようになり、
税も治めず治外法権も許される。
 平安中期になると除目など人事権を握った藤原氏に寄進が集まり、私的な経済力が強大なものになって
いった。こうして国力の弱体化を横目に、藤原氏はこの世であの世(浄土)を再現させた(宇治・平等院鳳凰堂)
を建立するなど栄華を極めていた。
政治・経済の実権はこのようにして、徐々に皇室の手を離れはじめていた。
熊野御幸は、こうした摂関政治の台頭、荘園の私有地化によって皇室の政治・経済力が衰えを見せた頃、
宇多法皇の御幸を始めとする。(延喜9年:907年)

 「平安時代」というと優雅な宮中文化が花開いた華やかな世相をイメージしてしまうが、実態はその反対で
あったらしい。
 当時の社会は源氏物語にあるように、死霊はもちろん生霊も跋扈する(と考えられていた)世の中であり、
怨霊を恐れるあまり、律令に定めてあった死刑制度自体が廃止された。
不入の権であちこちに治外法権の荘園ができ、「山椒大夫」の世界が象徴するような無法状態があちこちで
現出してしまうのである。
 富の集中する「都」では盗賊のやりたい放題となって行き、対策として検非違使が設けられた。
しかし、所詮は令外の官、法律外の臨時組織である。
検非違使をもってしても都の治安は保たれず、平安末期には都の表玄関である「羅生門」は崩れて補修もされず、
死体は投げ込まれ、盗賊はあちこちで跋扈していた。
当時、死穢をよほど忌み嫌ったらしく、死者はきちんと埋葬されることもなく加茂川の東側、鳥辺野あたりや、西なら
化野(あだしの)のあたりに捨てられていた。

<後鳥羽上皇の熊野御幸>
 もう頭を抱えてしまいそうな状態だが、これにトドメを射すのが末法思想。 永承7年(1052年)には仏の功徳も
届かなくなるという世紀末観である。
 このような騒然とした世相の中、自分の生命・財産(土地)は自力で守らないと保全できない。その必要性から台頭
してきたのが武士である。
 起源と云われる「北面の武士」を白河上皇が設けたのが嘉穂2年(1095年)だが、鳥羽上皇の崩御を期に
朝廷の権力闘争に摂関家がからみ、闘争の実行部隊として武士が歴史の表舞台に出てきた(保元の乱・平治の乱)。
保元一年(1156)、平治1年(1159)

 その後、武士の頭領である平氏が全盛を極め、源氏がその武士団同士の対立、抗争に勝利して、始めて幕府を
開いた(1192)。
源頼朝を征夷大将軍へ任じたのは、後鳥羽天皇/後白河上皇の時であり、二代将軍頼家の時、土御門天皇の御代
には、その後鳥羽天皇は上皇として院政期にあった。
 後鳥羽天皇も歴代の天皇の仕事、皇祖皇宗への祀りを行った。しかし、祈りは届かず、皇室の政治力・経済力の
復活はままならず、あろうことか、御所への昇殿すらできない身分であった者達に実権を握られてしまった。
さらに当時の感覚では、武士とは人を斬ったり、血を浴びたりする「穢れ」た者共である。

 こうなれば、天皇や上皇としては「言霊」で祈るしか対抗手段がない。
御所では祭祀を毎日続けてきたにもかかわらず、その「言霊」は実体化しなかった。
そこで、より一層強力な力を借りるには、『山々の重畳と重なる、自然の力が充ち満ちた「木の国」の奥、神武東征
のおりに八咫烏が導いたという所縁の地、熊野へ行こう。行って直接祝詞をあげれば、願いも叶おう』、と思わなかったか。
ちなみに、武士政権の成立期にあたる、後白河上皇は35年の在院期間のうちに34回の熊野御幸を行い、後鳥羽上皇は
24年の在院期間のうちに28回の御幸を数える。後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という頻度である。

 後鳥羽上皇の熊野御幸の時代背景を忖度することで、熊野参詣の目的をあれこれ考えるのも興味深い。
このとき、小倉百人一首の選者として今に名を残す藤原定家が、歌詠みの要員として随行した。
歌人としての随行だが、皇族に使える大勢の貴族のひとりであり、体調がよくないときでも命により水に入る(水垢離)
など、無理も通らぬ宮仕えの様子が記され、八百年の時を越えて現代のサラリーマンの共感を呼ぶ。
こうした歴史の息づかいが伝わる道、それが熊野街道、中辺路の魅力である。


<後鳥羽上皇と藤原定家 ~言霊について~>
 政(まつりごと)と祀り(まつり)が同音であることが示すように、古代ではそれは一致していた。
世界最古の王家である皇室は祭祀王としての性質を古代から連綿と継げてきており、それは平安、鎌倉期でも
現代においても基本的に変わっていない。
 皇室の立場からすれば、臣下の政治、経済力が凌ぐほどに強大化する時勢に対して、「何か間違っている」と
思ったはずだが、政治(まつりごと)に直接手を出すと、人の恨みを買って怨霊を生じさせかねない。
少なくとも人の恨みを買うことは、「気(け)が枯れる」ことであり、すなわち「穢れる」ことに通じる。
そこで、「まつりごと」の一方である祭祀を専ら司ることになっていったのではないだろうか。
結果的に、「権力」を手放し、「祀り」ごとの主催者であるという「権威」だけが残っていったことが、王権交代に
晒されることなく、世界最古の王家としての皇室を今に至らしめている。

 「祀り」は宗教的な儀式だが、神社で神職があげる祝詞(のりと)にみられるように、カミ(神)に言挙げする
するものであり、僧侶の読経や説経とも違うし、牧師や神父の説教とも、語りかける対象からして反対方向である。
「言葉にする」ことが特別な意味を持つのが神道の特徴であり、それは太古の昔より日本で生きてきた人々の
習俗、習慣、心情を反映させたものである。

 「言葉に出せばそれが実体化する」というのが「言霊(ことだま)信仰」だが、これを現代人が世迷い言など
と笑うことはできない。 現代でも、改まった席、例えば結婚式のスピーチでは、夫婦和合、子孫繁栄といった
「こうなって欲しい」という目出度い言葉を使い、縁起の悪い言葉はタブーである。
個人の例にとどまらず、組織としても言霊信仰が残ることもある。全国至る所の市役所、広場で『非核宣言都市』、
『平和宣言都市』の看板を見かけるが、宣言が核ミサイルを迎撃するわけでもなく、看板が外国の侵略軍を
寄せ付けない防御兵器になるわけでもない。
 よく考えてみるとこれらはやっぱり「言霊信仰」であり、平安貴族の迷信となんら変わりはないのである。
このように、「言霊は」日本人にとって潜在意識にまでさかのぼるような古くからの感覚である。
定家の生きた時代においては、「和歌」のもつ役割は、現代とは大きく意味合いのことなった重要なものであった
ことだろう。上皇の熊野御幸に歌人として随行するというのは、ただ旅に風情を添えるものではなく、皇室の威信
回復を願う上皇にとって、ひとつの具体的な手段であったのではないだろうか。

<明月記  藤原定家の日記>
 熊野街道を紹介するときに、説明板の多くには藤原定家の記した日記が紹介されている。
藤原定家が後鳥羽上皇に随行した御幸の際の様子を詳細に記したもので、当時の御幸の様子や、随員の気持ち
までもがよく記録されている。

 後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原
定家の日記を元に旅程を記したパネル。
(有田市の糸我稲荷神社の隣にある、
くまの古道歴史民族資料館に展示)

建仁元年(1201)10月5日に京を発ち、
熊野本宮へは17日に到着した。
京から本宮まで12日間の旅程である。
淀川からは陸路となるが、熊野御幸は
九十九王子社へ参拝、奉幣するだけで
なく、途中、水垢離、塩垢離をしたりと
行事も多い。
現代の熊野詣でも大阪から9日間
かかっているので当時の移動時の速度
は速かったに違いない。

 天王寺で一泊目を過ごした後、大鳥居(鳳)
王子(堺市)の2つ先の平松王子で二泊目を
迎える。「板も敷いていない小屋に寝るなんて」
とぼやくが、貴族とはいえ宮仕えの厳しさが
垣間見える。
三日目は信田王子(和泉市)で、歌会があり、
「上皇様の歌はすばらしい」と持ち上げる。
随行員にとって、熊野御幸は物見遊山では
なく、仕事であり、歌詠みの専門職として随行
した定家の日記は、ある意味業務日誌であり、
現代の勤め人の身と重ねると、800年前の
熊野御幸がぐっと身近なものに感じられて
くる。
ヲノ山峠(雄山峠)を越え、紀ノ川を渡り紀伊
の国へ入る。

 四泊目を藤白王子(海南市)で過ごし、藤白峠、
拝ノ峠、糸我峠と3つの峠を越える。
「山道は岩だらけでとても恐ろしいでも、海の景色
は素晴らしい」と感想を記しているが、現代でも同じ
景色を見ることができる。
えの後、塩垢離をして湯浅に泊まる。(五泊目)

六泊目の岩内宿所では、「今夜はとても暑い。南の
国のせいか蠅が多くて夏のようだ」と寝苦しさを訴える。
定家は喘息持ちで呼吸器系が弱かったらしい。
翌日は、風邪気味のところに海水を浴びた(塩垢離)
ので苦しいと訴え、切部では「宿は狭くて漁師の小屋
のようだ」とぼやく。




八泊目を田辺で過ごすが、このサイトで
紹介する熊野詣もここからが宿泊しての
徒歩旅行となる。
定家らは山中小屋で翌日泊まったが、
「こんな山の中に泊まるのか!寒くて
たまらない」という。
現代では宿屋も無く、民宿のある近露
まで歩かねばならない。イラストを見ても
わかるようにこれまでの峠越えより標高
が高く険しくなっている。
世界遺産に登録された道はここから本宮
までで、実際に往時を偲ぶ雰囲気に
あふれた魅力的な道だ。


ハイライトの部分
だけでなく、滝尻
王子から歩き、
近露で宿泊して
翌日夕方に本宮
に到着、湯ノ山
温泉などで宿泊
というのが熊野
古道を満喫できる
お薦めのコース
だろう。






<大阪府下の熊野街道>
 熊野街道は、摂津国渡辺津(わたなべのつ)
を起点とする。
現在では淀川南岸の天神橋と天満橋の間に
相当し、かつてはここを中心に北船場一帯が
入り江となり瀬戸内でも最大級の港であった。
今では証券会社の町である「北浜」、老舗の町
「船場」と港に関する地名が名残を留めるばかり
だが、古くより港として機能していた。

難波京はここから南南東へ1kmほどのところに
あり、奈良からも木津川、巨椋池を経由して水運
でつながっており、遷都の際の資材、物資の輸送
にもこの港が活躍したことだろう。
また、内陸との水運のみならず、瀬戸内から来る
船荷の積み換えの場でもあり、国内にとどまらず
古くは大陸を結ぶ国際港でもあった。

左の地図は天保年間の大坂のものである。
上段の洲は「北中島」とあるが、現代の東淀川、
淀川、西淀川区のあたりか。その下の洲は西成郡
とあるが、おおよそ北区に相当し、さらにその下の
ヒルのような小さな洲が今の中島に相当する。
その洲の東側にある5角形で囲まれたところは
「御城」と記されているのでそれを起点に、
現代の地形と比較してみると分かりやすい。

渡辺の津は中世の呼称で、もとは窪津と呼ばれて
いた。左の地図が作られた近世での呼称は八軒家。
 京を発った御幸の一行はこの渡辺津から船を下り
陸路をたどった。
 熊野街道は堺へ向けて南下し、和泉国の山手側
の南西を通る。そして山中渓から和歌山に入り、
雄ノ山峠を越える。
大阪府下では約52kmの道程となる。


<高麗橋 里程元標>

 熊野街道は地下鉄堺筋線「北浜」と、谷町線
「天満橋」の中間に位置するが、北浜から行くと、
明治期に策定されたの高麗橋元標が近い。
まずは立ち寄ってみた。

 今では、高麗橋にも阪神高速道路が上に架かり、
人通りもまばらなところに「里程元標跡」の碑が
ひっそりと建っている。






<小栗街道(熊野街道)>

 さて、いよいよ熊野街道の始まり。 9:10 快晴の天気のもと、歩き始める。
大阪府の南部、和歌山との境からは和歌山県・街道マップにより道程を
参考にするが、大阪府下ではその街道マップの監修者である吉田昌生さんに
よる「熊野古道ガイドマップ 熊野への道 大阪編」を参照した。
(B4版15ページの冊子)
これは市販されておらず、発行所である海南市、藤白神社の授与品であり、
社務所で頂いた。(¥600)
 まずは、京から淀川を下った船から上陸する渡辺津のあたり。
土佐堀通りの東方向を撮影。港の面影はまったくない。
 大阪市内を通る熊野街道は、ごくわずかな痕跡しかなく、王子社跡もほとんど
整備されていない。街道風情は期待するべくもないが、それも原因はアメリカ
戦略空軍による焼土作戦で壊滅的被害を受けた上に、戦後の復興、再開発で
地形そのものまでも大きく変貌した結果である。

 始めの王子社、窪津王子跡が渡辺の津、現在の石町二丁目に、座摩神社行宮
として残っているはずだが、オフィスビル街の中で見つけられなかった。
まずは、松屋町筋の一本東側の筋(骨屋町筋)を南下する。
阪神高速の高架に突き当たるが、農人橋の歩道橋で中央大通りを横断する。
もとの筋に戻り250mほど行くと神崎町の南大江公園に、坂口王子跡がある。









 朝日神明社
(坂口王子伝承地)

写真左の赤い鳥居は
狸坂大明神


公園の先で左折し、
十二軒町を東へ進む。





東行した熊野街道と御祓筋が交わる地点(写真左)
の南側は急な坂道になっている。
これは古代においては入り江に臨む崖であった。
 樹齢650年とされる榎木と、榎大明神の祠。
坂口王子はこの辺りにあったする説もある。
また、この榎木は楠木正成が植えたとの説もあり、
大正以来都市計画で伐採しようとするとその度に
事故が起こり断念された。さらに昭和二十年の大阪
大空襲の際、榎大明神より東側は類焼を免れたため
霊験が喧伝された。
 その証拠、うだつのある家屋が市内には珍しい。
(写真:右)


 三階建ての趣のある家。

 谷町筋を長堀通りの一本北の道で横断
する形になる。
横断するとすぐに「熊野街道」の道標が
あり、右折する。








(写真:左)
 谷町筋のひとつ東の筋を
南下して、

(写真:右)
道標。
長堀通りを横断する。








(写真:右)
上本町西二丁目で左折
(東行)する。
先の右折した場所からこの
道標まで300mほどの距離。

上町中学の手前に群戸(こうづ)
王子址があるとされるが不明。
このあたりの西側は谷町筋を
挟んで高津(こうづ)という地名
もあり、特定は難しい。


(写真:左)
上町中学の西側を南へ。

(写真:右)
直進(南行)する。









(写真:左)
 大阪市内で、虫籠窓のある家屋は珍しい。


(写真:右)
谷町九丁目、上本町ハイハイタウンの近く。
千日前通りを渡り、谷町筋の二本東側の筋を
南行する。






 国際交流センターの
横を過ぎ、


天王寺署の東側にでた。
(10:33)
マップにはここから四天王寺
の南側まで街道を示す矢印が
ないので、いったん谷町筋の
方へ寄り、(ここで右折)
四天王寺高・中学の西側を
南下した。


 四天王寺
(10:37)

(写真:右)
英霊堂
明治三十九年の建立。
当時世界最大の梵鐘が
あり、大釣鐘堂と呼ばれて
いたが、大東亜戦争で供出
された。戦没者の慰霊堂




(写真:左)
天王寺式伽藍
講堂・金堂・塔・中門
が北から南へ直線
に配置。

南大門と、その前に
ある、熊野権現礼拝石

御幸、熊野詣には、
ここで道中の安全を
祈願した。


(写真:左)
 天王寺駅周辺。
街道跡は完全に消滅。
ショッピングビル街を高架
を通って線路の南側へ
抜ける。 (11:05)

(写真:右)
「熊野かいどう」の道標
「八軒家浜から6.5
キロメートル」
最近の道標にしては気が
利いている。

阿倍野区へ入り、阿倍筋へ
いったん合流する。
松虫交差点
道標(八軒家浜から6.8km)

交差点で、阿倍筋から分かれ、
南西の斜めに伸びる道へ入る。
「熊野かいどう」のプレートが
道の脇にある。
車もほとんど通行しない道で、
「松虫」の風情ある地名も
良い感じである。



(写真:左)
その正面からの写真

(写真:右)
道標。平成二年に設置された。








阿倍晴明神社 (11:38)
映画「陰陽師」で、野村萬斎
扮する阿倍晴明を観てから、
あまりのはまり役にすっかり
萬斎ファンになってしまった。
大槻能楽堂で、萬斎の狂言
を生で観て、狂言のDVDでも
鑑賞している。





 狂言では、所作が型として代々受け継がれている。
能楽は室町時代初期に起源を持つが、現在でもそのままの演出で鑑賞できるところがすごい。
 萬斎がエディプス王をギリシャの円形劇場で演じたが、西洋の演劇に触れて、
彼はこんな事を言っていた。ギリシャの石造りの劇場も台本も残っている。
しかし、狂言より新しい西洋の演劇、たとえばシェークスピアの演劇では、当時
どのような演出で演じられていたのかは今ではまったく分からない。
 演出方法は新しい勢力が古い勢力を駆逐し、途絶えてしまうからである。
これは西洋の王朝交代の歴史そのものにも見て取れる。
石造りの建造物は長く残るが、人が代々伝承していくいわゆる「ソフト」が現代
にも残されているという日本の特徴は世界の奇跡と言えないだろうか。
 天皇の祭祀のやり方は有史以来変化なく、伊勢神宮の式年遷宮では建築技術
の伝承すら、今に生きており、雅楽では唐や高句麗の影響を受けたもの、その後
本家では遙か昔に絶滅した音楽が千数百年の時を経て再現されている。
芸能でも、六百年前の演出そのままを現代でも鑑賞することができる。
 日本というのは、なんとすばらしい、奇跡のような国だろうか。

 阿倍晴明神社のすぐ南に
安倍王子神社がある。
大阪府で唯一現存する王子社
である。
(11:43)









 経塚跡
もとは古墳の跡だが、聖徳太子
が一字一石経を埋めたとか、
空海が写経を埋めたという伝承
から経塚と呼ばれた。

(写真:右)
摂津名所図会より。
安倍野王子権現の社の右上
に、大名塚、小町塚、経塚
と記されている。




 安倍野元町のあたり












(写真:左)
 北畠で、街道は阪堺電軌
の路面電車の路線と合流
する。
その先の姫松駅の南、府道5
号線を渡ってすぐに左の道を
万台池の方向へ進む。
阿倍野区から住吉区へ入る。

(写真:左)
帝塚山東の万代池
八軒家浜から8.5kmの
道標。 (12:11)


 万代池の桜。
葉桜だが、まだ桜色が
見て取れる。


(写真:右)
帝塚山東四丁目。
八軒家浜から9.4kmの道標
(12:21)





 南海高野線、住吉東駅の
2つ北側の道で線路を渡り、
すぐの突き当たりを左へ。
住吉東駅前の西側2つめの道
(住吉大社と南海高野線との
中間くらい)を南行する。








住之江大社が近い。
参拝して行きたかったが、
先を急ぐので、住吉さんは
改めて参拝に行くことにした。

(写真:左)
住之江名物・住之江味噌
池田屋

(写真:右)
10km道標 (12:29)



 路面に埋められた街道プレート。
分かりやすい。

墨江小学校の西側を通過。
津守王子、津守寺址と伝えられる。


道に沿って、大和川まで南行する。
南海高野線の西側2本目の道にあたる。






忠魂碑


八軒家浜から10.2km
の道標
(12:36)







八軒家浜から11.1kmの道標
(12:47)


(写真:左下)
大和川に出る。(12:54)
遠里小野(おりおの)橋へ大きく迂回して、
府道30号線へ出たあと、また東(手前)へ戻る。






橋を渡ると堺市。
渡ってまもなく目に付いた
道路沿いの焼き肉屋に
入り昼食にした。
ランチセットで780円

 南海高野線、浅香山駅
の南側で線路を渡り、南
方向の道を行き、少年鑑別所
の手前で右折し、二つめの
筋で左折してまた南下する。



南田出井町で東西へ延びる府道12号線、長尾街道
と交差する。
交差部に、方違(かたたがえ)神社がある。
境内の「三国丘」の碑。
摂津・河内・和泉の三国に接する場所に建つ
方違神社は、平安時代の陰陽道からくる方違
で行く先の方角に制約がある場合、
このゼロ地点ともいえる場所に来ることにより、
折り合いをつけることができた。
方角の神様から、交通の神様として新車の御祓い
に多くの車が来ていた。



(写真:左)
方違神社のすぐ南側、
北三国ヶ丘遺跡・鈴山古墳
百舌鳥耳原北陵(反正天皇陵)
の東側を沿うように南下し、
すぐ右に曲がり、三国丘高校
を縦断するかたちで仁徳天皇
陵の北端まで進む。

(写真:右)
向井院・閼伽井跡
史跡 三國山遍照光院


 仁徳陵の北側、榎元町4丁目
で、竹内街道と交差する。
国道310号線を横断し、SLが
展示してあるレストランを通り、
仁徳天皇陵の西側を回り込む。

陵の北東側に沿って、国道310
号線沿いに進むと、西高野街道
であり、このあたりには、
長尾街道、竹内街道、熊野街道、
西高野街道と主な道が交差する
交通の要衝であった。


 仁徳天皇陵(大仙古墳)
 堺市古墳データベース
 ウィキペディア・大仙陵古墳
世界最大級の墳墓。
発掘品から5世紀中頃と推定。
仁徳天皇陵としては異論もあり、
最近の歴史教科書では、
「大仙古墳」と記述されている。
宮内庁による陵号は
百舌鳥耳原中陵
(もずのみみ
はらのなかのみささぎ)。



現在は宮内庁管理の陵墓の
為に、堀の内側に入ることは
できない。
中世には狩り場となり、秀吉も
しばしば訪れたという。
後円の埋葬施設はすでに
盗掘されており、江戸時代には
石を持ち出し奉行所の庭に
使われるなどしていた。

(写真:右)
倍塚のひとつ。


 仁徳天皇陵の南西角、
大阪女子大の南、府道197号線
を西へ行く。
御陵通の石碑がある。
ミノルタの堺工場の前を過ぎる。


 国道26号線を越え、紀州街道
(府道197号線)に接した後、
御陵前交差点を南西方向へ斜
めに伸びる道を進む。



東湊町1丁目の湊小学校の
西側を通り、菅原通りを国道
26号線に平行して進み、
石津町東2の交差点から国道
26号線の高架下を石津神社前
交差点まで進む。
 熊野街道の道標があるが、
このあたりはちょっと分かり
にくい。
 そもそも、仁徳天皇陵から
直角に西へ曲がり、紀州街道
と合流することなく、すぐに分か
れて「く」の字型に回り道する
のが不自然に思える。

(写真:左)
 浜寺船尾町東4丁目の
馬場記念病院の西側で、南進
する府道30号線から分岐し、
南南西へ延びる道を大鳳大社
へ向けて直進する。






















 大鳳大社 (16:22)













-------------説明板より----------
祭神は、日本武尊と大鳥連祖神(おおとりむらじのみおやのかみ)
の二柱であり、和泉国一の宮にあたる延喜式名神大社であり、
同じく式台社(しきだいしゃ)の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・
大鳥井瀬神社・大鳥浜神社と併せて、大鳥五社明神と呼んでいる。
 当社の本殿は、わが国神社建築史上、大社造につぐ古い様式で、
大鳥造と呼ばれている妻入り神社建築は、出雲の大社造・大鳥造・
住吉造と発展してきたものであるが、当社本殿は明治38年に焼失
し、同42年に古式どおり造営されたものである。
 神域は千種森といわれ、樹木が密生し、うっそうとしている。
奉祀の時一夜にして種々の樹木がはえたという伝説をもっている。


 当社は文武の神として、古来より武家の信仰が厚く、平清盛・
重盛父子も平治元年(1159)熊野参詣の途中当社に参拝し、
清盛は「かいこぞよ、帰りはてなば飛びかけり、育み立てよ大鳥の神」
と一首よんだ。富岡鉄斎(当社宮司)の筆になる歌碑が現存している。
                              堺市
-----------------------------









 参拝したあと、大鳥大社の鳥居を戻り、神社前
交差点からJR鳳駅の北側を越え、アーケードの
商店街を過ぎる。

鳳南3丁目を過ぎ、「上」交差点で府道30号線に
合流し、南西方向へ進む。
そこから南へ府道36号線を進むのは、父鬼街道。

街道は高石市へ入り、取石7丁目のコーナンを過ぎて
すぐ小川に沿って西へ入ったところに等乃伎神社
がある。



(17:15)
 等乃伎神社に参拝後、
また戻り府道30号線に出る。
100mほど先で30号線は分岐
するが、左手の30号線を進む。









 等乃伎(とのき)神社
等乃伎神社は、古代よりこの地に祀られています。
 古い歴史があることは、「延喜式」の神名帳に名が記されています。
 そして、この土地には「殿来連(とのきむらじ)」という氏族が
居住していいたことが、「続日本紀」にも書かれています。
また、古事記にも記録されています。
 仁徳天皇の時代に、「兎寸河(とのきがわ)」の西に一本の巨大な
樹があり、朝日を受けるとその影が淡路島に達し、夕日を受けるとその
影は高安山を越えるほどであった。この巨木から船を造ったところ、
速度が速く「枯野(からぬ)」と名がつけられ、淡路島より天皇の
使われる水を運んだと言われています。巨木伝説のひとつです。



 堺泉北道路の高架をくぐり、
陽も大きく傾いてきた。
JR北信太駅へ到着(18:05)。

9時間のうち休憩は1時間弱だったので
歩行時間はおよそ8時間
歩行データ (Omron万歩計)
45,465歩
しっかり歩行 31,047歩
1,547Kcal、 36.37km

快晴の気持ちの良いウォーキングだった。


翌日へ続く



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