第 34回 紀伊路  御坊市 - 南部町 岩代  2004年11月7日


 JR天王寺駅を6:50に出て、御坊駅には8:52に到着。
中辺路は田辺の周辺を起点として歩く計画だが、そのため
にも今日はできるだけ田辺に近づいておかないと一日余分
に掛かってしまう。 日が出ている間にできるだけ距離を稼ぐ
のは、徒歩旅行していた往時も今も変わらない。

 鹿ヶ瀬峠を前回越えているので、ここから田辺までは平坦
な道が続くので距離は期待できる。

(街道マップ 「紀伊路」 
紀伊内原
(日高町)〜西御坊駅(御坊市)P.6、7

(歩行距離:14.6km、 標準歩行時間:3時間55分)

御坊駅を出て
左折し、重力踏
切を渡って海士
王子の方角
(東北東を写す。
前回、このあたり
はほぼ真っ暗で
様子が分からな
かった。
 踏切を再び渡
り、湯川中学を過
ぎると紀州街道
と紀伊路の分岐
がある。(写真:右

紀州街道を少し
行くと湯川子安
神社がある。
 空き地が開け、
太鼓橋を渡ると
石垣の上に拝殿
がある。由緒書き
にあるように湯川
氏の邸宅跡か。

参拝してまた、
分岐まで戻る。

--------------------------------説明板より--------------------------------------
湯川子安神社

 所在地 御坊市湯川町小松原
 祭神  此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
 由緒  安産之神・子授之神・母性保護之神・育児之神
  沿革

湯川氏が当地を支配していたときの邸の一隅に明神社を祀っていたが、天正年間(約四百年前)
に静岡県大宮に鎮座の元官幣大社浅間神社よりその御分霊を亀山城内の明神社と共に勧請し
城主湯川重治公がご息女の安産を祈願されまして無事御安産なされました。
 其の後天正十三年(1585)兵火にかかり全焼し後、現在の此の地再興し子安神社を創建せられ
多数の参拝の方々がご加護を賜って居ります。
明治になって再び火災で全焼し明治十五年(1883)再建し昭和十年(1935)九月本殿を修復し
及び拝所を新築した。
お参りの皆様方、子安大明神様に「お産が軽くあります様、また立派な赤ちゃんが授かりますよう」
にと心を込めて御祈願ください。
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 南へ紀伊路は
伸びる。
古い街並みと
畑の間にある
街道を進む。
県道26号線に
出ると、不自然
な場所にお城が。
結婚式場だった。

 野口新橋の手前
の千寿堂で弁当、飲料を補充する。


 野口新橋欄干。蛇に化けた清姫
をモチーフにして
ある。


日高川南岸から
道成寺のある
御坊市を望む。





 ここから先の紀伊路には、長唄、踊り、歌舞伎で有名な「京鹿子娘道成寺」、いわゆる「娘道成寺」
ゆかりの史跡がいくつかある。清姫の腰掛け石だとか、中辺路町真砂が生地とされ墓もある。
そこで、熊野詣が舞台となる「安珍・清姫の物語」はあらすじだけでも押さえておきたい。

頃は平安の昔、熊野詣の修行僧・安珍は真砂の豪族の邸に宿を借りた。この邸の美しい娘、清姫は
安珍に恋心を抱いて迫る。安珍の心は清姫に傾くが、いかんせん出家の身、女犯の罪は犯せない。
(僧が妻帯できるのは鎌倉仏教、浄土真宗以降) 悩む安珍は、今は参詣の途中、帰りにはきっと寄る
と約束した。 安珍の帰りを待つ清姫は、恋いこがれ待ち続けたが、ついに裏切られたことを知る。
怒り狂った清姫は、安珍を追いかける。道成寺では安珍を鐘の中へ隠したが、怒りのあまりに蛇に変化
した清姫はその鐘に巻き付き安珍を焼き殺してしまう。

という、美しくも、恐ろしい物語である。清姫は寡婦だったが、悲恋物語にするために娘という設定になった
という説もある。 スターの「追っかけ」から、ストーカーまで、程度の差はあれ現代も平安の熊野詣の
時代も、人間の情というのは変わらないということか。
どんなにモテモテでも、大蛇に追いかけ回される羽目に陥るなんて、死ぬほど怖かったでしょう。
熊野街道には、このほかにも街道の別名にもなった小栗判官と照手姫の物語も有名だ。
仏教説話として広く庶民に知られたが、江戸時代の熊野詣への参詣者はこれらの物語の舞台を楽しみ
ながらも歩いたのではないだろうか。それは、信仰の道というストイックな面と、参詣という免罪符で
日常から解放されたレジャーとしての旅でもあったのだろう。

 橋を渡るとすぐに右へ折れ、土手の道を真っ直ぐに進む。
土手の終わりにある道標を目印に左へ進み岩内王子へ
向かう。

(写真:下段) 岩内王子跡   (9:57)
 岩内コミュニティ館の敷地に石碑がある。おばあさんが
ひなたぼっこをしてた。

後鳥羽上皇に随行した定家はこの地で宿泊した。



















(写真:左)
 岩内王子跡を
直進し、琴野橋
を渡る。
渡ってすぐ左の
小道が古道。

(写真:右)
御坊市内で目印
にする道標。




 極楽寺を過ぎたあたりで古道から
はずれてしまった。
海寄りの道に出たが、かえって古い
街並みが続き、街道風情があった。
そのまま道なりに進むと、塩屋王子
へ出る。







(街道マップ 「紀伊路」 紀州鉄道西御坊駅(御坊市)〜切目駅(印南町) その1 P.8、9
(歩行距離:14.9km、 標準歩行時間:3時間55分)

 塩屋王子
(10:33)

鳥居の先の
階段を上がると
見晴らしのいい
境内が広がる。

気候もよく、清々
しい気持ちで
参拝する。



(写真:左)
御所之芝
後鳥羽院御在所
の跡

(写真:右)
境内から鳥居
の方向を写す。
結構急な階段
が続く。



−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
美人王子の由来

 塩屋王子神社の祭神は天照大神ほか十一柱であるが、主神の天照大神の神像が美しい
ところから別名美人王子と崇められてきました。
 古い記録の中に来ル菊月四日美人王子宮御祭礼の節・・・と記されまた和歌山県聖蹟には
美景の地に鎮座することから美人王子と称えたのであろうと書かれている。
 今日では美しき子が授かると言われ若い夫婦や女性の参拝が盛である。
                                                 塩屋王子神社
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 王子橋を渡り、
道なりに進む。
海岸沿いに伸び
る国道42号線
の東側にあたる。


落ち着いた
雰囲気の街並






 分岐を右側の
道を進むと、民家
脇から「観音山
自然公園遊歩道」
の標識に沿って
曲がる。









細い道が進むと
眺望が広がる。











 一旦国道に出
るが、まもなく
分岐から海側の
道へ曲がる。
(写真:右)









(写真:左)
一里塚跡

(写真:右)
清姫草履塚
(11:18)
そこからまもなく
国道へ出る。






 岬(壁川崎)
の根本を歩く。
そこにドライブ
インはし長が
あり、食事も
できる。
弁当を買って
しまったが、ここで
海の幸を味わう
方がよかった
かもしれない。




清姫草履塚の
先の国道から
500mほどで
また旧道に入る。








(街道マップ 「紀伊路」 紀州鉄道西御坊駅(御坊市)〜切目駅(印南町) その2 P.10、11
(歩行距離:14.9km、標準歩行時間:3時間55分)

和歌山工業
高等専門学校
を過ぎたところに
マップ上コンビニ
の表示があるが、
店じまいしたのか
無かった。

高専のすぐ先に
名高郵便局が
ある。




仏井戸への
道標

御坊市役所
名田支所








名田漁民センター
敷地内にある、
上野王子跡











名田の漁港



清姫の腰掛け石
(11:58)








 マップ中拡大図
で示されている
場所。国道に
接したあとまた
分かれる。
写真では3つ又
の真ん中の道が
旧道。






 濱側橋を渡り
(写真:左)直進
するとまもなく
国道と合流する
(写真:右)









 国道42号線
にでるが、左側
の歩道は充分
な幅があり、危険
はない。
御坊市から
印南町津井へ
入る。

フェニックスと
水平線も美しい。



印南港を右に
見ながら進むと
津井王子の標識
がある。
高台へ登って
行く。








叶王子跡
(12:38)

高台で港の景色
を見ながら昼食
にした。







−−−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−
津井(叶)王子跡 (かのうおうじ)
 建仁元年(1201)、後鳥羽上皇に随行して熊野参詣をした藤原定家は、十月十一日に、
塩屋・「うへ野」(御坊市)、「ツイ」・「イカルカ」(印南町)の各王子に参拝し、切部王子社で
宿泊しています。それから十一年後、修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資は、承元四年
(1210)四月二十六日に、塩屋、上野(御坊市)・楠井・鵤(いかるが)・切目(印南町)の各王子
に参拝し、切目で宿泊しています。上野王子と鵤王子の間に、津井あるいは楠井と呼ばれる王子
があったのですが、早くに退転してしまったようです。江戸時代には、この付近に叶王子社があった
ことは、『熊野道中記』などで知られています。『紀伊続風土記』では、叶王子社は津井王子社が
移転したものと説明しており、これが有力な説です。この王子社は明治時代に叶王子神社となりました。
が、山口の八幡神社に合祀されました。合祀後も地元では、願いが叶うの意から、「おかのさん」と
呼ばれています。
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 おむすび弁当
20分食事休憩
をして13:00
に出発。










 印南港を回り
込むようにして、
国道より海側の
道を進む。

(写真:右)
13:16に平和橋
を越える。
橋を渡ってすぐに
左折する。




さらに右折して
高台へ上り道。

集落を抜ける。










 宝来橋を渡り
直進する。

まもなく国道に
合流する。

マップ中、「登坂
車線の横の道を
登る」と記載され
た箇所。
細い道を上る。



印南町円山。
写真上段右の
道は、その後
写真:右のように
カーブする。
カーブのところに
ドライブインが
あり、その向こう
に巨大怪獣!が
(写真:左)上陸
しようとしている!
・・ように見えた。


坂道を登り、鳥居
をくぐると、
斑鳩王子に到着。
(13:32)









−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−
斑鳩王子 (いかるが)
 天仁2年(1109)十月二十日、熊野参詣途中の藤原宗忠は、「伊南(いなみ)」の里を過ぎて、
「鵤(いかるが)王子社」に奉幣したと、日記に書いています。その後、鎌倉時代に熊野に参詣した
藤原定家や藤原頼資も、それぞれの日記に、この王子に参拝したと記しています。江戸時代には
富王子といわれ、『紀伊続風土記』では、印南荘光川村の項に載せられています。「いかるが」が
「光川」に当て字され、村名になったようです。富王子社の名称は、近くを流れる富川に由来する
らしく、昭和十七年に刊行された『和歌山県聖跡』では、鵤王子社が江戸時代に、この地に移転さ
れたと述べて、旧社地を宇森平にあった「大将軍神社」の跡地に比定しています。
富王子社は明治時代に富王子神社になりましたが、大将軍神社と共に、印南の八幡神社に合祀
されました。
現在の斑鳩王子社は、昭和二十五年に八幡神社から分祀して建立されたものです。
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町指定史跡 斑鳩王子跡

 斑鳩王子は、富王子と称せられ、熊野九十九王子中でも古く、中右記天仁二年(1109)十月二十日
の条に「・・・次過、伊南里、次鵤王子奉幣云々」、御幸記建仁二年(1201)十月十一日の条に「次ツイノ
王子、・・・次イカルガ王子」と記されている。
この他、元禄十四年(1701)歩行記に「富の王子光河の側に御座・・・」、熊野紀行に「のこぎり坂上下二丁、
此坂こえて同所人家あり、出口に富の王子社」、また、紀伊続風土記文化十三年(1806)に「往還あり、
御幸記にいかるが王子とあるは是なり」とあることから光川地内に鵤王子があったと推定される。
 明治四十一年(1908)の神社合祀令により印南八幡社に合祀されたが、昭和二十五年にこの地に
遷祀された。

 故郷を思ひかさぬれ熊野路の
   名にしいなみの浦のはまゆふ

                 印南町教育委員会
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マップ中「ガード
レールの切れ目
を左の道に入る」
と説明のある
場所。
道路の左側から
分岐する道が
旧道。


拡大図にある
案内板


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー説明板より−−−−−−−−−−−−−−−
瑠璃色の熊野古道
熊野路

 平安時代に配列されたといわれる九十九王子社は熊野権現の分身とされ、熊野古道に沿って建立されました。
なかでも藤白・切目・稲葉根・滝尻・近露の五社は「五躰王子」と呼ばれ、格の高い社だとされていました。
印南町には、この五躰王子のひとつである切目王子、叶王子(津井王子)、斑鳩王子の四社がありました。
 切目王子には宇多天皇を始め花山院、白河上皇、後鳥羽上皇など歴代皇族が参詣し、「蟻の熊野詣」と
いわれ、特に熊野信仰のあつかった後鳥羽上皇は正治二年(1200)に切目王子で歌会を催し、「切目懐紙」
が西本願寺に所蔵されています。
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 上り道を行くと
高台に切目王子
神社が左手に
ある。

(13:59)


定家も宿泊した
五躰王子社の
ひとつ、
切目王子


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー説明板より−−−−−−−−−−−−−−−

切目王子

 天仁二年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月二十日に切部の水辺で禊をした後、切部王子社
に奉幣しています。
当時は分陪支(ぶべし)王子とも呼ばれたそうです。それから約七十年後の、承安四年(1174)九月
二十七日、参詣途中の藤原経房は切目王子で里神楽を催し、一切経を六行分奉納しています。
この王子社での経供養や神楽の奉納は慣例だったようで、承元四年(1210)四月二十六日に、修明門院
は経供養を行って、「聖女」八人等にそれぞれ白布一反を与え、応永三十四年(1427)九月二十五日には、
足利義満の側室・北野殿が神楽を催しています。また、正治二年(1200)十二月には、後鳥羽上皇がこの
王子社で歌会を催しており、この時の「熊野懐紙」が残っています。平治の乱(1159)が起こった際には
参詣途中の平清盛が、切部王子から都に引き返し、元弘の乱(1331)の時には大塔宮(おおとうのみや)
がこの王子社で熊野権現のお告げを受けて、十津川に落ち延びるなど、数々のエピソードもあります。
室町時代には、熊野の若宮以下の五所王子を祀る五躰王子とされました。
天正十三年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めで焼亡し、その後、移築復興したといわれ、江戸時代には
「五躰王子社」とも称されました。明治時代に切目神社となり、現在に至っています。
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切目神社の由緒

 切目王子社は崇神天皇の六十七年、今をさかのぼる約千五百年前の建立と伝えられ、天照大神より
五代にわたる神霊を祀る。
奈良・平安時代(十一〜十三世紀)の三百年間は特に熊野詣が盛で、この時期御幸の中継遥拝地点
として数百人もの宿泊地となった。京都新宮間には九十九の王子社がありその中に五体王子と呼ぶ
五つの大きな王子社がある。当社はその一つで多くの歴史に富んでいる。

次の事項はそのうちの著名なものである。
一、平治の乱における平清盛、重盛の評定(1159年)
  熊野詣での途次、都の反乱を早馬で知らされ一族はこの社前で議定、直ちに引き返し大勝に至った。
  (平治物語より)
一、後鳥羽上皇御歌会の所(1200年)
  後鳥羽上皇一行十一人の御歌会の切目懐紙(現在西本願寺蔵・・国宝)の写しを蔵す。
一、大塔宮護良親王御旅寝の社(1333年)
  御神託により切目川沿いに十津川へ落ち延びたと云う。(太平記より)
一、秀吉の紀州攻めにより消失(1585年)
  現御坊市湯川町に在った亀山城城主湯川直春と共に秀吉に反抗全山廃墟と化したが、氏子等の一途な
  信仰により再興された。(千五百九十四年)
一、紀州初代藩主徳川頼宣の信仰(1662年)
  紀州藩歴代各藩主の信仰は篤く、とくに初代頼宣御手植えのナギの木、奉納の絵馬及び香炉が現存する。
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跡地しか
残ってい
ない王子
社が多い
なかで、
藤白に次
ぐ二つめ
の五躰
王子社。
 境内で
小休止の
後出発。


海が垣間見える
街道筋の街並み
は、落ち着いた
風情と海辺の
町特有の陽光
が気持ちよい。








 切目橋を渡る。
(14:06)
印南町島田の
街並みをすこし
行くと、JR切目
駅の側に至る。
駅の北側で、
低いガードを
くぐる。





(街道マップ 「紀伊路」 切目駅(印南町)〜南部駅  P.12、13
(歩行距離 12.1km、標準歩行時間3時間20分)

 ガード下をくぐる
とまもなく光明寺
がある。
境内には忠魂碑
が祀られている。
マップ中拡大図
にあるように、
光明寺脇の道
ではなく、右手
に見ながら直進
するのだが、拡
大図を見落とし
道を間違えた。

 光明寺の横の
道を進んでしまい
梅林へ入り込んで
しまった。

街道の峠道の
雰囲気に気づか
ず進んでいると
梅林の行き止ま
りまで行ってしま
った。



およその方角で
道を修正している
と「中山王子」の
道標があった。
榎木峠の手前、
切目中山王子
は切目駅から
900mの距離で
標高90mほど
の上り坂の頂き
にある。
遠くに高速道が
見える。

切目中山王子
の鳥居が見えて
きた。
(14:49)到着
道に迷って20分
のロスとなった。


その手前にある
宝筺印塔。




 中山王子神社













足の宮
草鞋、草履を
供える。










−−−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
中山王子
 後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家は、建仁元年(1201)十月十一日に切部王子付近の漁師
の家で、海水で身体を清める塩垢離を行い、翌日「切部中山王子」に参拝しています。定家のような中流の
貴族は、民家に泊まることが多かったのです。それに、岩内王子(御坊市)近辺の小宅で宿泊した時に発熱
していましたので、病気の身体で、この王子社に参拝しています。承元四年(1210)熊野に参詣した修明門院
は、四月二十六日に切目で宿泊し、翌日、切目中山を徒歩で、次いで輿に乗って、この王子社に参拝しています。
江戸時代には中山王子社と称され、境内には、長床という僧の修行場ないし宿泊施設もありました。
ただし、御幸時代の中山王子社は別の場所にあり、後世、現在地に移されたという説もありますた。
明治時代に王子神社となって、付近の小社を合祀して存続し、現在に至っています。
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県指定史跡 中山王子跡

 中山王子は、熊野九十九王子の一つで、建仁二年(1201)の後鳥羽上皇の「熊野御幸記」に「先陣また
山を越えて切部中山王子に参る」と記されている。
 しかし、御幸記より約100年前の天仁二年(1109)の「中右記」に「切部川を渡り同山出る祓」とある。
中山王子なる名は見られないが、当時すでに小社があったと考えることができる。
 現在の中山王子の位置は、中山ではなく榎峠であり、中右記には「山出祓」と山を越えて参拝しており、
御幸記では「山を越えて切部中山王子に参る」とはっきり記されている。
 中山王子社の位置は、どこであったか不詳であるが、一般に現在地より東約1kmの中山谷に「王子谷」
という地名があり、小祀の跡が残っていることからこの地にあったのではないかと考えられる。
                                       和歌山県教育委員会 印南町教育委員会
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 切目中山王子を出てから、また
道を間違った。
コンクリートの小道が梅林の間を
縫って蛇行しながら伸びている。
杭状の道標に注意して進むが、
写真:右の道標は中山王子からの
方向からはただの杭にしか見えな
かった。しかも、旧道は、これまでの
コンクリートから、この分岐で地道
になるので、道なりに進んでいると
間違ってしまう。わかりにくいので
気をつけたい分岐点である。




榎木峠からの
ゆるやかな下り道
























海岸へ直角に
下っていくが、
国道42号線の
手前の道を左に
折れる。

1kmほどの
橋ヶ谷で国道と
合流する。
マップ中「梅工場」
とある地点。
(15:38)


国道沿いにある、
有馬皇子結び松
の記念碑
(15:44)









−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
和歌山県指定文化財
 史跡  岩代の結松

 斉明天皇四年(658)十月天皇と皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は紀の湯(白浜温泉崎湯)に行幸
された孝徳天皇の遺児有馬皇子は留守官蘇我赤兄の口車に乗せられ、謀叛のかどで捕らえられ天皇の
もとに護送された。その途中紀の湯を眼前に望み当地の松の枝を結び自分の命の平安無事を祈って歌を
詠まれた。
 有馬皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌

 磐代の浜松が枝を引き結び
  真幸くあらばまた還り見む

 家にあらば笥に盛る飯を草枕
  旅にしあれば椎の葉に盛る
             (万葉集巻二)
有馬皇子は紀の湯で中大兄皇子の訊問に対して「天と赤兄と知る吾全知らず」と答えられたが、帰路
十一月十一日藤白坂において十九才の若さで絞殺された。
                                     和歌山県教育委員会、南部町教育委員会
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JR岩代駅のそば
まで来たが、陽も
あと1時間ほどで
暮れてしまう。
次の南部駅まで
は2時間かかる。
数分で岩代駅から
普通電車がある
のでぎりぎりで
乗り込んだ。
ということで駅舎
の写真は無い。


15:55、JR岩代
に到着。
15:56発の普通
に乗り、ひとつ先
の南部駅で急行
に乗り換える。








 17:10 日没

歩行データ: 36,675歩 、1536.9Kcal 8時間
マップ上の歩行距離の合計は28.7kmだが、榎木峠の2箇所で
道に迷ったので、実際は30km程度になる。

 今日のルートは全体的に平坦な道で、歩きやすかった。
しかも、危険な道もなく自分のペースで風景を楽しみながら歩ける。
さらに、ときおり海の景色が広がる開放感のある気持ちの良い道
が多くお薦めのコースだと思う。


 つづく



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