第 42回 亀岡街道  茨木市宇野辺 - 京都府亀岡市   2005年10月28日


 前日の雨もあがり秋晴れの気持ちよい天気だった。
予想最高気温は21度で歩くには絶好の一日。

街道は高麗橋元標を起点とするが、そこから歩き始める
と、夕暮れまでに亀岡にはたどり着けない。
 北摂の山間の道は府道110号線、国道423号線
と多く重なる。交通量は多く、実際にバスの便も山間部の
割には多い印象が残った。しかし、阪急バス、京阪バス
の営業区域が県境で異なるため、京都府側からは大阪
方面に戻ることはできない。
 モノレールの宇野辺駅を境にして、高麗橋からのコース
は後日に半日程度で歩くとして、この日は一気に亀岡まで
足を伸ばすことにした。



(写真:上)
モノレールの線路の向こうに、太陽の塔が小さく写っている。

宇野辺駅を8:00に出発する。
亀岡街道はモノレール北側の道を穂積2丁目6から北上
する。
石切神社の看板のある道の一本東側の道が亀岡街道。






下穂積1丁目と2丁目の境界にある道を進む。

丸ポストが残っている。

ちょうど通学、通勤の時間帯で自転車に乗った高校生と
すれ違う。








 府道129号線と交差するところに、ファミリーマートのマークが
あったが現在は無く、一本西側にセブンイレブンがあった。
そこで弁当とお茶のペットボトルを買う。
地図でみると、道中にコンビニはないので、ここが最後の補給
ポイントと判断。
(使用地図は、昭文社 近畿圏文庫版 3万分の1
 豊能町余野から先は、プロアトラスW3の印刷したもの)

しかし、上穂積のスーパーサカエがあり、すでに開店していた。
ここで調達すればよかった。




上穂積2丁目で、JAの前を過ぎる。

(写真:下左)
 上穂積2,4丁目の境で道が分かれる。
道なりに歩くと右方向を選びそうだが、実際は左に曲がる。

(写真:下右)
 そこから100mほど直進すると名神高速の高架下をくぐる。




















 地図ではそのまま道なりに進むように描かれている。
このあたりは住宅地。写真左の向こうに見える家との間は
通路になっている。
直進していくと、ついに突き当たりになってしまい、地図と
見比べてみると、どうやら一本西側の道を歩いていたようだ。
(茨木市郡3丁目)








 郡神社の参道が西側に見える。













 住宅街で迷っていたが、郡5丁目1で亀岡街道へ軌道修正。













 国道171がくの字にカーブする交差点で、亀岡街道は交差する。
車ではこのあたりは何度も通っているが、ここが亀岡街道だったとは。

北側にローソンの看板がある。このローソンが実際は最後の補給
だった。
(なお、府道、国道が大半なので、飲料の自動販売機は点在しており
不自由は感じなかった。)






勝尾寺川の南、中川原町で西国街道と交差する。
−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        中川原の道標
 この地は、茨木市内を東西に走る西国街道と、南北に走る亀岡街道が交差するところです。
町名を「中河原町」といい、茨木城の城主として名を連ねている賎ヶ岳七本槍のひとりとして
有名な、「中川清秀」が生まれたといわれる由緒地です。
 中川清秀は、中川佐渡守重清公の長男として生まれましたが、『中川資料集』によると、
天文十一年壬寅(1542)「城州所詳ならずに於いて、御誕生御名虎之助、後瀬兵衛尉と
称し奉る」とあり、生まれた詳しい場所は分かりませんが、清秀の菩提寺である梅林寺の
蔵書に、摂州島下郡中川原とあることから、この辺りであるとも考えられています。
 ここから、西国街道を、西へ約1km行くと、江戸時代の参勤交代などの時に、西国の
大名が宿泊する宿として有名な「郡山宿本陣(椿の本陣)」があり、東へ約1.5km行くと
「太田茶臼山古墳(第二十六代継体天皇陵)」などがあります。また亀岡街道を北へ約0.8km
行くと、中川清秀の氏神である福井の「新屋座天照御魂神社(にいやにいますあまてるみたま)」
や古墳時代後期(六世紀後半)の「新屋古墳群」、また天平二十年(748)行基の開基といわれ
る「麒麟山真龍寺」などがあります。
 さらに北へは、風光明媚な山地部を通り、京都府の亀岡へと続いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  茨木市教育委員会   −

(写真:左)
西国街道の
池田方向

(写真:右)
西国街道、京都方向








 (写真:下左)
 勝尾寺川を渡る。
 橋から直進するのは新道で、旧道は向かって右側の
道に入る。

 (写真:下右)
橋のたもとにあった説明板
北摂や丹波との物流の道でもあり、また能勢妙見宮への
参詣路でもあった。



















 勝尾寺川を渡ってすぐの右手の道が旧道。
直進し、茨木川の手前に道標がある。
東福井1丁目

 『左 たんば
    妙けん』
 『右 郡山
    大坂』






 将軍塚














 東福井2丁目と3丁目の
境で、府道110号線に
ふたたび合流する。

近くに、麒麟山真龍寺がある。








 そこから100mほどで、旧道
は再び右手の道へ分かれる。
(写真:左)

そして50mほど先の坂の手前
で左へ曲がる。
(写真:右)
この岡が実は城跡であった。






『摂津志』によると、福井城は建武1年(1334年)
楠木正成の築いたもので、その後1527年に
三好元長に陥られた、とある。
(写真:左は右上のカーブミラーの説明板を写したもの)

その正面の、旧道入り口の電柱脇に道標1基。








 分岐点から500mほど
緩い坂を進むと、府道へまた
合流する。











 東福井の棚田
野鳥を撮影している人がいた。
(写真:左)


茨木市佐保で旧道は右手の
道を進む。








佐保の集落

佐保川が亀岡街道に沿って
流れており、清流で汗ばんだ
手を洗う。








 佐保から泉原(いずはら)へ入る手前で道は川沿いの府道と、西側
の山へ入っていく道とに分岐する。 はたして旧道はどちらか。
川沿いの道は今でこそ、崖を削る代わりに比較的平坦な道だが、往時
には道が整備されたいたのか確証がなかった。
 そして山側に分岐した道は、地図上では、府道43号線と交差した後、
素戔嗚神社の先から東海自然歩道となり、上音羽の境で府道110号線
に合流する。
 柳生街道がそうであったように、ここの東海自然歩道も旧街道なのだろうか。
ここでは、実際の地形を観察する為に、石材工場の手前から山側の道へ
曲がってみた。

写真左に見えるのが府道110号線。中央が工場。



まもなく、集落のゴミ置き場に道標を発見。
山側コースが旧道の可能性が高そうだ。


 『右 かちをち』 (勝尾寺のことか?)








(写真:左)
 府道43号線(豊中亀岡線)
と交差するはず。
佐保川の支流を渡って直角
に北西方向へ進む。

(写真:右)
川沿いに坂を上ると集落がある
が、府道43号線なのか疑問。
さらに地図では、この手前で
東海自然歩道へ繋がるはず
だが、見あたらない。


 府道43号線(?)と思われる
道を反対方向へ引き返す。
途中、山の上の急峻な階段の
上に神社があった。
しかし、この山を回り込むように
勾配の緩い道があり、(写真:右)
旧道が山の上の境内と重なる
必然性は、情況としてないと
思われる。
 ここで、地図に記載されていない
道を歩いていると判断し、府道
100号線へ合流することにした。


 あぜ道を進むと、茨木市役所
の出張所が府道110号線に
直交する道路沿いにあった。
その道こそが府道43号線である
ことが判明。
しかし、東海自然歩道ルートが
ある方面は勾配があり、その手前
は平坦な地形の為、いくら田畑が
あるとはいえ、街道は手前側の
ような気がする。
泉原の北辰中学、老人ホームが
あるあたり(写真:左)で、府道
(このあたりは一時的に43号線
と重なっている。)


を降りて、畦に腰掛けて弁当に
した。
向こうに見える森の見ながら、
その先の地形と合わせて考えて
も、やっぱり旧道があるようには
思えない。


(写真:右)
この辺りは隠れキリシタンが
いたらしい。高山右近の高槻
とは地理的にも近いためか。


(写真:左)
亀岡街道は、再び府道43号線
から別れ、110号線となって
北北西方向へ進む。

(写真:右)
登り坂の途中から南方面を写す。
緩やかな勾配の街道だが、いつの
まにか結構な高さになっている。





上音羽の境で、東海自然歩道
が右手に伸びている。
説明板を読んでも、亀岡街道
の案内はない。

泉原の素戔嗚神社と、府道から
分岐した間の蛇行したルートを
見ると、これを街道とするには
一見距離が短いようにも見えるが
高低差がきつく、荷運びには
難儀しそうな道である。
結局、この区間の亀岡街道は
はっきり分かりません。

 茨木市上音羽















上音羽 阪急バス停











 茨木市から豊能町へ入る
12:24


 福田 阪急バス停
右手に山を切り開いた北大坂
ネオポリス、希望ヶ丘1〜5丁目
がある。
 通りで山中の府道の割にバス
の往来が多かった訳だ。




走落神社
府道沿いにある。
参拝する。

この先、300mほどで豊能町の
中心に出る。








豊能町余野。
信号を右折するのが亀岡街道。
その手前の坂の先に郷土資料館
があるので、寄り道したが閉館日
だった。









高台の東能勢小学校に
隣接した郷土資料館にある
天保年間に使われてた寒天を
作った大釜。

忠魂碑
戦没兵士の奥都城もこの後
目にするが、戦後一転した都心の
人心の薄情さと対比してしまう。
戦前の農村はしっかりしていたから
こそ、日本兵は強かったのだろう。



 昭文社の近畿圏地図(文庫版)
では、ここで3万分の1地図が
終わる。
 ここからは、アルプスマップ
プロアトラスW3から切り出した
地図を使用。
しかし、余野からは国道423号線
になり、ほぼそのまま亀岡市内へ
と続く。






(写真:左)
国道423号線は城山高校の
手前でカーブする。
写真のすこし先にコンビニがあり、
高校生がたむろしていた。


(写真:右)
「亀岡15km」の道路標識
(13:24)



国道下に農道と道標がある。

『右 能勢妙見宮』











梅相院をすぎると、京都府亀岡市
西別院町へ入る。 (13:37)



























西別院町生涯学習センター
脇には忠魂碑。











 鐘楼が見えてきた。
鳥居もある。
多古神社。
神仏習合の名残がそのまま
残っている。
明治の神仏分離令を経たにも
関わらず残っているのは珍しい
が、それだけ西別院町の人々
の信仰心の厚さが伺われる。






街道脇の郵便局













戦没兵士の奥津城。
陸軍の☆マークが刻まれている
のが珍しい。


街道脇の道標
『能勢妙見山  右 ちか道
          左 本街道 』






 西別院町柚原
 (14:34)












































 曽我町法貴
(14:54)
遠くに、亀岡の町が見えてきた。


京都府に入ってから、国道に
歩道がなく、さらに山道の割に
交通量が多い。






 峠も下り終わり法貴の集落へ
出る。平野が亀岡市街まで広がり
を見せる。

国道423号線は曽我部小学校
を過ぎる。







南条郵便局の反対側に国道と
直交する道が旧道。

右手に曲がる (写真:左)

国道の東側を平行して進む。









街道はすこし高い位置にある。

街道から西の夕焼け空を望む。
重畳と連なる丹波の山々が美しい。









 (写真:右)
街道は直進だが、高速道路に
阻まれてしまう。
家の右側の道を進み、高速道路
の亀岡ICの下をくぐる。










高速道路の北側に出たら左折し、
国道423号線の手前の道を右折。
高速道路に寸断されるまでは
写真右上の家の左側の道と、
写真:左の右へ伸びる道が繋がっ
ていた。

(写真:右)
それもわずか100mほどで、また
国道423号線に合流する。



(写真:左)
ガラス張りの大きな建物。
なんだろう。

(写真:右)
国道9号線と交差。








 JR亀岡駅に到着。
 16:49
篠山街道を歩いたときのことを
思い出す。



まもなくやってきた山陰線、
京都行きに乗り込む。





 山間の府道、国道が中心だが、比較的平坦で歩きやすい。府道110号線は歩道も
ちゃんと設けてあり、安全に歩けるが、国道423号線には歩道はほとんどなかった。
山間部の道とはいえ、現在でも亀岡方面と大阪の行き来には多く使われているようで、
交通量は多い。
特に、府道では、山間部に真砂土をとる山があるので、大型トラックの通行が多い。
秋の収穫のシーズンで、蜜柑や柿の無人販売を期待していたが、北摂ではさかんでは
ないようで、まったく見かけなかった。 道路脇の小屋がけした販売所で、「柿」の看板を
見つけたが、「九度山柿 和歌山より本日入荷」とありがっかり。
やはりこのベストシーズンには奈良、和歌山の方が自然の恵みを実感できるのだろう。

 道そのものは歩き安いものの、街道風情の残る家並みもほとんどないので、歴史を
感じる街道というより、運動としてのウォーキングの道という感じがする。
歩き始めて3時間後には、しんどくなりだしたのだが、軍歌パワーで歩き通した。
9時間弱を歩いて、50,375歩 (宇野辺駅から亀岡駅までの”ウォーキン族”での計測)
OMRONの万歩計(リセットできないので当日の合計データ)では、
39.65km、 52,871歩 (しっかり歩行 47,457歩)、125.8gの燃焼脂肪、
1,562 Kcal消費 というデータだった。