第 59回 亀岡街道 大阪市北浜(高麗橋) - 茨木市宇野辺  2007年6月8日

 亀岡街道の起点である高麗橋から前回のスタート地点を結ぶ。梅雨も近い曇り空で、予想気温は26℃、午後からの降水確率は50%だったものの幸い、雨も降らなかった。
地下鉄・北浜駅を東に行き、阪神高速の高麗橋入口の正面にある高麗橋元標に10:15到着。
高麗橋元標から東へ松屋町筋に出る。
すぐ北側に天神橋が見える。

7月24,25日には天満宮の天神祭で賑わう。 渡御船(とぎょふね)が繰り出す現在の形になったのは秀吉による大坂城築城のころからで、1953年以後は堂島川と大川水域に船渡御は変わったが、かつてはこの橋の下をくぐった。
 天神橋は秀吉の頃初めて架けられ、その後天満宮が管理し、江戸期は他の十一橋とともに、公儀橋となった。なかでも天満橋、難波橋とともに浪華の三大橋親しまれた。
明治21年に木造から初めて鉄橋に架け替えられた際の橋門上の飾りが天神橋北詰に、残してある。 (10:27)
府道14号線、天神橋筋は橋を渡ってすぐに左にカーブして真っ直ぐ北上するが、橋から直線の位置に天神橋筋商店街が延びている。 天満宮の参詣道でもあった商店街を抜けるルートが亀岡街道ではないだろうか。
写真:右)
橋から250mほど北で、右手に天満宮が見える。 (10:32)
地下鉄の最寄り駅は南森町だが、古くは大将軍社の森と称され、鬱蒼とした樹木に覆われた場所であったことが地名に残されている。
中学生の参拝に来ていた。
滋賀からの校外学習で、造幣局の見学をしてきたという。

 天満宮は孝徳天皇の大化元年(645)、難波長柄豊崎宮遷都の際、新都の守りのために創建された。
その後、平安期の天暦3年(949)、村上天皇の勅願により菅原道真を主祭神としてより天満宮となった。
南北朝時代の楠木正行と山名時氏の戦い、1570年の石山合戦、天保8年(1837)の大塩平八郎の乱などの兵火によって幾度となく焼失したが、再建され現在に至っている。
天満宮の北側の鳥居を抜けると、すぐ右手に天満天神繁昌亭があった。 ニュースでは見たことがあるが、こんなところにあったとは知らなかった。

そのまま北上し、天神橋2丁目の商店街を進む。
天神橋筋商店街は全国でも有数の長い商店街で、地図で見ても1km以上はある。
この手の商店街は廃れている町が多いが、なぜかこの商店街は賑わっている。

写真:右)
アーケードに覆われ、車道が横切るところに夫婦橋の跡があった。
 夫婦橋
(10:50)
 天神橋筋商店街の魅力のひとつに安さがある。回転寿司も一皿75円と安い。
いつの間にか阪神高速守口線の下をくぐっていた。JR大阪環状線の天満駅の西側を抜けるとまもなく右へ街道は分岐して、北北東へ向かう。
写真:右)
分岐点はこのあたりか?
ここで右折して道なりに左折する。
写真:左)
すると信号が見える。天神橋5丁目と池田町の境界を亀岡街道は進む。

写真:右)
菅栄町(かねいちょう)西 交差点。
市道大阪環状線を横断する。
GEOの角が地下鉄・南森町駅の入り口。
(11:02)
大阪市北区長柄中1丁目を進む。
写真:左)
長柄西1丁目と長柄中2丁目の境界の道を北進する。 左側は墓地。

写真:右)
市道中津太子線(標識は城北公園通り)を渡る。
突き当たりは淀川の堤防で、右折すると、かつての長柄運河に架けられていた眼鏡橋がある。
(11:15)
高麗橋からちょうど1時間の地点。
眼鏡橋から淀川の方へ進むと現在は使われていない毛馬閘門保存されている。
伏見にもこうした閘門があり、淀川が明治以降も舟運が盛だったことが分かる。
毛馬閘門。
写真:左)西側に向かって。

写真:左)東側に向かって。
写真:左)
淀川改修紀功碑

写真:右)
その周囲に大坂城築城の際にここまで運ばれてきたのに使われなかった石が置いてある。毛馬の残念石
写真:左)
淀川の土手を上流に向かって進む。

写真:右)
淀川大堰。関係者以外立ち入り禁止。

淀川の対岸へは大堰の手前あたりから渡し船で渡ったのではないだろうか。
現在通行可能なルートとしては、城東貨物線横に設けられた木橋を渡ることになる。
写真:左)
淀川大堰の上流側。
ここからは大阪市都島区。

写真:右)
阪急千里線の車窓からも遠くに見えるが、これが現在使用されている毛馬閘門。
ひらがなでこうして大書されると、おかしさも倍増。 やっぱり漢字で書いた方がよかったんじゃないでしょうか。
閘門から50m程行くと、与謝蕪村の生誕地の歌碑がある。
蕪村は20歳ごろ江戸で俳句を学び、42歳のころに京へ居を移した。

芭蕉、一茶と並ぶ江戸時代の俳諧の巨匠。「さみだれや大河を前に家二軒 」の代表句に見られるように写実的、絵画的であり、俳画の創始者でもある。
のちに、正岡子規に大きな影響を与えた。
写真:左)
水色のアーチ橋は水道橋で、人はわたれない。

写真:右)
城東貨物線
城東貨物線の淀川橋梁
淀川の上流側に木橋が付いている。

橋の北詰には、「亀岡街道踏切」とある。
ここで右折して旧道に合流する。
(11:49)
橋から30mほどで北側に分岐する道をたどる。
カヌーの艇庫前に亀岡街道の説明板がある。(写真左下))
−−−説明板より−−−−
高麗橋東端から天神橋、天神橋筋、長柄、中津川に架かる豊崎橋、柴島 菅原を経て亀岡に至る大道で、北摂丹波の薪炭や寒天、農産物の市内への搬出などに利用された。
この付近一帯は古くから水上交通が盛んであった地と考えられ、ここから東へ約800mのところで約1,600年前の木製の「くり舟」が発見されている。   大阪市
写真:上段右)
始めの突き当たりに道標が二基。
写真:左)突き当たり手間の家の道標
「左 大さかみち
 右 大坂みち
 (裏面) すいたわたし」
写真:右)正面の家のフェンスにあるもの。
写真:左)
亀岡街道は府道16号線を渡り直進する。
(11:58)
府道14号線に出たら、右折し100mほどで再び旧道に分岐する。

しかしここで道を間違えて右折してしまい、結局30分ほど回り道をしてしまった。
途中、すき家で昼食をとる。カレーライスを注文したが、ボンカレーの味に近かったのが残念。
菅原4丁目の交差点の手前、ラウンドワンの手前を左に分岐するのが旧道。
50mほどで阪急京都線の高架下をくぐる。
(12:49)
さらに250mほどで新幹線の高架下をくぐる。 100mほど線路に沿って東行し、北へ曲がる。
そのあたりから上新庄交差点までは旧道は失われており、家屋やビルが密集して分かりにくい。
吹田市西御旅町の手前の交差点で右折する。 亀岡街道の道標がある。
「高麗橋から七.五キロメートル」
(12:58)
昼食休憩(約15分)、道に迷った分を差し引いても3時間は亀岡街道を歩いている。
実際はもう少し距離があるのではないだろうか。
上新庄交差点。
地図ではこの交差点は”Y”字を右に少し寝せた形をしているが、亀岡街道は”Y”字の上に伸びる細い道をたどる。
写真:左)
歩道橋から進行方向を写す。

写真:右)
500mほど直進すると高浜橋に出る。
(13:08)
吹田の渡しは高浜橋のすこし上流にあったが、明治11年の神崎川付け替え工事のために失われた。

北詰にラッパのマークでおなじみの製薬会社がある。
吹田市のマンホールは太陽の塔。

高浜橋から500mほどで濱神社に出る。
濱神社手前の交差点に吹田街道の説明板がある。現在位置の赤い四角から北に延びて途中で北東方向へ曲がるのが亀岡街道。他に、吹田市域では千里街道、山田街道、小野原街道がある。
この説明板では、亀岡街道は濱神社の東側から北行している。
濱神社からJR吹田駅の北側、府道14号線までは街道は消失しているので、とりあえず駅を目指し、吹田一の高層ビル、メロード吹田の脇を通る。
府道14号線・大阪高槻京都線に出たら右折して、1kmあまり進む。
大和ハウスのホームセンターが右手に見えたら、次の曲がり角で旧道は分岐する。
岸辺北2丁目。
(13:59)
亀岡街道から左折すると、佐井寺観音への参詣道へ分岐する。
(14:02)
写真:左)
吉志部神社 常夜燈。
参道は亀岡街道の左へ分かれる。
500mほど摂津市を街道は通る。
千里丘6丁目を過ぎると、左手に市場池オアシス広場がある。
その西隣にスーパー、イズミヤがある。
(14:15)
写真:左)
市場池オアシス広場とスーパーイズミヤ

写真:右)
千里丘7丁目の古民家。
藁葺きだったが、このようにトタンで覆ったものを見掛けることがある。
これは消防法で住宅地では藁葺きが認められていないのが原因だ。
府道1号線を渡ると、また吹田市になる。
写真:左)
市場橋を渡る。 
(14:25)

写真:左)
千里丘下で旧道は再び府道14号線に合流する。
1kmほど府道14号線を歩き、阪急バスの名糖前のさき、宇野辺2丁目の手前、携帯電話のショップのところで旧道は分岐する。
宇野辺2丁目は長屋門の立派な家屋が残っている。
道は二股に分かれるが、分岐点に道標が1基ある。半分くらい埋まっているが、
「左 山田(みち)」とあるので右側の道を行く。
大阪モノレールの高架、その向こうが近畿自動車道。

前回の出発点、大阪モノレール宇野辺駅に到着。 (15:01)

本日の歩行データ:
休憩を除いて約4時間15分。 19.4km
25,893歩/22,771歩(しっかり歩行)、 消費カロリー/脂肪 844Kcal/60g

午後から雨の予報にかかわらず天気が持ってくれたのはありがたかった。
最高気温は27℃だったが、多少汗ばむくらいで水分補給は昼食のときに水を多めに飲んだくらいで
飲料は買っていない。

亀岡はここから更に40km、9時間の道程である。高麗橋からは約60km、日の長い時期に昔の人が
無理をすれば一日で歩いた距離ではないだろうか。しかし、薪炭や農作物を背負っての徒歩を思うと
驚かされる。

つづき) 亀岡街道  茨木市宇野辺 − 京都府亀岡市 (40km)


更新日: 2007年 6月8 日