第 62回 京街道(伏見街道)/東海道 伏見区小野 - 草津   2007年10月16日

  今シーズンの街道歩きも連続三日目となり、第60回、61回と、河内エリアを回ったので、今日は京都・滋賀を選んだ。京街道は京橋、八軒家浜を起点とするが、すでに伏見を過ぎ本日のルートでは追分で東海道になる。
街道Walkerでは東海道を歩く予定はなく、中山道に興味を持っている。
使用した資料で役だったのは 学研M文庫 中山道を歩く 下巻(横山正治・安斎達雄 著) で、詳細な地図がついた優れもので、この地図ページのコピーといつもの昭文社近畿圏3万分の一文庫版地図を使った。
 本日の気温は22度、快晴であった。

第54回の続き、京都市営地下鉄・東西線・小野駅(京都市山科区)を9:18に出発した。
駅を出た交差点を東へ50mほど行き、二つめの道、府道35号線を北東へ進む。

左)
 府道35号線
大津まで7kmとある。

右)突き当たりの信号を左折。
北へ府道35線を進む。
左)
名神高速をくぐる。その手前の道の東側は京都橘女子大へと続く。こんなところにあったのか。

右)
岩屋神社の参道が右手にある。
(9:45)
この道は交通量が多く、大型車も通る。

右)
新幹線の高架が道路を跨ぐ。
左側の幟は岩屋神社の御輿の御旅所だろうか。
左)
 国道1号線を地下道で横断。

右)
山科川を渡り音羽に入る。
左)
再び国道1号線に合流する。
この地点は六差路になっているが、街道は手前の延長線上にあるラブホの北側の道で、ここも地下道で向こう側へ渡る。

右)
そこから100mほどの音羽病院前を道なりにカーブしながら進む。
左)
京都東インターチェンジへのアクセス道路の下をくぐる。
(10:17)
小山から髭茶屋へ進む。
左)
東海道との追分
進行方向を撮影

右)
一旦行きすぎて振り返っての撮影。
右側が三条へと続く東海道。
左が今来た伏見街道。
(10:23)
ここまでで約一時間経過。
左)
追分の東の様子。

右)
山科区竹鼻から大津市へ入る。
(10:25)
左)
国道1号線に合流する。

右)
名神高速の下をくぐる。
大型車を中心に交通量が多いが、歩道がちゃんと整備されている。
左)
左から名神高速道路、京坂・京津線、国道1号線と並んでいる。

右)
大谷町の陸橋を北側へ渡る。
標識には草津14kmとある。

「これやこの ゆくもかえるも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」の百人一首で知られる、関蝉丸を祭った神社
逢坂の関
切り通しのために地形が変わっている。

 東海自然道の橋が架かる。
東京から関西まで長大な自然道。
弘法大師堂の先から歩道が狭くなっている。反対側へ渡ろうにも車のスピードが速い。
左)
蝉丸上社

右)
トンネルの間にかかる名神高速の橋。
左)
国道1号線から国道161号線へと分岐する。 歩道は非常に狭い。

右)
JR東海道線の踏切
左)
札の辻1に入るが、まだ右折しない。

右)
長等2丁目1の手前が札の辻
ここで右折する。

左)
札の辻
交差点の西側のちょっと奥まったところにこの道標はあるので、交差点では左をチェックしていれば見落とさないだろう。

右)
側溝の蓋に設けられた説明板

<大津宿> (11:25)
左)
札の辻から東側を撮影

右)
同じく。 ここで直角に東へ曲がる。
左)
札の辻から比叡山を望む。

右)
大津市京町
大津市京町
大津市中央2丁目
写真・左) の先、写真・右)の辻、南東角に大津事件の碑がある。
左)
「此附近露国皇太子遭難之地」
 明治24年、来日中の皇太子ニコライが警備についていた巡査、津田三蔵にサーベルで斬りつけられた事件。 道幅は街道の標準的な5mほど。 「坂の上の雲」では、皇帝に即位したニコライ2世は日本人をマカーキー(猿)と呼ぶ描写がある。
事件の14年後には日ロ戦争で日本に負け、27年後の1918年にはロシア革命で銃殺された。
左)
京町3丁目 の街道標識
滋賀県内では、東海道沿いにこの標識が要所要所に設けられている。

右)
2007年10月に「JP」Japan Post と変わってしまった郵便局。ポストの集配局の欄には「大津支店」と上からラベルが貼ってある。 旧道を捜すときには農協とともにランドマークとなりうる歴史を持った郵便局だったが、民営化でその重みを失ってしまったようで残念である。
左)
辻を渡るときに、北側に滋賀県庁が見えた。重厚な佇まい。

右)
中央4丁目から松本へと東へ進む。
大津宿は思ったよりも多くの古い家屋が残っていて良い雰囲気だ。
左)
大津市松本の様子。虫籠窓の家屋もよく保存されている。

右)
平野神社参道。
右側の碑の上部はアスファルトのようなもので字を塗りつぶしている。
戦後、GHQの命令により神道が国から切り離され、官幣社も廃止された。 以後神社は独立宗教法人として扱われる。
この塗りつぶし方は「墨塗り教科書」のような雰囲気で、はがしてしまった方がよいと思う。
左)
京坂石山坂本線石場駅の西側の踏切を渡る。
打出浜
義仲寺
馬場、西の庄と東行する。
左)
民家の入り口にある、「天智天皇御尊牌奉安」の碑。 
天智天皇は白村江の戦いで大敗したあと、ここ、近江大津宮へ遷都した。
天智天皇の崩御後に起こった壬申の乱でも、大友皇子はここ大津を基盤として大海人皇子(天武天皇)と対峙するなど、経済的基盤はもとより地縁・血縁の所縁の深い土地である。

右)
魚屋にて、ふなずしを発見。あれは一生食べないと思う。
石坐(いわい)神社
ここでも天智天皇を祭っている。
木下町内で街道は北側に迂回するように
左折、右折、左折する。

写真左)は右折する箇所。
膳所高校を路地の先に見ながら、
丸の内町に入る。浜側に天守閣のようなものが見えるが、これは大津市市民センター。 適当な食堂が見あたらないので、市民センター前のスーパーでおにぎりを買って膳所(ぜぜ)城跡公園で琵琶湖を眺めながら昼食休憩にした。
(12:32)

左)
スーパーの総菜コーナーで購入。ぜんぶで400円ほど。
しかし、2km先の石山商店街に行けば食堂はたくさんあったので、そこで昼食にすればよかった。

右)
入り口には立派なトイレもある。

30分ほど休憩ののち、13:07 出発
中庄駅の東側で街道は東へ曲がり(左折)、
100mほどで南へ曲がる(右折)。
左折するポイントには目印が無かったか、見落としたかで、直進してしまい踏切が見えてから間違いに気づいた。道を戻り瓦ヶ浜駅を左に見ながら南下する。(写真 左)
突き当たりを左折(東方向)へ行くと左手に若宮八幡宮がある。
鳥居の後ろの門は明治3年の膳所城取り壊しの際に移築されたもの。
移築された門を境内側から撮影
奉納殿、本殿
砂利が綺麗に掃いてある境内。
御殿浜で道はゆるく蛇行する。
民家の玄関先にある膳所城勢多口惣門跡の碑。
城の南門にあたる。
膳所城址から南へ約1kmの地点。
右)
NECの工場内に設けられた神社
左)
晴嵐1丁目 の標識
晴嵐にはNEC,日本電気硝子、日本精工など大手の工場が並んでおり、社員食堂があるとはいえ周囲に食堂があってもおかしくない。地図を見て気づくべきだった。

右)
東海道線の高架をくぐる。
(13:44)
県道104号線を南下する。

右)
栄町郵便局
左)
栄町で、右手に「明治天皇鳥居川御小休所」の碑があった。明治元年の東京遷都でも移動はこの東海道だったろう。

右)
唐橋前。ここを左折(東行)するとまもなく瀬田の唐橋が見える。
京坂唐橋駅前をすぎるとおもしろい作りの建物が南側にある。禅宗寺院だろうか。
瀬田の唐橋
山梨市観光協会の風林火山の幟が欄干にはためいている。
(14:00)
 車で通ったことはあるが、歩いて来たのは初めて。
大阪・天満からここまで徒歩で繋がった。南は熊野までもすべて徒歩で繋がっている。足で近畿の大きさをあらためて実感する。
 唐橋を渡り、200mほど行った「神領」交差点を北東に曲がる。
左)
その途中で「しじみ最中」の看板を発見。
どんな味だろうか。
さらにこんどは「たにし飴」に興味をそそられる。
神領(じんりょう)から大江に入る七差路。
街道は東へ向かうが大江二丁目33の電柱に
街道の標識がある。(写真:右)
ここで歩道を渡って東行する。
大江三丁目
大江四丁目

左)
大江三丁目の突き当たりを左折(北行)し、
250mほどで、右折(東行)するが、道なりにつづいているので分かりにくい。地図では瀬田小学校の南角で曲がるが、赤の点灯のみという珍しい”一つ目信号”が目印になる。 ここを右折。

右)
一里山一丁目
広い道を横断するとクリーニング屋の角に「一里塚址」の大きな石碑がある。
月輪池
「東海道立場跡」
(14:53)
月輪(つきのわ)
月輪
左)
月輪3丁目 の説明板

右)
南笠山東から草津市に入る。
木製の燈篭がここから何カ所かに設置されている。
「ここから草津 草津本陣4km」の表示
野路の玉川跡
ベンチが二つある小公園になっている。
井戸風の噴水になっており、タオルに水を浸して顔を拭いたが、どうも循環式の水のような気がする。

(15:18)

左)
右手に新宮神社の参道鳥居。
平家終焉の地は壇の浦と云われるが、捉えられた平家の公卿らは此の地で斬首された。
この民家にはその胴塚を代々供養しているという。
草津市野路町、野路1丁目、東矢倉、矢倉が接するところで国道1号線を斜めに横切る。
写真左の四角い建物が矢倉小学校。
街道は小学校の東隣りを通る。
左)
稲荷神社
左)
草津川を矢倉橋で渡る。(15:45)

右)
欄干から草津川を見る。
徒渡りも可能。
左)
橋の北側の説明板より、草津宿の様子。

右)
図の青い線は東海道。中山道は宿場を直進する。
赤い四角は当時このあたりに設けられていた黒門。 街道への出入り口にはこうした門(見附)が設けられていた。
左)
立木神社が左手に見えてきた。
(15:50)
立木神社
清々しい神社で、常夜燈と秋の陽を受ける木々の緑も美しい。
左)
本殿
右)
奉納殿
立木神社の北側の鳥居に道標が移設されている。
1816年(文化3年)の滋賀県内最古の道標

<草津宿> (15:55)
草津宿の様子。
左)
立木神社前の交差点を渡ってすぐの交差点北東角に「御旅館」の看板。街道ファンなら泊まってみたい。
ここからアーケードに入る。
草津宿街道交流館 (16:00)
1階は無料。2階の展示施設は¥200。
本陣と合わせて入館料の割引もある。

さて、本陣を見学するなどして草津宿を見て回るか、それとも次の守山宿まで足を伸ばすか迷う。
交流館前の説明板では守山まで6kmとある。
日没までぎりぎりの距離である。
しかし、2階の特別展示が「東海道中膝栗毛」だったので、迷いつつも2階へ上がった。
東海道中膝栗毛
錦絵もある。
こうして見ると、マンガの文化史のようで興味深い。
漢字という表象文字は脳内で視覚的に処理され、ひらがなカタカナなどの表音文字は聴覚の部位近くで処理されるという。日本語は脳内処理では世界でも珍しい言語らしい。
文字と絵をなんの違和感もなく一緒にしてしまう素地が日本語にはあるのだろう。
左)
草津宿脇本陣
 観光物産館になっている。草津宿の名物”うばが餅”は売り切れだったがJR草津駅に買えた。
「近江中山道中絵巻1(柏原~高宮編)、2 (愛知川~草津編)を頂いた。

右)
 和ろうそく屋さん。
草津宿本陣 (田中七左衛門本陣)
国指定史跡
月曜日休館。入館料200円。
館内撮影禁止だったので、上記リンクから内部の様子をご覧ください。
(16:19)
草津宿本陣の表門から白州が表板間まで続く。
街道に面した幅からは想像以上に奥まっている。
主客の居間である上段の間は最も奥まっており、渡り廊下を通ると、畳敷き板敷きの広々とした湯殿がある。 時間を割いて見学する価値は十分にある。

左)
 表門の斜めには東海道の追分道標がある。
その対面に高札場がある。
ここから東海道は東へ直角に曲がり、中山道は天井川の下をくぐり直進する。
高札場
草津川(天井川)の土手下にある。川が盛り上げられた土手の上を流れる。珍しいので上って様子を見ておけばよかった。
大路1丁目のアーケードを抜けて左側(北西)へ曲がるとJR草津駅がある。のどかな街道風景からデパートやマンションのビルが並ぶ都市景観が意外だった。

左)
JR草津駅 (16:43)
ここから大阪・新大阪駅までは1,110円でなんと50分程度というアクセス。意外と草津は近かった。

右)
うばが餅 
一口サイズのあん餅。お土産は家族にも好評だった。 うばがもち物語を読んで食べるとまた格別。

歩行データ:36,174歩/28,328歩(しっかり歩行) 1,150Kcal  消費脂肪 76.3g 26km
ウォーミングアップの連続三日目だった。江戸時代は京を出た旅人の標準的な1日目の宿がこの草津宿と云うし、
また東海道との追分なので本日はここまで。
次回はいよいよ中山道へと入る。

第63回 中山道 草津-豊郷


更新日: 2021年5月24日