第52 回 西国街道  西宮市門戸厄神 - 神戸市長田   2006年10月30日


 阪急今津線・門戸厄神駅(もんどやくじん)に8:06到着。予想最高気温22度、
秋晴れのウォーキング日和。
平日の通勤通学時間帯で混雑するなか、ウォーキングの完全装備姿で
駅を降り立つ。ステッキがあるので登山風の格好なので怪しまれない
(と、思う)。

 今日のルートは神戸市を目指すが、戦災と宅地開発、さらに震災で
街道風情の残る古い家屋は皆無だった。京都から北摂のルートは
意外にも古民家が多く残っていたことと対照的な風景である。
 このルートの資料には、「兵庫の街道 いまむかし」橘川真一著
(神戸新聞総合出版センター)を使った。手書きの概略図もある使える資料。

 西国街道は駅の北側の踏切から南西方向へ住宅街を直進する。

 本日のルートで存在
する数少ない道標。












左: 津門川を渡る。丸橋町。
「旧西国街道」の標識。

右:
愛宕山をすぎ、広田町で二度
曲がり南進し、西宮市立体育館
のある運動公園を横断する。
 国道171号線に合流する。






どこで国道から分かれるのか、不明だったが、
国道171は2号線との合流部分に、「札場筋」交差点
があることから、171号線を進んだ。
左:
元台湾第七部隊(第303連隊) 元台湾第九中隊
(大塚隊)戦友会連絡所 の看板のある「揚子江」
阪急高架の手前。
戦友の固い絆を感じる看板が目を引いた。
右:
阪急線の高架をくぐる (8:47)



左: 札場筋 交差点。
国道2号線、171号線の交差点
だが、名称からすると旧街道の
札場があったはず。
しかし、それを示す説明板は見
あたらなかった。
縄文土器と酒造りについての
説明板があったのみ。
右:
国道171号線と43号線の合流部
のひとつ手前に、「旧国道」の標識
がある。これが旧街道か。西進する。



左:
写真左上の箇所にある石碑。
「蛭児大神御輿屋傳説地」
旧国道を西進するとまもなく
西宮神社の表大門に出る。









 西宮神社
えびす神社の総本社。

正月気分の残る時期に、関西の
ローカルニュースでは毎年放映
されるあの福男選びの場所が
ここだ。
この門から拝殿まで開門と同時に
猛ダッシュで男たちがなだれ込む。



−−−− 説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
西宮神社 表大門 
慶長九年(1604)豊臣秀頼公の寄進によるものと伝う。単層切妻造本瓦葺四脚門 雄大な木割から桃山期の豪壮な
時代精神が窺える代表的な建造物として大正十五年に国宝に指定された後昭和二十五年に重要文化財に認定される。
一月十日午前六時開門神事が斎行され福男が選ばれる。
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 大練塀 (重要文化財)
しっくいも使わず、土を塗り固めた
だけのような素朴な風合いだが、
たしかに珍しい。











西宮神社の境内
左:
門を入ってすぐの様子。
神職の方が掃いておられた。
テレビでしか見たことがなかったが
表大門から”L”字型に曲がり、
(写真:右)鳥居を左折すると拝殿
が右手に見える。







左:
拝殿。桃山破風の立派な佇まい。


右:
千歳飴の袋が懐かしい。







 西宮神社の南から出てすぐに
国道43号線から分かれ、一本
北側の道を西へ行く。
左:
阪神香櫨園駅が右手に見える。
(9:17)

右:
途中線路の北側に高架下をくぐり、
500mほどで阪神打出駅の北側
で右折する。



左:
写真右上の交差点の北東角に
「阿保親王廟」の石碑がある。
この道を北側に行くとすぐに、
天満宮の鳥居が見えてくる。
(写真:左)
打出天神社(天満宮)
平野部を通ってきた西国街道が
このあたりで浜に打ち出でる
ところから打出という地名が着いた
と説明板にある。



左:
公園の番地表示
打出小槌(うちでこづち)町
どんどんお金が貯まるありがた
そうな地名だ。

打出小槌町から宮塚町に入り、
国道2号線のひとつ南側の道を
西進する。
芦屋川の手前で国道に合流する
とすぐに業平橋にでる。


芦屋市付近の古地図(マイケルのここは芦屋の打出)
(この付近のエリア(西宮から芦屋にかけて)古地図を元に西国街道の復元についてまとめてあるサイト。)


左:
業平橋から南側

右:
業平橋から北側
国道の北側、芦屋川の東に
業平町がある。
在原業平がこのあたりに住
んでいたことに因んだ地名。





左:
国道2号線を西進する。
業平橋から700mほどで神戸市
東灘区に入る。
(10:01)

街道は東灘区田中町2丁目から
4丁目にかけて国道の一本北側
の道となる。





左:
道路脇にあった山王神社

右:
住吉川を渡る。
高架はモノレールの線路。
右手は東灘区役所







左:
区役所の西側の端。
有馬道が山側へ延びる。

右:
住吉宮町、国道2号線の北側に
接して本住吉之宮の鳥居がある。
西国街道はここで国道と別れ
南西へ向かい、阪神御影駅の
手前を西進する。




左:
阪神御影駅

右:
御影中学と御影小学校を
それぞれ敷地の南半分を回り
込むように迂回しつつ西進する。







石屋川の手前に出る。
公園の南西角に徳川道起点
の説明板がある。

地図では橋で直進できるのだが、
実際は国道2号線へ出て迂回
しなければならない。







左:
国道2号線で、石屋川を渡る。
(11:16)
ラーメン屋で昼食とした。

西国街道は石屋川駅から大石駅までの間、線路脇の道の一本北側の道をとる。
都賀川を越えたところで北へ向かい国道2号線と合流する。

疲れた上に、まったく街道風情がないので、横着をしてそのまま2号線を
西へ進んだ。





右:(12:14)
国道2号線と43号線が合流する
箇所の北側。
2号線の終わりを直進して
西郷川の手前を山側へ右折し
JR線路の南側を西進する。







街道は脇浜町1丁目で南に折れ、また西へ折れて直進する。(中央区)
国道2号線のひとつ北の道をJR三宮駅手前までほぼ直進するかたちになる。

左:
その途中、大安亭市場の様子。

下:
アーケードの向かいにあった古地図と、説明板。 三宮付近の絵図
明治の開港以前は松並木と漁村が点在する場所だったことが
分かる。集落は新開地の西側へ街道沿いにあり、神戸村とある。
現在と対比すると幕末の開港以来の繁栄がいち漁村だった神戸を
大きく変貌させたことが分かる。
























左:
生田川を越える。
橋の向こう右手にあるのが
新神戸トンネルの入口。

JR三宮の東側から駅の北側へ
出る。
(写真:右)は三宮の駅北側の
交差点。街道は阪急三宮駅の
西端から南へ向かい
アーケードの中を西進する。



(13:08)













左:
「兵庫県里程元標」。元は相生橋西詰めにあった
ものをJR高架工事のために記念としてJR神戸駅前に
移設されたもの。

右:
港町1丁目でJR高架をくぐり南へ向かう。
駅前からの道は分かりにくい。この手前で道を
間違え、湊川神社へ出てしまった。
写真はJR高架を南方向へとくぐる正しい箇所。
くぐるとすぐ右手に湊八幡神社が見える。



湊八幡神社
兵庫区兵庫町1丁目

右:
迷子のしるべ石。
往時はこのあたりは人で賑わい
迷子を尋ねる人、見つけた人は
この石に張り紙をしたという。
戦災で折れた右側の石の隣に
複製された石が並ぶ。





湊口惣門跡

街道は南へ
進む。








−−−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  西国街道兵庫 湊口惣門跡

西国往還に儲けた兵庫の出入り口の惣門である。東より来る西国往還は相生橋より相生町を経て、市電気局前
に来たり、進んで此の惣門を入り、兵庫津の湊・江川・木戸・木場・小物屋・北仲の諸町、今の所謂兵庫本町を進み、
南仲町今の神戸商業銀行の前を右折し、小廣・神明・逆瀬川・東柳原・西柳原・の町々を過ぎ、柳原口にあった
柳原惣門を出て、西代を経て須磨に向かった。
 兵庫の惣門は天正年間、池田信輝が織田信長の命によって、花隈城を攻略し、その功によりて兵庫を治し、城を築く。
 其時、湊口・江川口・永澤口・三川口・問屋口・皆関門番所を儲け、市中にも宮内・匠・松屋・魚棚・島上の諸町に、
中濱門として番所を設けたが、徳川時代に入り、青山氏が此の地を領した時悉く之を破却し、只湊口・柳原口の両門を
残した。
 古図によれば惣門内には何れも番所があった。更に此番所の傍らに高札があったが、幕末の地図によれば門外左側
に高札場が移転している。
これ門の修築に当たり番所を廃し、高札場を門外に移したものと思料する。

                             「神戸古今の姿」岡殻三郎・福原潜三郎著 /神戸市岡方協議会
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阪神高速道路の高架下は横断
できないので、大きく迂回して
をくぐり、本町にはいる。
道は分かりにくいが、本町1丁目
の公園の西側が街道になる。

左:
岡方会館

右:
会館の植え込みにある
岡方惣會所 由緒



札場の辻跡

兵庫区本町の公園を左手に
沿って下ると、南仲町の境に
高札場跡があった。


西国街道は札場の辻を西へ
直角に曲がる。
写真:左の角を右折する。



−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   札場の辻跡(西国街道)

 江戸時代、西国街道は兵庫のまちの東の入り口である湊口惣門をくぐって、兵庫津に入っていました。それから
湊町、本町を経て南仲町の辻に出ます。ここを右折して神明町、北逆瀬川町、東柳原町を経て西柳原町へ出、西の
入り口である柳原惣門を抜けて、現在のJR兵庫駅の北側から、須磨、明石へ向かいました。
 南仲町の辻は、兵庫の中心地に当たり、ここに大きな高札場があったので、俗に 「札の辻」とも「札場の辻」とも
呼ばれていました。
 兵庫の高札場は、ここと東西の惣門と、来迎寺(築島寺)前との四ヶ所にありましたがここが兵庫の中心であった
ことから、南仲町のものが有名になっています。
 明治元年、幕府の高札は廃止されましたが、新政府に引き継がれ太政官の名前で掲示されて、慶応四年まで
設置されていました。
                                              神戸市 岡方協議会
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*古地図は、宝暦年間
(1751−64)の兵庫津
(毛利藩の「中国行程記」より)


現在の繁華街とは異なり、
港を中心にしてここ、兵庫
が賑わっていたことが分かる。















札場の辻を直角に曲がると
写真:左のように高速道路
が見える。横断歩道を渡り
道なりに直進する。

左:
西の惣門である、柳原惣門が
かつてあったというえびす神社
が左手に見えてくる。
































−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           西国街道兵庫 柳原惣門 跡
 西国街道は近世になってからは、西から来れば、須磨・長田方面から現在のJR兵庫駅の北を通り、西柳原町
の柳原蛭子神社と福海寺にはさまれる一あたりで兵庫の町にはいる。
 西国街道を通って兵庫の町に出入りする場所、即ち西の柳原口と東の湊口には惣門が設けられていた。
 柳原惣門が最初に設置された時期は、兵庫城の築城に伴う外郭の土塁の構築時である天正8年(1580)頃に、
その関門の一つとして設置された可能性が高い。
城は、現在の中島あたりに主部を置き周囲にこの外郭の土塁と堀を設け、内側は郭内として兵庫津のまち全体を
城下町とする縄張りとなっていた。
即ち、兵庫津の外郭は総曲線(総構)と考えられ、その曲輪の門として惣門と称されたのではないかと推測される。
 この門は、明治八年外輪堤とあわせて撤去された可能性が高い。
なお、平成一三年に実施した柳原惣門調査会による調査と、平成一四年度に実施した埋蔵文化財調査の発掘結果
を参考として推定復元図を作成した
                                                  神戸市 岡方協議会 
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JR兵庫駅へ向かう。
高架をくぐり左折。
写真:右はJR兵庫駅の構内
の様子。
高架の柱といい、構内の造作
といい歴史のある立派な造り
である。
神戸市といえば三宮が最も賑
わっているが、西隣に市の名前
を冠した神戸駅があり、さらに
西隣には、県の名前を冠した
兵庫駅がある。
変遷の歴史にも興味がわく。


JR兵庫駅前を西に進み、西市民
病院前を通り、長田交差点で
県道21号線に合流する。

まもなく長田駅。
西国街道の下調べも尽きたので、
今日はここまで。
(14:46)





歩行データ: 37,155歩 / 30、614歩(しっかり歩行)
         1,112Kcal/75.7g (燃焼脂肪)  26km
この区間の印象だが、古い街並みはほぼ皆無に近く、街道風情はほとんど無かった。
もともと幕末の開港以前には、兵庫津の他には漁村が点在するところで古くから町が形成されていなかった
ことも原因だろうか。
 近代になって貿易の町、重工業の町として発展したものの、空襲で壊滅し、戦後は阪神間の交通の便利さから
住宅地として大きく開発され古いものが取り壊されたことも原因だろう。
また阪神大震災により、多くの木造家屋が倒壊したことにより街道沿いの街並みは新興住宅地のような感を呈している。
震災時には救援物資を持って阪急西宮から東灘まで歩いて行ったが、ときどき見覚えのある建物があったりして
当時を思い出した。






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