第 58回 紀州街道  大阪市浪速区 - 泉佐野市   2007年5月19日

 予想気温 17℃/21℃ 曇りときどき晴れ というウォーキングには最適の条件で半年ぶりの街道歩きだった。
 和歌山と大阪を結ぶこの街道は近世になって整備された。安土桃山時代、秀吉により大坂が政治の中心になると、自治都市として繁栄していた堺と結ぶ主要な往還道としての機能を持つようになった。
 その後元禄初年より沿道村々の負担のもとで街道の整備が進み、幕府、紀州藩の公用道となり、紀州藩の参勤交代路は松阪経由からこの紀州街道を経由するようになる。
 起点としては、堺筋を含むもの、日本橋を起点とするもの、高麗橋を起点とするものなどに分かれ、平成に設けられた道標では高麗橋東詰里程元標を起点に距離が表示してあるが、ここでは堺筋の南端である恵美須町交差点より歩き始めた。
 ルートの資料では「歴史の道調査報告書・高野街道」附属の地図を使った。
地下鉄・恵美須町駅南端出口を上がると、恵美須町交差点に出る。(6:30)
 紀州街道はこの堺筋南端からひとつ西側の道をたどるが、さっそく方角を間違えて通天閣に引き寄せられてしまった。 「すっぽん 生血」と新世界市場入り口の看板の間から路地に迷い込み、とりあえず通天閣に出た。 パチンコ屋と思いきや24時間営業の居酒屋。
(写真:左) (6:47)

 紀州街道はJR新今宮駅の東側を萩之茶屋1丁目で南進する。西成警察署のあたりには早朝というのに数十人のサンダル履きがユラユラと道に出ている。 そのすぐ南は報道番組でしか見たことのない三角公園だ。 昔ここで大規模な暴動事件が起こった。 写真を撮るとまずいことが起きそうな雰囲気を感じる。しかし自分の格好も作業服屋で買ったベストに、裾の膨らんだニッカポッカ風ズボンでなんとなく周囲にとけ込んでいると信じたい。 屋台の居酒屋は夜勤明けなのか客がいて、扉を開けたカラオケスナックは客で一杯だった。近辺の宿屋の看板は、一泊1,000円、TV付き1,100円など物価が違う。 「新世界」と別称されるこのあたりは、「別世界」だった。”New Wordl” ではなく”Another World”だ。 紀州の殿様も現代の様子をみるとびっくりするに違いない。 酒の自販機の前で車いすのオジサンから「ワンカップ買ってください。」と声をかけられた。たかりかと思いきや、手には小銭があり、「いいですよ」と自販機から酒を渡すと「もう一本」と二本分の小銭だったことに気づいてボタンを押すと、さらに2本出てきた。一本余分に出てきたカップ酒を渡しながら、「今日はついてますね」となんだか訳が分からないまま早朝の禁制地帯から早足で脱出した。
  天下茶屋北から、天下茶屋1丁目に入る(写真:右)


写真:上)の道標
紀州街道
「高麗橋から4.9キロメートル」

 西成天下茶屋
 郵便局
岸里東1丁目交差点を南へ
進む。
 明治天皇行幸の記念碑のある「花の公園」が右手にあり、道路を挟んで総合診療センターの先にこんもりと鎮守の森が見える。 そこに桃山時代の茶人であり、千利休の師匠である武野紹鴎が住んでいた。
紹鴎ノ森 天満宮 と道を挟んで「天下茶屋跡」の石碑がある。かつて、武野紹鴎(1502〜1555年)がここに茶室を構えていた。天下人となった秀吉が住吉参詣の途中に立ち寄ったことが地名の由来とされている。
ここで千利休から師匠の紹鴎の話などを聞き及んで「天下一の茶」とかなんとか秀吉が言ったのではないだろうか。
岸里東2丁目 (7:26)
写真:左)
紀州街道の碑
「高麗橋から7.1キロメートル」


写真:右)
南海高野線・岸里玉出駅の高架下をくぐる。 手前にある阿部野神社の看板の左方向の先に鳥居が見える。

南海の高架をくぐるとすぐに阪堺電車の軌道と車道が合流する道となる。
(7:33)
JR新今宮駅からほぼ直線に南へ延びる道だが、南海本線のひとつ西側の道にあたる。
一軒だけ古い家屋を見つける。
(写真:左)

(写真:右)
阪堺電車・住吉停留所
左の先に見えるのが住吉大社
住吉大社は「記紀」に鎮座由来の神話がある難波地域唯一の神社である。神功皇后の朝鮮出兵のときに海上安全を祈願したのがこの地に祀った始まりとされる。
武神、船舶守護神、さらに和歌の神として崇敬される。
境内には寄進された約700基もの燈篭があり、崇敬の篤さを今に伝える。
(7:52) 恵美須町からは徒歩で約1時間半。
写真:左)
左から 永代常夜燈
昆布江戸積 2基

御神燈
堀達廻舩中
写真:左)
官幣大社の文字が潰されている。明治初期に国家神道として神社の改変が行われたさいにランク付けがされ国の保護下に入った、戦後は廃止された。
意外にも住吉神社から住吉大社と呼称が変わったのは1951年(昭和26年)と近い。

写真:右)
永代常夜燈
阿州 藍玉大坂積  2基
太鼓橋脇の常夜燈
献燈 江戸 大坂 住吉講

初詣には大阪で最も多くの人が参詣する住吉大社だが、今回初めて念願の参詣を果たした。
まだ朝も早く人も少ない。

映像ではなじみの太鼓橋。
写真:左)
万葉時代の住吉地形のプレート
水色は大阪湾(ちぬの海)、赤い四角が住吉神社。海からそのまま境内に繋がっており、住吉津とある。海岸線は砂浜が続き、住吉津の南は浅香潟で、奥が得名津とある。
住吉大社御由緒

御祭神
 第一本宮  底筒男命(そこつつのおのみこと)
 第二本宮  中筒男命 (なかつつのおのみこと)
 第三本宮  表筒男命 (うわつつのおのみこと)
 第四本宮  息長足姫命 (おきながらたしひめのみこと) 
            神功皇后(じんぐうこうごう)

御由緒
 底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を総称して住吉大神と
申し上げます。 住吉大神の「吾(あ)が和魂(みぎみたま)をば
宜しく大津渟中倉長峡(おおつのぬなくらのながと)に居(を)くべし 便(すなは)ち因(よ)りて往来(ゆきか)ふ船を看(み)む」
との御神託により 神功皇后がこの地に御鎮祭になりまとしたのが、
皇后の摂政十一年辛卯(かのとう)の歳(西暦211年)と伝えられています。

御神徳
 住吉大神は伊弉冉尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)に際して海の中でお生まれになった神様でありますから
 禊祓、海上守護の御神徳を中心とし古来 産業 文化 外交 貿易の祖神と仰がれ 常に諸願成就の名社として広く普く
 崇敬されています。

御社殿
 第一本宮より第三本宮までは縦に、第四本宮は第三本宮の横に
配列奉祀され、各本宮ともに本殿は住吉造として神社建築史上最も
古い様式の一つで妻入り式の力強い直線形をなし四本殿との国宝に指定されています。
太鼓橋を渡り、さらに鳥居をくぐり四本殿の鎮座する神域に入る。
第四本宮 息長足姫命 (おきながらたしひめのみこと)こと  神功皇后を祀る。
左となりには表筒男命を祀る第三本宮が並び、「鶴翼の陣」を示す。
拝殿は桧皮葺の桃山破風の屋根に、寝殿造の流れを汲む半蔀がある。
拝殿の後ろに本殿が5つの鰹木に外削ぎの千木も高く聳えている。
 神社の本殿は弥生時代の高床式倉庫に見られるような古代建築を今に伝えているが、屋根に水平に置かれているのが鰹魚木、屋根の端にあるのを千木という。 これらは原則だが男神・女神で異なる。 千木は内削ぎ(頂部を水平にカット)が女神、外削ぎ(頂部を垂直にカット)が男神。鰹魚木は偶数が女神で、奇数は男神を表すという。 なお、千木はもともと破風板の先端が交差したものが装飾としておかれるようになったものだが、あまりに古すぎて理由はよくわからないらしい。
第三本宮、第二本宮、第一本宮と縦に並び「魚鱗の陣」を表す。
社殿は20年ごとにつくりかえる例で、15世紀中頃まで行われていた。現在の本殿は1810年(文化7年)に再建されたもので国宝に指定されている。
参拝を終え住吉大社を出る。
(8:43)
住吉大社の南側の細井川に御祓橋がかかる。住吉神社の大祭を土地では御祓いと言われ、川舟の船頭らが出資してここにかがり火を焚いて神輿の奉送迎をしたという。
川向こうからは安立(あんりゅう)へ進む。 熊野街道はここから東へ約1kmを平行して走り、さらに3km東を下高野街道も南北に走っている。
写真:左)
国道479号線を渡る。
歩道の線が蛇行しているのが、旧道であることを偲ばせる。
道幅は5.5mと旧道のままだ。
安立2丁目に霰(あられ)松原の碑がある。
古代にはすぐ西まで海岸が迫っていて白砂青松の景勝地であったという。
霰松原の由来

 霰松原の名は『万葉集』天武天皇の第四皇子である長皇子
の”霰打つ あられ松原 住吉(すみのえ)の 弟日娘(おとひおとめ)と 見れど飽かぬかも”の歌などでよく知られています。
 この地は、奈良、平安時代は海に沿った堺まで続く松原で、
白い砂と松の緑は四季を通じてすばらしい景観をみせ、多くの人々が訪れ、大阪と河内南部や紀州方面を結ぶ街道としても重要で
「岸辺の道」、室町時代後期からは「紀州街道」と呼ばれていました。

 安立町の由来は、江戸時代初期の良医であった半井安立(なからいあんりゅう)が、この地に住み多くの人々を助けた徳により、
その名を残して町名となったと伝えます。                  財団法人 住吉名勝保存会
安立の街並み
アーケードの商店街に入る。
アーケードの中にも古い家屋を発見。
安立四丁目
写真:左)
地蔵堂にインパクトのある仏像に遭遇。

写真:右)
ゆるやかな坂の向こうが大和川
写真:左)
大和橋

写真:右)
橋の手前から海側を望む。
南海本線の鉄橋と、その向こうには阪神高速の高架道路。
(8:38)
恵美須町からは2時間目
写真:左)
絵図にある大和橋の様子。
大和橋は大和川の開鑿工事とともに宝永元年に作られた公儀橋だった。旧暦六月末に行われた住吉神社の大祓いの祭りでは、数百人がかがり火を持つ神輿の列は遠く西宮、兵庫、明石から泉州海岸から見え、人々はこの火を見て神幸を拝したという。
写真:右)
つきあたりを右に回り込み阪神高速の高架下をくぐる。
大和川を渡ると堺市に入る。
堺市の平成の道標にはもう高麗橋からの距離は刻んでいない。
堺に入ると刃物の扱う店が目立つ。市道187号線を渡ると右にゆるく曲がって大道筋(だいどうすじ)に入る。

写真:左)
郷学所跡
江戸時代の上級学校。
明治維新のとき新政府軍によって閉鎖されたが、のち明治政府によって再興され、明治3年まで教育の中心だった。
写真:右)
小西行長住居跡。
キリシタン大名。関ヶ原では石田三成に付き、京都で斬首される。
中央に緑地帯がある両側三車線の車道がある上に、歩道がこの広さ。
写真:左)
堺市内と旧街道の図
A:紀州街道 が南北に延び、
北から、C:長尾街道が東へ、
そのすぐ南に竹内街道が平行して東へ延び、熊野街道が分岐している。

 熊野街道は仁徳天皇陵の北側こ出た後、御陵の西側をなぞって南端から西へ直角に曲がり大道筋まで直進したあと、その交差点で分岐する。
大道筋として南北に延びた道路が、府道197号線として直角に東へ曲がる地点が御陵前交差点。 ここで熊野街道は南へ、紀州街道は南西へ分かれる。
 しかし、地図には道なりに真っ直ぐになっているのでそのまま進んだところ石津川つきあたったところで橋がなく、間違って熊野街道を進んでいたことが分かった。写真:右)の広い道が熊野街道。紀州街道はその右側へ分岐する道だった。
ご注意を! (9:27)
写真:左)
熊野街道沿いにあったおもしろい名前の会社。
熊野街道は分岐点から1500mほどの石津町東2 の交差点で東へ分岐して、国道26号線の高架下に重なる。

紀州街道と思いこんでいたが、石津川を渡る橋がないので気づいた。西へ川沿いに移動する。
写真:左)
石津川を太陽橋で渡る。
(9:55)
橋の東側の景色。阪堺電車の鉄橋が見える。
太陽橋の南詰めに燈篭1基。
浜寺諏訪ノ森町中

屋根より高いサボテンを発見。

三光橋を渡る。
写真:左)
浜寺諏訪ノ森町中三丁目の
諏訪ノ森郵便局

そこから200m先の突き当たりを右折して、南海本線の線路を越えて府道204号線に合流する。
浜寺公園が見えてきた。
(10:12)

紀州街道としては、府道204号線に重なり、3500m先の府道36号線の高架の手前で分岐するが、往時の松林の雰囲気を感じるために公園内を歩いた。
写真:左) 園内に残る明治時代の消火栓。 ここは別荘地として利用され、戦後は進駐軍の住宅地になっていた。
明治維新の際、士族授産として浜寺の松が次々に伐採されつつあったころ、明治六年、大久保利通がこの地を訪れた際、万葉の時代からつづく松林の変わり果てた姿に即興で「音にきく 高師の浜の はま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と詠み、県令に示した。県令は伐採を中止し、この地を公園にと太政官に願い出て同年、浜寺公園が設けられた。
気候は快適で汗もたいしてかかないが、屋台でアイスクリン
150円を買って食べる。

腹も減ってきたので、早めの昼食とする。公園を出て府道沿いに出るとオークワの隣のなか卯に入る。親子丼 490円。
うまかった。たくあんが付いていたら言うことなし。
(10:49)
府道204号線を南進する。
写真:左)
芦田川を仇浪橋で渡る。
写真:右)
伽羅橋交差点
南海高師浜線の高架下をくぐる (11:08)
高石神社
高石神社    − −説明版より−−
 高石神社は、古くは天神の社として知られ、古い歴史があることは、「延喜式」の神名帳に高石神社として記されており、
大阪湾を西に望む松林に建っています。近くには筆屋という宿屋があって、多くの旅人がここで休息しています。
その中には、有名な歌人や江戸末期の測量学者伊能忠敬もいます。 境内は昔の高師浜の風景をよく残しています。
写真:左)
千代田五丁目、正面に助松ジャンクションから東に分岐する高架道路(府道36号線)が見えてくると左手の郵便局の前の道へ右へ分岐する。
写真:右)
分岐から50mほどで小高石橋を渡る。道の向こうに高架が見える。
高架下をくぐると、助松町から泉大津市に入る。

写真:左)
中和泉街道の道標
大正時代のもの。

写真:右)
助松町の家並み
助松町二丁目に、紀州街道の本陣であった田中家がある。
竹の犬矢来のある非常に長い土塀の向こうに立派な門が残っており、紀州徳川家の本陣として立派な構えを今に残している。
100m四方の敷地を持ち、建物は江戸中期のもの、庭園は石州流茶道の名人藤林宗源の築造と伝える貴重な遺構である。
なお公開はされていない。
本陣は参勤交代のおり大名の泊まる宿泊施設だが、この田中家は休憩所として利用された。
 和歌山城を出た参勤交代の行列は初日は岸和田に泊まり、翌日はこの田中本陣で休憩したのち、二日目の宿泊地である枚方宿まで京街道を進んだ。
 貝塚から枚方を一日の行程とはすごい距離である。 足軽はともかく荷物をかついだ中間・小者の苦労が偲ばれる。
田中家から1kmほど、浜ノ松町で府道204号線に合流する。
写真:左)
合流点手前の銭湯、浜ノ松温泉。突き当たりを道なりに左に曲がる。

写真:右)
曲がってすぐ車道に出たら右折する。
府道204号線は合流して1kmほどで再び分離する。
写真:右)
泉大津署のある春日町南
の交差点、を右折する。
写真は右折ポイント。
写真:左)
右折したらすぐに駐車場に沿って左折する。

写真:右)
中央商店街のアーケードの手前に大津神社がある。
写真は境内にあるトイレ。
大津の名のとおり、かつてはこの辺りは和泉国府の外港として栄え、平安時代の「土佐日記」や「更級日記」にも出てくる。

今では埋め立てが進み海岸線まで1km以上ある。
アーケードの商店街の様子。
「ぽんぽんや」という屋号がおもしろい。

写真:右)
アーケードを抜け、戎町で街道はカーブする。
府道225号線を渡る。
空き地の看板『祭礼用品一式
胸当一体型もも引 地下タビ
小中学校制服 婦人服
樽井百貨店 宝くじ売り場』
とある。
地車会館 を発見。
いよいよだんじり地帯に突入していく。
写真:左)
上之町、清水町と過ぎる。
ひらがなで書かれるといったいなんの会館なのか分からない不思議な会館。

写真:右)
登り坂の向こうに大津川がある。
大津川に架かる楯並橋。
(12:17)

写真:右)
橋から海側を望む。
高速道路湾岸線が見える。
楯並橋を渡ると泉北群忠岡町に入る。
されに道なりにまっすぐ進む。
紀州街道はほぼ直進の道で分岐点さえ押さえておけば分かりやすい街道である。

写真:右)
忠岡北と忠岡中の境界の交差点に道標1基。
忠岡の街並みも比較的古い家が残っており、造作の凝った家も多い。
 忠岡町は南北の幅は1kmほどと細長く、すぐ南はだんじりで有名な岸和田に隣接する。
 岸和田市に入るとだんじりの格納庫が街道沿いに点在している。 だんじりは一基数千万円するといわれ、新調するときには町内会費が一軒で2,30万円すると聞いたことがある。
 
岸和田市戎町。
特産の水なすの店。
水なすは水分に富んだ卵形の茄子で、この種をよそで育てても水なすにならないと云われる泉州の特産品。

左手に弥栄神社がある。
写真:左)
春木大小路町。
土蔵の窓が船の舷側窓のような庇がついている。始めて見る形状だ。

写真:右)
左の赤い建物はだんじりグッズ屋さん。力王エアータビ、エアークッション入り岸和田祭りタビの幟が翻る。祭りグッズ屋はこの後も見かけた。 全国の祭りファンにとって岸和田の紀州街道沿いは要チェックだ。
写真:左)
また だんじり格納庫を発見。
こういう地域性がはっきりしているところを見つけるのは街道歩きの楽しさだ。

写真:右)
春木体育館の脇を通る。

写真:左)
春木川を永守橋で渡る。
(12:52)

写真:右)
下野町の町内会の看板。
寄付金を寄せた人の名前がずらりと並ぶ。 全国に祭りは多々あるが、観光目的ではなく自分たちのためのお祭りを心から大切にしている泉州の人々の熱い思いが街道風景にもにじみ出ているところがすごい。
またまた格納庫を発見。
電柱には「だんじりの入魂式のために駐車をしないように」という注意書きをあちこちで見た。
入魂式の時間帯を見ると、早朝5時から引き回すらしい。
 よそ者が万一この注意書きを無視して車を止めっぱなしにしておけば、車が裏返るくらでは済まないかもしれない。
 だんじりや祭りに懸ける泉州の人々の情熱を甘く見てはいけないのだ。
写真:左)
並松(なんまつ)町をすぎ、北町へ入ると、洋風レトロな中央会館がある。なつかしい雰囲気に思わず入ってみたいと思わせる建物だ。
39号線の向こう側に成協信用組合の石造りの建築がある。
その並びの南側に岸和田自然資料館があった。(写真:右)
これまでほぼ直線に進んできた紀州街道が直角に曲がっている。これは城下町の町割りでよくある、軍事上の設計によるものだ。 いったん左へ曲がり、
郵便局の角でまた右へ曲がる。
写真:左)
岸和田城下の図
オレンジの線が紀州街道。
堀の両端で鍵型に曲がっているのがよく分かる。
 岸和田城は千亀利(ちぎり)城とも呼ばれ平城で本丸、二の丸、三の丸、総曲輪からなっていたが、本丸・二の丸の石垣と堀が
現存する。
天守閣は1827年(文政10年)落雷により焼失したが、1954年(昭和29年)に鉄筋コンクリート造りで建てられた。
江戸時代には岡部氏が代々岸和田藩を支配していた。1640年(寛永17年)には重い税率に108ヶ村の農民が集まって強訴し、
総石高より3000石を減額するという領主側の譲歩を勝ち取った。

 岸和田のだんじり
 毎年9月14・15日に開催されるが、会社勤めが多くなった昨今、さすがの岸和田市民もだんじり祭りを週末にずらす
という話しも出ており、伝統を維持するのか参加者の都合を優先するのか意見が分かれている。
そもそもの始まりは、それほど古くはなく元禄16年(1703年)に、城主岡部長泰が、京の伏見稲荷を城内の三の丸に勧請して、
9月27日に五穀豊穣を感謝する稲荷祭りを行ったところ、たいへんな賑わいでこのときだんじりが盛に城内に入ったということで、
この頃から祭りが始まったと云われているが、資料として残されているのは1945年(延享2年)以降である。
 (大阪の歴史散歩 下・山川出版)より
岸和田城のお堀を挟んで浜側の家並み。 さすがによく風情が残されている。
左手の空き地の向こうに岸和田城の石垣と楼閣が見える。

古い家屋には一軒ずつ説明板が付けられている。
古い街並みのつづくこの通りには無料休憩所も設けられており、観光コースとしてももっと有名になってもいいところだと思う。
自動販売機だって「だんじり」。
余談だが、泉州ではヘルメットなしでも原付バイクは捕まらないといわれるが、湾岸の29号線では黄色信号の時間が異常に短いため、信号無視で捕まる車をよく見掛ける。張り込みの場所は4箇所ほどに固定しており、地元民はひっかからずよそ者が餌食になる仕掛けになっている。(体験者談)
南町に入ってすぐに、蛸地蔵として有名な天性寺が右手の奥にある。
蛸地蔵のいわれ
 建武年間(1334−38年)地蔵尊が蛸の背中に乗って海浜に現れた。しかし、世の中が乱れていたので、人々はこれを敬わず、
岸和田城外の堀へ捨ててしまった。 時移って天正年間(3573−92)、松浦肥前守が城主のとき、紀州の根来・雑賀の衆徒が攻め寄せた。落城寸前、常駐に大法師が現れ、奮戦して宗徒を追い散らした後さっと姿を消した。その後城主はときどき蛸が堀に浮かんでいるのを見つけたので、不思議に思い堀を掘らせたところ、木造の地蔵尊を見つけた。そこで、あの法師はこの地蔵尊が変身したものと思い、厚く信仰し、更に多くの人々に仏縁を結ばせようとしてその像を天性寺の泰山和尚に授けた。(和泉名所図会 巻三)
 (大阪の歴史散歩 下・山川出版)より
南町の端から、津田北町にかけて、城下町の情緒を消え洋風新興住宅地が広がる。
川の手前、このあたりから貝塚市になる。
 写真:左)のテラス付きの建物はCommunity Centerとあり、入り口には南町老人クラブ集会所の看板がかかっている。

津田川を岸見橋で渡る。
南岸には煉瓦造の紡績工場がある。
写真:左)
湾岸の府道29号線から見えるので気になっていたが、寺田紡績、テラボウだったことが分かった。稼動しているのかどうかよく分からないが、かつて泉南は繊維が盛んだった時があり、歴史的建造物としても保存してもらいたいものだ。

写真:左)
岸見橋から250mほどで府道204号線に合流する。
建築中のビルの覆いに描かれた昭和30年代初めの貝塚市北町の祭り風景。

この先の交差点の標識には「関西空港まで15km」とある。
写真:左)
左手に貝塚市商店街のアーチが見える。デザインはだんじり。
だんじりというと岸和田が有名だが、貝塚も泉佐野も泉南文化圏は同様にだんじりが盛んである。 泉南に引っ越すということは家移りするというだけでなく、地元の伝統や文化に溶け込めるかが重要である。気軽によそ者は引っ越してこないように。
(伝聞による推測)
写真:上左、右)
府道に合流して1km強で街道は貝塚南町郵便局前交差点で、西へ分岐する
天体望遠鏡製作の先駆者
岩橋善兵衛 生誕の地
 岩橋善兵衛は、宝暦6年(1756)鰯屋清八の弟として
この地に生まれた。レンズ磨きを営むかたわら、自ら蘭学を
学び、寛政5年(1793)窺天鏡(きてんきょう)と呼ばれる
望遠鏡を製作した。これは天体望遠鏡としては国産の最初といわれ、非常に精密なものだったようである。
 伊能忠敬の日本沿海測量にも用いられた。(説明板より)
写真:左)
脇浜一丁目西 交差点で府道40号線を渡る。

渡るとため池に沿って進む。
道の遙か先にりんくうゲートタワーが見える。
写真:左)
近木川を永久橋で渡る。
(14:13)
このあたりの300mほど海側が二色浜。
「左へ300mでコスタモール」の看板がある。
写真:右)
大阪 34km の標識。
6時半に歩き始めたとはいえ、
まだ14時すぎで、予想したよりもずっとペースが速い。
貝塚市澤、道は蛇行するが道なりに進む。
上新電機の看板が見える。
そこで府道204号線に一旦合流するが、50mほどですぐに
右手に分かれる。
そこで、泉佐野市に入る。
泉佐野市に入ってすぐの分岐点。二股に分かれているところを入ってすぐに鶴沢橋がある。
鶴沢橋を渡ってすぐに直進すぐに直進するのが孝子越えで、
左へ曲がり府道204号線を渡るのが熊野街道。
参勤交代の道としての紀州街道は熊野街道として紀ノ川南岸まで繋がる。
(14:26)
写真:左)
鶴沢橋の南に輪ゴムで有名な共和の工場があり、その先の左側のゆるい登り坂を進む。

写真:右)
府道204号線を渡り反対側ですこしずれて直進する道をたどる。
写真:左)
鶴原1丁目。渡って住宅街の道を進む。

写真:右)
南海本線・鶴原駅南側の踏切を渡り、すぐに右側の線路沿いに道を進む。(注意!)
 私は道を間違い踏み切りを渡って直進して国道に出たので、また後戻りした。(10分ロスタイム)
写真:左)
踏切を渡るとすぐに右折する。
これが正しい道。(14:45)

写真:右)
下瓦屋の第三中学で、紀州街道は消失しているので、府道64号線へ迂回する。
写真:左)
またまた道を間違えて国道26号線まで出てしまった。後戻りして紀州街道と熊野街道の合流点へ向かう。
この写真はその交差点だが、西向きの図。
写真:右)
交差点を右折した正しい進行方向。熊野街道を歩いたときに通ったはずだが思い出せなかった。 後で熊野街道の該当箇所を読み返すと、泉佐野市下瓦屋で道に迷ったと書いている。
 紀州街道は以前歩いた熊野街道とここで合流するので本日の目的ポイントに予想より早く到着した。(14:58) 散髪屋の駐車場のベンチに座ってここから1km先の南海・井原里駅から帰宅するか、再び鶴沢橋まで戻って、孝子越え街道を以前開始点とした泉佐野駅まで歩いて乗車するか迷った。一服して立ち上がろうとすると太ももがこわばってまともに歩けない。痛みをこらえて鶴沢橋へ戻ろうとしたが、歩くペースは当然遅くなっており、孝子越えの続きは断念して、南海・鶴原駅から帰宅することにした。駅舎の手前で大粒の雨が降ってきた。
鶴原駅到着 (15:19)
本日の歩行データ:
47,663歩 / 40,545歩 (しっかり歩行)
1,427Kcal / 97.5g (消費脂肪) 33.4km (一歩70cmで登録)
紀州街道は、南北にほぼ直進に近いルートで海沿いの道のため起伏はほとんどない歩きやすい道だった。
予想より早くついたので、高麗橋から歩き始めてもよかったが、堺筋の南端から歩いてもそれも起点のひとつなので、
よしとしよう。
途中には住吉大社、浜寺公園、岸和田城など見所もある上に、広い府道がすぐそばを走っていたりするので、
食事や水分補給に心配はない。 さらに阪堺電車、南海電車がそばを走っているので、途中でエスケープすることも
可能なので、初心者でも心配なく歩ける街道である。

<紀州徳川家の参勤交代ルート>
江戸時代初期は和歌山から松阪へ抜けていたが、その後、紀州街道を経由するようになった。
街道Walkerで紹介しているルートでは以下のように繋がる。

54) 京街道 枚方 − 京都・山科 (29km)
53) 京街道 大阪天満 − 枚方 (22km)
58) 紀州街道 大阪市浪速区−泉佐野 (34km)
40) 熊野街道(小栗街道) 和泉市 北信太 − 阪南市 山中渓 (37km)
         (ページの真ん中から少し下・下瓦屋のあたりで紀州街道と合流する)
49) 大和街道 和歌山市−和歌山県岩出市 (19km)



更新日: 2021/5/25