第 33回 紀伊路  湯浅町 − 御坊市   2004年11月03日


 昨日に引き続き紀伊路を歩く。出発は遅めで、JR天王寺を8:33発
の和歌山行きに乗り、和歌山駅で乗り換えて湯浅には10:31の到着。
本日のコースには、紀伊路最大の難所といわれた鹿ヶ瀬峠(標高300m
以上)を越えるが、その下り道には熊野古道最長の石畳が残っている。
その先は平坦な道が続き、御坊駅を目指す。


(街道マップ 「紀伊路」 湯浅駅(湯浅町)〜紀伊内原
(日高町)P.4,5

(歩行距離:16.9km、 標準歩行時間:4時間55分)




 まず、駅前の道を左へ進み
すぐにまた左へ曲がり、高架
をくぐる。


初めの分岐を右へ進む。
蜜柑があちこちに植えられて
いる。






 次の分岐も右の道を進むが、電柱の基に
「すぐ勝楽寺」の道標がある。(写真:右)











 勝楽寺の裏から境内へ入
る。
有田川流域は蜜柑の栽培
に適していただ、慶長年間
には既に上方へ出荷されて
いた。
その後まもなく江戸へも出荷
され、紀州藩の庇護のもと、
元禄時代になると30万籠を
越える出荷を誇り、紀伊国屋
文左衛門の話のとおり、江戸
でも欠かせないものとなっ
ていた。「紀伊国屋文左衛門
之碑」が祀られている。

 勝楽寺を出ると
すぐに国道42号線
があり、横断する。
国道の両側に道標
がある。

国道の北側の道を
入ると、久米崎王子
跡がある。
 (10:58)




−−  久米崎王子跡  −−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−
  この王子社の名は、藤原定家の日記の建仁元年(1201)十月十日の記事
にみえますが、この頃の参詣路は王子社から南西よりに離れていたのではない
かと思われるため、定家は路頭の樹に向かって遥拝しただけです。
その後、承元四年(1210)四月二十五日に藤原頼資は、この王子社に参拝
しています。承久三年(1221)に承久の乱が起こって以降、上皇や女院の
熊野御幸はほとんど行われなくなり、王子社の多くは荒廃しました。
久米崎王子も例外ではなく、十五年後の嘉禎二年(1236)には、跡形も無く
なっており、鎌倉幕府は、この地の豪族である湯浅氏に、社殿の修復を命じて
います。しかし、その後も荒廃したらしく、江戸時代初頭、紀州藩主徳川頼宣
は小社を再興しています。その後、久米崎王子神社として祀られてきましたが、
明治四十年に顕国神社に合祀され、跡地だけとなりました。
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 久米崎王子跡から
国道へ戻り、新広橋
手前で左折し広川に
沿って進む。

途中の分岐では、
川側の道が旧道。







(写真:左)
新柳瀬橋を渡り、再び国道
42号線と合流する。

(写真:右)

すぐに右の小道へ
分岐する。
縦書きの「熊野古道」
の標識が電柱脇に
ある。



 阪和自動車道に
平行して架かる橋
を渡り、高速道路
の高架下をくぐった
ところに津兼王子
がある。
その上は広川IC。
高速道路のために
王子跡は、王子の
面影もないだろうと、
判断し寄らずに直進
する。 (11:30)


次の分岐で国道から旧道へ入る。
古い家屋もあり、良い
感じで進むとローソンの
裏に出る。
ローソンの表は国道に
面している。ここで弁当、
パン、おにぎり飲み物を
買うが、申し出れば街道
マップをもらえる。
(11:45)
街道は国道の北東側
を井関へ向けて進む。


(写真:左)
『熊野古道 養生場跡
(馬などの養生した場所)』
の標識があり、その先
の住宅の崖に『慶応の
頃の熊野古道(井関村)』
の絵図が掛けてある。







 井関の街並み
街道として機能していた頃は、
宿場町だった。
旅籠跡の標識があち
こちに見られる。

旅籠 亀屋跡

旅籠 藤田跡





 伏見稲荷大社を
過ぎ、河瀬橋を渡る。












 橋を渡ったところにある道標を兼ねた供養塔

 橋を渡ると、直進せず
に右へ曲がり小さな橋
を渡る。










 (12:00)

河瀬王子跡
(ごのせ)










説明板にある「紀伊続風土記」からの絵図。
王子のにぎわいが彷彿とされる。
このあたりは標高300mを越える鹿ヶ瀬峠の手前にある
最後の集落となる。
日暮れの山中を歩くことは安全面ではもちろん避けるべき
だが、徒歩旅行の時代には、なおさらだっただろう。
そこで調整のために宿場が栄えたが、こうして往時と同じ
徒歩旅行をしてみると、それが実感できる。

 河瀬王子から10分ほどで馬留王子で、そこから
2.2kmを50分かけて上り大峠へ着く。
後は30分ほどかけての下り道で、金魚茶屋跡へ着く。

−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
河瀬(ごのせ)王子跡 
 藤原定家は『明月記』によると、建仁元年(1201)十月十日、井関王子についで、「ツノセ王子」に参拝
しています。また、藤原頼資の日記では、承元四年(1210)四月二十六日、白原王子についで「角瀬川」
王子に参拝しています。江戸時代の『熊野道中記』などでも、「津の瀬王子」と書いています。
このように、古い文献では「角瀬」あるいは「津の瀬」という王子社名ですが、江戸時代の村名が河瀬で
あったことから、「ごのせ王子」と呼ばれる要になったと考えられます。
『紀伊続風土記』では、「川瀬王子社」とし、明治時代には川瀬王子神社となりましたが、明治四十一年に
津木八幡神社に合祀され、跡地を留めるだけとなりました。
しかし、現在も巨石が横たわっており、王子社の古態を伝えているように思われます。
また、この王子跡から鹿ヶ瀬峠に向かう集落には、かつて旅籠や茶屋を営んでいた宿場の雰囲気が感じられます。
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(写真:左)
 『熊野古道
 旅籠 升屋跡』
(写真:右)
 『旅籠 車屋跡』

旅籠があったころは生活水
として重宝していたであろう
小川を背に街道を表にして
家々が並んでいる。
 家並みが途切れると狭い
道が徐々に登り坂となって
続く。
















馬留王子
(12:10)
地道を進むと、王子社跡があり、
古道はそのまま直進する。
ここから2.2kmの鹿ヶ瀬峠
の登り道になる。







−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
馬留王子跡
 この王子社を過ぎて南にしばらくいくと山道となり、熊野参詣道の難所、鹿ヶ瀬峠があります。
熊野御幸が盛んなころ、上皇や女院、貴族達は、この峠を越えて熊野に参詣しました。
しかし、御幸時代の王子社を克明に記録した藤原定家や藤原頼資の日記には、馬留王子の記載
がなく、それよりも新しい王子社と考えられます。江戸時代に書かれた若山(和歌山市)から熊野
までの道案内書『熊野道中日記』には、津の瀬王子の次に、沓掛王子、次に鹿ヶ瀬山が載せられ
ており、この王子は沓掛王子と呼ばれていたことが知られます。ところが、『紀伊続風土記』では、
この王子を沓掛王子というのは誤りだとして、馬留王子社と書いています。以降、この王子社は
馬留王子社といわれ、明治時代には、馬留王子神社となりましたが、神社合祀で、津木八幡神社
に合祀されました。
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 『熊野古道 立場跡』
(乗りもの中継地)
駕籠はここまで、ここから
は牛馬の背に頼ることと
なる。
(12:12)








(写真:左)
『これが熊野古道
行き止まり』の標識。
アスファルト道を進む。

(写真:右)
『鹿ヶ瀬峠まであと2、030m』
(広川町教育委員会)
の標識
この後、この標識が目印に
なる。
進行方向に柵がある。


(写真:左)
農作物を獣から守るための
柵。歩行者用扉から進む。

(写真:右)
柵を過ぎて3分後、アスファ
ルト道から地道が分岐して
いる。これが熊野古道だが、
「マムシに注意」の看板が
あり、少し迷ったがアスファ
ルト道の方を進んだ。



 馬留王子から18分後
結構標高も高くなってきた。

道は蛇行しつつ上っていく。










杉と蜜柑の木が続く。
(12:31)
道なりに進んだつもりだっ
たがここで道標 1,230m
と1、200mの間で間違った
道を進んでしまった。

!要注意
マップ中にこの標識間に
茶色の道が記してあるが
街道はここで「く」の字型
に曲がる。
道なりに進むと間違える!

 これはその間違った道の
様子。
害獣柵があり、ここでマップ
と照合して気づくべきだった
が、いかにも古道の雰囲気
があるので、熊や蛇を心配
しながらも先に進んでしまう。


(注:まちがいルート)





(注:まちがい
ルート)
















 道は倒木もそのままに
荒れ、地道になる。
この時点でルートをはずした
可能性が大きいことに
気づくが、マップ中のルート
の蛇行の仕方に似ているの
で確信がもてず、戻って分岐
らしいところからまた入って
みる。

写真右の地道へ進む。
(注:さらに間違いのルート)


(注:さらに間違いのルート)

しばらく街道らしい地道が
続いていたが、道幅が
だんだん狭くなり、ついに
消滅してしまった。

あきらめて、道を戻り道標を
探すことにした。





1,200mの道標を発見。(13:27)
ここで道は右側へ「く」の字に曲がる。
写真では、コンクリートの道の色が変わっている。
道の色に沿って進んでいったのが間違いの原因
だった。
結局これで1時間のロスを作ってしまった。


湧き水が道を川のように流れていた。
また間違った道ではないのか、と不安がよぎる。


















 道標 710m
(13:39)

道標は見つけたし、
道もそれらしく舗装
されているし、気を
取り直してずんずん
進む。






 道標 152m
(13:50)

 法華の壇の道標










 坂道の向こうに陽が射している。
ついに大峠へ到着。 (13:53)
途中、道に迷ったので、予定より1時間遅れ。
ここで小休止、弁当にする。

マップ上の所要時間では2.2km 55分と
なっていが、途中迷ったため2時間近くかけて
しまった。





−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大峠 鹿ヶ瀬越えの熊野古道
 広川町における熊野古道は、湯浅町より広川に沿って民家やみかん
畑の間を進み、井関・河瀬地区に入り鹿ヶ瀬峠を越え日高町に至ります。
道沿いには、道中の安全を祈願した王子社跡が数カ所あるが、現在は
河瀬王子のみその跡を留めています。
 また、井関・河瀬地区は宿場としての要衝の地であったといわれ、いま
もその当時の屋号で呼称される民家も数多くあります。
鹿ヶ瀬峠は熊野路の難所の一つであり、大峠(この地)は当時、茶屋・
旅籠があり賑わいを見せていました。
周辺には養源寺の草創と伝えられる法華壇や南北朝の争いを伝える
鹿ヶ瀬城跡もあります。
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 14:20
約30分の休憩の後
出発。
大峠の平地から小峠
へ向けて500mの
急な下り坂。








 小峠 (14:28)













 小峠から石畳道登り坂までは、熊野古道
で現存する最長の石畳が続く。

古道の雰囲気は抜群で、坂道を足早に
歩いていると、どこからか時代がかった
太鼓の音が聞こえてきた。

あまりに出来過ぎたシチュエーションに、
疑問は増ばかり。

































 原谷に入る。
(14:38)
開けた場所でお祭りをやって
いた。

『熊野古道祭り』
芋粥の接待を受ける。







 漬け物と芋がゆ
おいしかった。

太鼓の後はビンゴ大会。
途中参加させていただく。























 石畳の脇の竹は、原谷の名産、黒竹。



























 黒竹の竹林を進むと
金魚茶屋跡がある。
(15:00)












 古い民家を改造した
土産物店

清流の側に金魚茶屋跡
があった。







 金魚茶屋  −−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 紀伊国名所図会にも載せられているように、ここは江戸時代の宿場であり、往来の旅人から金魚茶屋として親しまれ、
鹿瀬山から流れ出る清流を筧で引き、金魚を飼って旅人の旅情を慰めていたことから、この名がついたといわれている。















天音太鼓のトラック。

路側の壁には、平安衣装
のレリーフがある。


 沓掛王子跡がこのあたり
の道の左側にあるはずだ
が、分からなかった





 法華経塚遺跡の碑

県道176号線との合流手前
で路上販売。
さっきのお礼に何か買おうと、
こんにゃく(¥300)、芋
(¥120)を買い求めた。

手前の祠は弘法大師
ゆかりの爪かき地蔵。
弘法大師が爪で彫った地蔵
で、信心のない物が水を掛
けても浮かび上がらないと
いう。

 原谷黒竹民芸組合

 四ツ石聖蹟地
説明板より−−−−−−−
建仁二年(1201)後鳥羽
上皇に随行した藤原定家
の「御幸記」によると、この
地で小憩した旨記されてい
る。 後鳥羽上皇は大へん
熊野に対する信仰が厚く
在世中二十九回も熊野
参詣をしている。
−−−−−−−−−−−−

 原谷皇太神社

街道に沿っている。


その直ぐ先に西の
馬留王子跡がある。
(15:47)





馬留王子跡 −−−−− 説明板より −−−−−−−−−−−−−
 天仁二年(1109)十月十八日、熊野参詣途中の藤原宗忠は、険阻な鹿瀬山
を越えたのち、馬留の仮屋に泊まっています。
ここ馬留は、この地で馬に飼い葉を与えたり、休息させるための施設だったの
でしょう。ところが、十三世紀初頭の熊野御幸に随行した藤原定家や、藤原頼資
の日記などに、この王子は記載されておらず、当時ここに王子社があった形跡
はありません。
王子の名が見られるのは、江戸時代になってからです。
 『熊野道中記』に「馬留王子」とあって、「はざま(間)王子」ともいうと、書かれ
ています。『紀伊続風土記』によるとこの王子社の境内は周囲が六十間あった
そうです。馬留王子跡は鹿瀬山の北と南の二か所にありますが、共に熊野
御幸時代に見られない王子で、それ以降に王子社が建立されたことを示して
います。この王子社は明治時代に馬留王子神社となりましたが、原谷皇太神社
に合祀されました。


 光明寺で古道は県道から
分かれる。












 民家の塀に挟まれた
一里塚跡の標識


(写真:右)
左手の階段が雨司神社
への参道







 県道へ合流して200m
ほどで、なめら橋を渡る
(写真:右)熊野古道の
標識がある。











 今熊野神社を過ぎると
すぐに内の畑王子跡
がある。 (16:11)

それにしても原谷には
神社が多い。
2kmばかりの集落の間に
現在でも3か所の神社が
あり、明治以前はさらに2つ
あった。



内ノ畑王子跡−−−− 説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−
 建仁元年(1201)十月十日、鹿瀬山を越えた藤原定家たちは、木の枝を
伐って槌を造り、榊の枝に付けて「内ノハタノ王子」に持ち寄り、そこに結び
つけたのです。建保五年(1217)、後鳥羽上皇と修明門院の熊野御幸に
随行した藤原頼資たちも、十月五日に、同じように槌を造り、王子前で
「徳あり、徳あり」と声高に良い、弱く貧しい人たちにそれを与えています。
祀られている「ツチ金剛童子」にちなんで槌を造り、現世の利益を願ったの
でしょう。こうした風習から、この王子社は「槌の王子」ともいわれ、応永
三十四年(1427)九月二十四日、足利義満の側室 北野殿の先達をつと
めた僧実意たちも、風習に従って同様のことを行っています。
江戸時代には、隣接地の此の地に移転して、「槌王子社」として祀られ、
明治時代に鎚王子神社となりましたが、神社合祀で、今熊野神社に合祀され、
その後、内原王子神社に合祀されました。

 陽は西へ傾いて山の端
から沈んでいく。
ススキが揺れ、山間の集落
の風情がなんともいえない。

学校帰りの小学生が挨拶
して、熊野古道を歩いて
いると言うと、内ノ畑王子
で『徳あり、徳あり』って言っ
たか?と聞かれた。
ほのぼのとした気持ちで
歩みを進めた。
















 忠魂碑を過ぎ、内原王子
神社へ着く。(16:37)
途中川縁に、「愛子の渕」
の説明板がある。
江戸時代、このあたりの豪族
の子が生まれつき目が見え
ないのを儚んで身投げしたが
助けられ「今、地獄に堕ちる
ところだったが、観音様に助
けられた」と言った。
一同はその神秘に驚き、
以後この渕をこのように
呼んだという。
高家(たいえ)王子 −−−−−説明板より−−−−−−−−−−
 天仁二年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月十九日に
大家(たいえ)王子社に参拝しています。それからおよそ百年後の、
承元四年(1210)、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の熊野御幸に随行
した藤原頼資も、四月二十六日に高家王子社に参拝しています。
この王子は、江戸時代には若一(じゃくいち)王子社と称され、萩原
村東光寺の地にあったことから、東光寺王子ともいわれています。
境内には「長床」という僧の修行場、ないし宿泊施設が設けられており、
法華寺という別当寺があったようですが、東光寺との関係は明らかで
はありません。明治時代にに王子神社と改称されました。
本殿は、明治二十一年に暴風雨で東海したため、二年後に再建され
ています。神社名は、大蔵省管財局の指示で、村の名称を使用して、
昭和二十八年に内原王子神社となりました。
なお、旧社地は現在の地よりも北にあったと推定されていますが、
詳細は不明です。

内原王子神社に参拝後、
JR紀伊内原駅から帰るか
御坊駅まで行くか迷う。
陽は山の向こうに落ちて
しまったが、まだ明るい。
御坊までは平坦な町中の
道でもあり、6,7kmと
いった距離であり、鹿ヶ瀬
峠でロスした1時間が
悔やまれる。
悔しいついでに御坊まで
歩くことにした。

(街道マップ 「紀伊路」 紀伊内原(日高町)〜西御坊駅(御坊市)P.6、7
(歩行距離:14.6km、 標準歩行時間:3時間55分)

次回のためにも急行の停車
駅まで一駅分をなんとか
稼いでおく必要もある。

 一里塚跡

あかね色に染まる空。







 善童子王子神社
(17:19)
このあと住宅街の中で
日没を迎え、道標も見えな
くなり、愛徳山王子は見つけ
られなかった。

(写真:右)
海士(あま)王子
川縁の県道脇にある。




重力橋を渡り駅前に通じる
道を進む。
17:55、JR御坊駅へ到着。

発泡酒とつまみを買い、
18:07発の急行で帰る。








 この日は、8時間(うち1時間弱休憩)の行程だったが、峠での1時間
ロスがなければ、海士王子の手前、道成寺まで足を伸ばせたかもしれない。
しかし、峠の下り道は石畳が続く街道風情が濃厚に残っており、原谷の
人たちの親切なもてなしもあってかとても印象の良いルートだった。

歩行データ 32,543歩 (1,315.5Kcal) 7時間20分
マップ上の歩行距離は21.4kmだが、大峠で1時間のロスがあるので実際の歩行時間は25km
とうことろか。









つづく




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