第 57回 小雲鳥越  -   2006年11月11日

11.小口〜請川 (小雲取越) 使用マップ


 本日はこれまでの街道歩きの中で最悪の天候の中を出発することになった。
雷雨である。 気温は21度/17度とこの時期にしては引き続き暖かい。
 6時起床。6時半に食事を済ませる。
女性グループはバスで新宮へ行くのでここで分かれる。
それにしても外にでるのも躊躇する雷雨だ。
写真:左) 部屋の窓からの景色
写真:右)
朝食。うまかった。完食する。

 7:15にチェックアウト。
スパッツを靴に装着し、黄色のポンチョをすっぽりかぶる。朝食を用意してくれた小母さんが車で登り口まで送ろうか、と言ってくれたがどうせ濡れるのでご厚意に感謝しつつ出発した。

小口トンネルの脇を通るのが本当なのだが、雷雨を理由にしてトンネルをくぐってしまう。

写真:右)
小和瀬渡し場跡
トイレ、休憩所
(7:34)

 フラッシュを使うと雨滴が写る。
手元も濡れるし、ちゃんと写っているのかどうかも分からない。フラッシュを使ったり止めたり試行錯誤する。

 赤城川
小和瀬橋を渡りながら撮影

写真:左) 上流方向
写真:右) 下流方向

 説明版2つ
明治5年の渡し賃のリストがある。
現在の金の値段(¥2400/g)で単純計算すると、125文が36円となる。 感覚的な金額の比較をするときには金も米価も経済大国となった現代では物価も様変わりしてピンとこない。換算率でいえば、江戸期の大工の日当を現代と比定したレートが最も感覚的に納得がいくだろう。

−−−−−−−−−−−−−説明板より −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   小雲取越
 雲取越えの内、小口から請川迄を小雲取越と呼んでいます。
小口の名が文献上最初に現れるのは、西行法師の「雲取や志古の山路はさておきて おくち川原の淋しからぬか」の
歌です。 この「をくち」がいつしか「小口」に変化したものと思います。
をくち川原の淋しさとは、生い茂る枯れ芦原の川原に木枯らしが吹きすさぶ夕暮れのもの悲しい風情なのでしょうか。
この歌で小雲取は「志古の山路」と表現されています。
建仁元年十月 後鳥羽上皇の御幸の供をして雲取を越えた藤原定家の日記では、小雲取の事を「紫金峯」と書いて
いますが、これは本宮から眺めた夕日に映える如法山のことなのでしょう。
 平安末期から鎌倉時代にかけての上皇や女院の熊野御幸には、本宮から川下りで新宮へそして那智へ、那智から
新宮へ引返し熊野川を上り本宮へ戻るのが順路で、那智から雲取越をして本宮に戻ることは少なかった様です。
 近世には熊野詣での巡礼が全国各地から来ましたが、那智から本宮への通路としてこの雲取越が盛に利用された
様です。そのため楠久保に十数軒・中根に四軒・市坪に八軒・小口に十数軒の旅籠があり、道沿いに案内図のような
茶屋が営まれていました。
 尚案内板にある椎の木茶屋は細平茶屋と、桜茶屋は赤谷茶屋と、石道茶屋はさわのたわ茶屋と、別名での記録も
あります。これらの茶屋はすべて近世になってからの開業と思います。
 小雲取道は如法山の南から西に廻り松畑に出ます。松畑から如法山の東廻りに志古に出る道を万歳越えと云います。
この万歳道に一遍上人の真蹟と云う六字の名号碑現存します。 是非一度お立ち寄りください。
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 小和瀬の渡場跡

 雲取越の道はその昔熊野三山へ参詣する道者「順礼」が列をなして通ったと聞きます。
ここ小和瀬には渡船があって道者は何文かの銭を出してこの川を渡ったのでした。
・水出る時は船渡しあり船賃定まらず(紀南郷導記元禄年間)
・大水の時十五文 中水五文 小水三文と高札あり(熊野めぐり)
・明治五年三月渡場賃銭書上覚 (御用留帳・中村文書)

常水 中水 大水
壱人此賃銭 25文 50文 100文
長棒かご一挺 150文 300文 600文
引戸かご 同 100文 200文 400文
垂かご  同 75文 150文 300文
大長持 一棹 100文 200文 400文
長持   同 50文 100文 200文
両掛分持一荷 25文 50文 100文
牛馬  一疋 125文 250文 500文

人足賃 小口から請川まで壱貫320文
 同   小口から楠久保まで224文と書留めています。
(此の年125文が1銭に切り替えられました。当時の1円は金1.5gでした。)
 渡場の下手に井堰がありましたから、現状よりは水深もあり川幅も広くて、徒渉するのは困難でしたから
つり橋の完成(昭和29年)までは渡船が利用されていました。

   通称 源氏岩
 此の場所から北の方向、小和瀬沿いの崖山の頂上近くに土地の人が「源氏岩」と詠んでいる岩穴があり、
源氏の人々が隠れ場所としたと語られています。
内部の広さは十畳くらいありましょうか。入り口が狭く捜すのは困難な場所です。ときおりコオモリが子育てに
利用しているのを見掛ける事があります。正徳年間の書き上げでは「蓮華地の岩屋」と記されています。
いつの間にかレンゲジがゲンジに変化したもののようです。
                                  熊野川町教育委員会
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 小和瀬橋を渡ってすぐ、道標にしたがって左の坂を登る。
雷が時折鳴る。やや小降りになってきた

(7:44)
本宮方面への標識にしたがって坂を登る。

写真:左)
フラッシュを使うと雨粒に反射してこうなる

写真:右)
光量がたりないため、影になったところではこうなる。地蔵さんがおどろおどろしく写っている。

 雨に濡れて、装備をかばいつつ歩く。
道はぬかるみ、石畳では滑りそうになる。
左手に傘、右手にステッキ。ひんぱんにポンチョの胸元からカメラを取り出し撮影。
ポンチョの下は汗ばんでくるし、坂道はしんどいしで、写真の多くは手ぶれしている。

 マップ中、「急な石段の登り坂」とある箇所


  眺望マークの箇所を挟んで、
マップ中、「登り坂」の箇所。
小和瀬渡し場から桜茶屋までの2.4kmの間に一気に250m以上、標高が上がる。

 雨は小降りになり、霧がわいてきた。

 幻想的な風景。
快適なハイキングとはほど遠い状況だが、修行の道としては雰囲気ありすぎ。

写真:左)
22番道標 (8:34)

写真:右)
下り坂。もうすぐ桜茶屋。

 茶屋跡の石垣。

ついに桜茶屋跡に到着。(8:50)
マップ中の標準歩行時間+15分で到着。
やはり坂道はきつい。
しかし、これまでの雷雨の中の行軍の苦労も吹っ飛ぶような見事な景色に出会う。
 ここから先はさほどの勾配もなく、天候さえ良ければ快適なハイキングコースだろう。
−−−説明版より−−−
 歴史の道史跡  桜茶屋跡

 ここには明治の末年まで茶屋がありました。
庭先に桜の大木があったので桜茶屋と名付けたといいますが、この付近には山桜が多く自生していましたから、この地にふさわしい呼び名であったといえます。
 ここから見下ろす小和瀬のはずれに白装束の巡礼の一団を見掛けると、茶屋の主人は大急ぎで餅をつき、お茶を沸かし、準備万端調えたところ先刻の巡礼の一団が店先に姿を現したといいつたえます。
 山家とは嘘よ名を知れ桜茶屋  燕志
 休め休め日は暮次第桜茶屋   杉暁
 茶屋の名の花にも化かす五月空 麦雨

足下に注意して山路をお楽しみください。
      熊野川町教育委員会
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 歌碑
落葉樹の絨毯の上を歩く。
雨はようやく止んだようだ。

9:07 桜峠着
ところどころ霧が立ちこめる。

 

 石堂茶屋跡 (9:40)
 人の訪れることが少ないせいか、高温多湿のために生育が速いためだろうか、いずれにしても苔の緑が見事だ。しかもあちこちで見かける。

 桜茶屋から石堂茶屋までは、マップの上旬時間では45分だが、5分遅れの50分とまあまあのペースで歩いている。

 賽の河原地蔵 (9:44)
 親より先に死んだ子供は、最大の親不孝をしたことになり地獄に堕ちる。賽の河原で「ひとつ積んでは父のため・・・」と賽の河原の石を積んでは鬼に蹴散らされ、また積み直していくことを永遠にやるという。
 子を亡くした親は現世での悲しみの他にも、地獄に堕ちて苦しんでいるのでは、とさらに悲しみを深くしたことだろう。 この地蔵も、いつの世も変わらぬ親が子を思う気持ちで現代でも石が積まれている。

 14番道標 (9:58)
まもなく林道のアスファルト道が見えてきた。

写真:右)
太陽電池式の緊急電話。
普通の公衆電話のようには使えない。
携帯電話(Softbank)は那智からずっと圏外のまま。

 林道を横断 (10:00)

 万一事故などが発生したときの限られた脱出搬送路。


 百間ぐら (10:09)

霧や雲に遮られているが、山々の雄大な景色、夕焼けの幻想的な光景など、撮影のスポットになっているらしい。
 逆方向に、請川バス停から登ってくれば、ここまで1時間半程度で着く。

 遠くまで見通せないものの、霧に覆われた熊野の山々も幻想的な風景。

 百間ぐら周辺は、如法山(標高609.5m)の周囲を巡る道となる。
歩いていると木々の遮られて分からない。

 11番道標

 青空も少し顔を覗かせている。尾根道に入ったのか眺望も開けてきた。携帯電話がアンテナが1.2本ようやく立ったので、道々考えていた熊野川下りの申し込みをした。

幸い、団丹客と同船なら空きがあるとのこと。このペースで11:30の請川バス停発本宮行きに間に合えば、参拝後、本宮を13:16に出る新宮行きのバスに乗り、熊野川下り舟に乗ることができる。

 午後からの天気予報でも雨かもしれないというリスクはあったが、当日キャンセルはしないという条件で申し込んだ。ついでに川舟めはり弁当(550円)も申し込んだ。
 川舟が実現できたおかげで藤原定家のたどったルートはすべてただることができる。

写真:右) 万才(ばんぜ)峠の分岐
伊勢路道標 (10:32)

 9番道標

本宮参拝の時間も確保しなければならないが、勾配もゆるやかで歩きやすく、川舟にも乗れる目途がたって足取り軽やかに進む。

 松畑茶屋跡 (10:37)
朝の雨で道が水没している。
道の両脇のベンチが、それを見越した橋のようにしつらえてある。助かった。

 写真:右)
 8番道標

 7番道標

 6番道標

 百間ぐらの手前と先では、人通りの量が違うのか、よく踏み固められていて道が歩きやすい。

 5番道標

 4番道標

 ついに熊野川が見えた。
(11:15)
 那智大社から山々を越えてやってきたのだなあ。

 2番道標


 民家の裏庭を抜ける。

 写真:左)
どうやら曲がる箇所を間違えたらしくちょっと手前でアスファルト道の坂を下って国道168号線に出た。

 写真:右)
こちらが小雲取越えの登山口、下地橋バス停。(11:27)
「熊野古道 小雲取越え 登山口
熊野川町小口まで 13km 約4時間」
「公衆トイレ 約200m先」
実際、ちょうど4時間で着いた。

 請川バス停 (11:31)
まもなく来るバスに乗り本宮へ。
しかし、本宮へは3kmの道程、次の本宮発13:16のバスに乗ることを考えて小一時間あるので、ここから国道168号線を歩いてもよかった。
 しかし小雨も再び降ってきており、迷ったがバスに乗った。

 11:42 熊野本宮大社に到着。
小雨の中を参拝する。

 第四殿まで丁寧に参拝した後、御札、お守りなど頂く。
前回、中辺路から来たときには夕方で、大日越えをしたために、大斎原はじっくり参拝できなかったので今回は、本宮が明治まであった旧社地をじっくりまわってみたい。

 あいにくの雨だが、結婚式が行われており、雅楽・平調音取が聞こえてくる。
伊勢神宮では格式が高すぎて、皇族でも無い限り結婚式はやらないだろうが、本宮で結婚式を挙げられるなんて、草莽の民にとっては望外の光栄。縁も所縁もないハワイくんだりの教会で結婚式を挙げるくらいなら、ここに来なさい!とぜひ薦めたいものだ。

−−−説明板より−−−−−−−
 大斎原(おおゆのはら)

 ここは、大斎原と称して、熊野本宮大社の旧社地。
明治二十二年夏、熊野川未曾有の大洪水にて、上、中、下各四社の内、上四社を除く中下の八社殿二棟が非常なる災害を蒙り、明治二十四年、現在地(ここより西方700米の高台)に御遷座申し上げ、今日に至っております。
中四社、下4社並びに摂末社の御神霊は旧社地に、仮に石碑二殿を造営し、西方に、中、下各四社を。東方に元境内摂末社(八咫烏神社・音無天神社・高倉下(たかくらじ)神社・海神社 他)をお祀りしています。
 大鳥居は平成12年竣工
 幅 42m 高さ 34m


バスの時間までまだ30分以上あり、時間をもてあましてた。雨宿りができるところは本宮境内には無く、唯一屋根掛けしてあるバス停だけだった。

本宮の周辺には食堂は少ないが、弁当を予約したうえに、さっきお守りなどおみやげを買ったので、手持ちの現金が乏しい。
昨晩のデザートの巨大蜜柑を食べた。
本当に蜜柑なのでちょっと驚く。
 写真:右)
 本宮・鳥居を挟んだところにバスの駐車場がある。熊野古道ツアーだろうか、スパッツにポンチョという本格装備のツアー客があわただしく乗り降りしている。
 本宮 13:16発の新宮行きのバスが川舟下りの最終接続だ。熊野川沿いにバスは走る。14時に竹田前で下車。小雨が降っている。ここまでのバス代は¥890。
川舟の乗船料¥3,900、めはり弁当¥550 を事務所で支払う。 (目はり弁当は帰りの電車の中で食べたが、期待はずれだった。) 本宮から新宮まではバスで¥1,500、 川舟経由なら¥4,790。
ビニール合羽、笠、ライフジャケットを付けて乗船。
 熊野川 川舟センター 

 混み合っている中、当日の申し込みだったので、団体さんの舟に乗ることになっていた。
すでに数隻が船出していた。
同乗する団体は、TV局のクルーと聞いていたが、周囲の会話の声は支那語である。
とまどいつつも、先に乗り込んで後ろの座席に着いた。
(舳先の席の方が見通しもよく良い席。)

 前回の熊野詣ではバスで新宮へ向かった。車窓からとでは、川から眺める景色がまったく異なることが分かった。
雨に降られて状況はよくないものの、風景はなかなか良い感じだ。

 同乗しているグループはべつに撮影や取材をやるわけでもなく、ただの慰安旅行のような雰囲気だ。年かさの社長が靴を脱いで平社員の太ももへ、なにも言わずにいきなり自分の足を乗せたのには驚いた。ここまでのワンマン社長は日本にもそういないだろう。

 社長は向きを変えて人間椅子にもたれかかり、前の席の係長は小舟にもかかわらず立ちっぱなしで、早瀬に入るたびに語部が遠慮がちに注意するものの、すぐにまた立ち上がる。ついに課長も社長も立ち上がってしまった。 うるさいうえにこれである。 後ろの席からは後方45度くらいの範囲しか写真が撮れない状態だった。
いや、もう最悪。
 

 途中下船したい気持ちを抑えて撮影する。定家らの熊野御幸を偲んで、川舟に寄せる期待は大きかっただけに、この現実のギャップはでかい。
 支那語を話すといっても、もし台湾人なら、友人もいることだし、好きな国なので結構なのだが、この傍若無人ぶりはどうも違う。マナーの悪さでは世界的に定評のある支那人だ。まさに、呉越同舟を絵に描いたような状況に身を置くはめになってしまった。
 語部が横笛を吹くと、前列の主任がそれを借りて、なんと語部よりもうまく曲を奏でるではないか。 面子にこだわる連中にとって、それがどういう意味なのか分かっているはずだ。 国交省のビジットジャパンキャンペーン で中韓の観光客を国策として増やすつもりだが、伊勢神宮や熊野といった神道の聖域はそっとしておいて欲しかったものだ。
 下船後、苦情を申し入れたところ、今後は外国人はチャーター扱いにして、そこに一般客を入れることはないようにする、とのことだった。(ちなみに連中は香港人だった。)

 熊野川河口、速玉大社の東側で舟を下りる。(15:40) 新宮発の特急は15:47、これには間に合わない。次は17:58である。

 熊野速玉大社
小雨降る中を参拝。

 歩行データ:
32,457歩/17,625歩(しっかり歩行)
1,004Kcal/61.8g、 22.7km

新宮市の商店街を歩き、新宮オークにてトンカツ定食(¥980)を食べた。
 17:58 新宮駅発のオーシャンアロー36号で帰った。
<費用>
・交通費
 新大阪−那智勝浦 (乗車券¥4,310+自由席特急券¥1,880 )
 新宮−新大阪    (乗車券¥4,620+自由席特急券¥1,880 )
 バス: 請川−本宮 ¥240 、 本宮−竹田前 ¥890
 舟: 竹田前−新宮 ¥3,900
・宿、食事
 尊勝院 ¥8,400 (弁当付き)、小口自然の家 ¥7,665 (缶ビール追加)
 めはり弁当 ¥550、トンカツ定食¥980
ここまでで、35,315円。
このほか、賽銭、お守り、2日目に買った缶ビールなどを含めると4万円強の旅費になった。

更新日: 2021/5/25 リンク切れ修正