第 40回 熊野街道(小栗街道)  和泉市北信太 - 阪南市山中渓   2005年4月18日


 JR阪和線、北信太駅に10:00到着。昨日の続きを歩く。
資料は、前回と同様に、「熊野古道ガイドブック 熊野への道 大阪編」
(吉田昌正著、藤白神社授与品 ¥600)を使用した。

 駅から東へ府道30号線を渡り、ひとつめの交差する南西方向へ続く
道をたどる。 信田小学校の西側を通る。

 500mほどで左手に一之鳥居が道路に面して立っている。
(写真:下段)





(写真:左)
進行方向に向かって撮影。
府道30号線の道幅が分かる。
鳥居は道路に面している。


(写真:右)
鳥居、正面方向の参道の様子。
このあたりは比較的街道風情
が残り、良い感じ。




(写真:左)
常夜燈の側にあった「国民精神総動員記念」碑
昭和十二年の刻印がある。
同年、盧溝橋事件勃発、近衛内閣が挙国一致を
表明し、国民精神総動員運動が展開された。
国民精神総動員実施要綱(国会図書館資料)

(写真:右)
 信田王子跡 (10:09)
鳥居の先、民家の塀に目印(足下の矢印)がある。
その左手の路地に入ったところにある。


−−−−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−
篠田(信太)王子跡
 平安時代の後半頃から流行した浄土信仰は、紀州・熊野こそ十万浄土
の聖なる地・現世極楽の聖地であるという「熊野信仰」に発展し、現生極楽
の地にあこがれ、一切の罪業消滅を願う皇族や貴族たちがこぞって熊野の
地を目指すようになりました。
 延喜7年(907)宇多法皇の御幸にはじまった熊野詣は、貴族の次に武士
層に、南北朝以降は畿内の庶民層へと広がっていき、「蟻の熊野詣」と
称されるほどに大勢の参詣人が熊野を目指して続いたと伝えられています。
この熊野への参詣の道が熊野街道です。
 京都から淀川を船で下り、大坂天満の渡辺の津に上陸し、そこから摂津国
の天王寺、住吉を経て、和泉国を通過して紀伊国へと、陸路を南へ八十余里、
往復およそ一ヶ月のみちのりでした。和泉市内では、信太山丘陵の裾を
現在のJR阪和線とほぼ平行して通っています。
 熊野街道筋の要所要所に、遥拝所、休憩所として設けられたのが、熊野権現の末社である
”王子社”で、数が多いことから、熊野九十九王子とよばれています。
 和泉市内では、篠田(信太)、平松、井口(茶井)の三王子がありました。後鳥羽院の熊野詣
に随行した藤原定家の記録によると、一行はここ篠田(信太)王子で禊ぎの後、信太明神に
参拝しています。
 ここには、もとは熊野権現が祀られていましたが、明治四十二年(1909)に葛葉稲荷に合祀
されました。王子町の地名は、ここに篠田王子があったことに由来するものです。
 なお、熊野街道は、説経節の一つとして名高い「小栗判官(おぐりはんがん)」で、熊野参詣の
ため土車に乗った小栗判官が照手姫に引かれてこの道を通ったことに因んで、「小栗街道」とも
よばれています。
                            平成十六年十一月 和泉市教育委員会

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(写真:左)
だんじりの地車庫
だんじりといえば岸和田が有名だが、堺以南の
泉州一帯でだんじり祭りは今も盛んだ。
だんじりに懸ける泉州の人々の意気込みは半端
ではなく、とかく「祭り」が形骸化する昨今、生活に
密着した生きた伝統を受け継ぐ姿勢には敬意を
抱く。

(写真:右)
八坂神社 (10:14) 進行方向から撮影。



八坂神社
参道、拝殿。

おばあさんが熱心に
参拝されていた。

私も横で参拝する。







(写真:左)
八坂神社と道を挟んである、
小栗の湯
初日の終点を、もう少し足を
延ばしてここにすれば、黄金
のパターンで締めくくることが
できた。

その先の五差路で、南方向、
郵便局のある道へと進む。

(写真:右)  (10:25)
交差点に佇む、平松王子跡
(青いポール下の石碑)

道幅は対面2車線になったり、
狭くなったりしながら、自衛隊
信太山駐屯地へと続く。

 信太山といえば、阿倍晴明の
母親は信太山の狐だったと
云われ、かつては鬱蒼と樹木
の茂る場所だったのだろう。

写真:右の左手の坂が自衛隊
正門



(写真:左)
 陸上自衛隊信太山駐屯地 (10:30)
正門下は五差路になっている。
写真左はその正門下、南方向を撮影したもの。
熊野街道は、信号の先、分岐点を右へ行く。

(写真:右)
追分の道標
『左 池田 植尾 松尾寺
 右 小栗街道 佐野 牛瀧 岸和@ 和@』
 (下部の文字は地中に埋まっている)



(写真:左)
徳本上人碑 (10:42)


(写真:右)
このあたりの往時の繁栄を
伝える長屋門のある家

伯方(はかた)町から府中町
にかけて、旧家が残り、街道
風情がある。





(写真:左)  (10:45)
府中五丁目3 の道標

『小栗街道
 左 大阪高麗橋元標
    六里十四丁五十九間』

明治期のものと思われる。
熊野街道ではなく、近世の説話
からの影響で小栗街道と表記。


 街道沿いに泉井上神社の
鳥居がある。
(和泉市府中町六丁目)
(10:46)

参道を進む。








(写真:右)
境内には、和泉国の名称のもと
になったと云われる清水の
湧き出た跡が祭られている。
現在は湧水はなく、周囲は宅地
と化している。

井口王子跡はこの先にあるが
平安末期から鎌倉前期の熊野
御幸の最盛期に、まだ湧水が
あったとすれば、ここが王子社
であった可能性は高い。


−−−− 説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
和泉清水
 古くから「国府清水」または「和泉清水」とよばれ、霊泉として祭られるとともに、
農業用水として周辺の農地を潤してきた和泉である。
 社伝によると、泉は、神功皇后の新羅出兵の際、一夜にして湧き出たことから
霊泉そてい祭られるようになったという。
 水は常に清らかに澄み、その味は甘露であるとして広くその名を知られ、豊臣
秀吉も大阪城に運ばせて茶の湯に用いたという。
 ここは古来、和泉国和泉群和泉郷とよばれた地であるが、「和泉」とう地名も、
また「泉井上神社」の社名もこの泉に由来すると伝えられている。
   平成十年三月 和泉市教育委員会
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(写真:左)
国道480号線を横断する。
(10:57)レストランさと が
あり、マメご飯定食食べた
かったがちょっと時間が早い
ので見送る。

(写真:右、左下)
井ノ口町、柳田橋手前に
井ノ口王子跡がある。
(11:04)
柳田橋を渡る。


「柳田橋を渡ってすぐに右手
に道標があり、その道を府道
30号線に平行して進む。
途中、小栗橋を渡り、その先で
左へ直角に曲がりまた府道へ
合流する。」と資料にはあるが、
該当する道はすでに消失して
いるのか、地図上では再現
できなかった。
そこで、そのまま30号線を
直進する。



 「祝 小田町地車新調入魂式」
の垂れ幕が道路に掲げられて
いた。意気込みが伝わってくる。

牛滝川を高橋で渡ると、岸和田市
に入る。








(写真:左) (11:31)
JR久米田駅手前、大町交差点
で街道は大きく半円形に府道
30号線を迂回する。
半円形の東隣には久米田池が
あり、かつてはこの円内が潅漑
用の池であったと考えられる。
写真右の右側は今は住宅地
だが、埋め立て地ならば地盤
は柔らかいのではないだろうか。
宅地を購入するときには地理
的環境だけでなく、歴史的経緯
も役に立つという実例。

府道40号線を越え、池尻町へ
入り、久米田寺の西側で南西
へ曲がり、久米田中学校の
手前で右に曲がり、分岐を
北西方向へ曲がり、八木南
小学校の側を通ってまた府道
30号線に戻る。
直進すれば500mほどのところ
を約2.5km迂回することになる。

このあたりは道が分かりにくく、
迷ってしまった。


(写真:左) 道標 (11:58)
『小栗街道
従堺市々之町竹之内街道
           分岐 四里』

(写真:右)
積川神社鳥居。
積川神社はここから東へ5km
ほどのところにある。
扁額は、白河上皇の熊野御幸
の際に、筆跡の拙いのをみて
自ら筆をとられたもの。
現在のものはその複写。

府道30号線沿いの食堂で
昼食にする。冷麺、もやし炒め
とご飯をチョイス。(12:38)
店内は、ニッカポッカのおじさん
たちで一杯だった。
特に近くで大がかりな建築現場
があるわけでもないのに不思議
だった。
似たような格好なので、違和感
なく、おいしく頂く。

土生(はぶ)町から虎橋を渡ると、
貝塚市に入る。 (12:58)

前後するが、岸和田市域で、
下松駅の東側に、小栗判官
ゆかりの轟橋が、その先、作才
に、和泉式部の伝承地、恋の渕、
恋ざめの渕があった。
いずれも気づかずに通り過ご
してしまった。

(写真:左) (13:11)
『熊野街道 半田一里塚』




半田、堂之池交差点を左折して
堂ノ池の渕に沿い、1kmほど
府道30号線に平行して進む。

地車庫がここにもある。


麻生中(あそなか)の中央
小学校の北側を通り、関西自動
車学校の手前で府道へ戻る。




(写真:左)
その合流点
正面に見える、貝塚中央病院
精神科の敷地の向こうは、
新井ノ池。
これを左へ府道に沿って進む。

そこから100mほどで、
水間鉄道・石才駅北側を通り、
府道40号線、中央病院の
北側を過ぎるとすぐの五叉路で、
南側の道を進む。

阪和線・和泉橋本駅の南側を横断し、ジャスコ東側、地蔵堂交差点を府道から分かれて
西へ進む。
−−−−−−−−−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−
積善寺(しゃくぜんじ)城跡
 永禄元年(1558)、根来衆が岸和田の三好氏と戦った際、その砦として築かれた。
その後、近木(こぎ)川沿いの畠中城や千石堀城などとともに、根来衆の出城として
整備された。
熊野街道に沿った近木川の南岸部に位置し、交通・戦略上の要地であった。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の根来攻めの際には、三十間(約60m)四方の本丸
に一部三重の濠をめぐらした強固な城内に、出原右京を大将として総勢9500名の
根来衆が立て籠もったといわれる。
秀吉方の攻撃にも落城せず、最後は貝塚寺内の卜半斎了珍の仲介により和談開城した。
                             平成4年3月 貝塚市教育委員会
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近木川は、このあたりを南東から北西へ斜めに流れている。
古地図の中央を横断するのが近木川で、縦の線が熊野街道ではないだろうか。

重厚なたたずまいの家。
山側を望む。
平地が山裾まで広がっており、
今も畑がひろびろとしている。
かつては、この生産力を背景に
豊かな地域であったことが想像
され、豊かな農業を背景として
こそ、祭りなど地縁的結合力が
今なお発揮されているのだろう。
「農産物の自由貿易」問題は、
単に安く野菜が買えるという
視点だけでは判断を誤る。



小学校の下校の時間帯
大阪市以南は、制服のようだ。

南近木神社 (13:55)

蔵持王子、近木王子社が
合祀されている。







拝殿の左側に儀式殿がある。


(写真:左)
境内より参道方向を撮影








貝塚市王子。
街道は貝塚のジャスコの手前
から府道を離れ、住宅地の中
を縫っていくので事前に地図に
要所要所をプロットして繋いで
おいた方がいい。

(写真:右)
見出川を貝田橋で渡る。
その先の川沿いの道は、
粉川街道となり、山越して
紀ノ川方面へ向かう。


見出川と佐野川に挟まれた
あたりは道が複雑。
下瓦屋で道に迷ってしまった。

佐野川を佐野川橋で渡り、府道
64号線に合流する。
日新小学校の先の赤白の鉄塔
を目印にそこで左側の道へ
再び府道から離れる。
ここから5分ほどで佐野王子址
に出る。



佐野王子址 (15:18)

畑と住宅の混在するところに
ひっそりと佇む王子址。


(写真:左下)
26号線を横断し、メガネ屋の
手前を左へ進むと府道64号線。
看板のイラストがおしゃれだ。




府道沿いの格闘技教室。
重松流の突く、蹴る、投げる、
関節技が教えてもらえる。
一般的な「空手教室」とは
趣が異なり、どうも実践的、
実用的なものらしい。こうした
教室が道沿いに点在する。
松波健四郎の選挙区というと
ピンと来るかも。
大阪では、大和川を渡ると
文化圏が違うと云われるが、
これも泉州の特徴だろう。
がんばれ泉州!

佐野高校の正門を過ぎ、住宅街に入るとすぐに
指の矢印が浮き彫りになった道標がある。
 『ふどうみち
  すぐ和歌山道』

熊野街道は和歌山道と記されている。
不動道とは、この先にある犬鳴山不動への
道を指している。






 関空自動車道を、葵町で
高架下をくぐる。 (15:46)












日根神社御旅所

この近くには蟻通神社跡が
ある。(泉佐野市長滝)
かつては鎮守の森が広がって
いたが、昭和16年、飛行場
建設のために遷宮。
関空の対岸に戦時中、飛行場
があったとは、あまり知られて
いない。




 長南中学校を越え、ため池
の真ん中を通り、南中樫井へ
入る。











(写真:左)
慶長二十年(1615)大坂夏
の陣の樫井合戦で討ち死に
した塙団右衛門の五輪塔
(16:13)

旧家が多く、街道風情がある。
泉佐野市南中樫井

このあたり、民家の庭に樫井
(かしのい)王子跡がある。



 淡輪六兵衛の宝筺印塔
(16:17)

慶長20年(1615)大坂夏の
陣で、豊臣方の武将、淡輪
六兵衛が樫井で待ち受ける
浅野軍に突入し乱戦の中で
討ち死にした。






進行方向左手、新屋川にかかる明治大橋を渡る。
(16:25)
たもとにある、「樫井古戦場」の石碑

橋を渡ると泉南市 信達大苗代(しんだちおのしろ)
へ入る。








明治大橋から250mほどで、
明治小橋を渡ると、まもなく
古代史博物館が左手に見える。
(入場無料、土日が休館日)

海会(かいえ)寺は白鳳時代
の建立で、発掘は昭和初期。
その発掘品を中心に展示して
あるが、後日訪れたときの印象
では、建物の大きさの割に
展示品は少なく、街道資料の
展示はなかった。


 古代史博物館と道を挟んで
史跡公園になっている。

敷地内に立つ、一岡神社に
参拝して先を急ぐ。









境内を出ると左手前方の建物
の向こうになにかいる。
巨大なサル?
一日歩いて疲れた状態なので、
なにかのディスプレイであること
に気づくまで2,3秒かかった。
膝栗毛で、弥次喜多が夜道で
松明を人魂と見誤るところがある
が、分かる気がする。

「なんでこんな住宅街の街道沿
いにキングコングが・・」と不思
議に思いつつ府道64号線を進む。

郵便局を過ぎ、T字路を左へ。
信達(しんだち)市場の街並み
は、なかなか街道風情がある。

陽もだいぶ傾いてきた。
今日の目標の山中渓は、文字
通り山の中だが、はたしで日暮
れまでに行けるのか。







泉南市 信達市場から
信達牧野にかけて旧家が多い。
JR阪和線・和泉砂川駅の
西側にあたる。























(写真:左)
 府道64号線と63号線が
交差する大鳥居交差点を
右斜め前方の道(64号線)
へ進む。
 (17:02)

信達岡中を通過する。






(写真:左)
このあたりに、信達一ノ瀬王子
跡があるらしい。この祠だった
かもしれない。
沈む夕日にせき立てられる
ように先を急ぐ。

(写真:右)
岡中交差点(中央の信号)で
街道は左手に曲がり、府道64
号線から離れる。
(17:10)


(写真:左)
交差点を左折後、ため池に沿っ
て進み、そのままJR阪和線の
線路を渡る。
そのまま道なりに右へ曲がり、
金熊寺川を渡る。








道は阪南市へ入る。
このあたりもまだ街道風情が
感じられる。
JR和泉鳥取駅の東側近くに
ある大鳥居。
波太神社遥拝鳥居。








(写真:左)
山中2kmの標識
JR和泉鳥取駅付近。

(写真:右)
山の上までぜんぶ宅地が
埋め尽くされている。
街道風情と、新興住宅地が
うまく共存すればいいのだが。





 阪和自動車道に沿って街道
は伸びる。
鉄骨の下に馬目王子跡が
ひっそりとある。

馬目王子
大阪府最後の王子社。
ウハ目王子とも云われる。
馬目王子のご神体は現在、
山中神社に祀られている。

(17:44)


阪和線の線路と山中川が交差
しあうのを右手に見ながら山間
の街道を進む。標高はそれほど
でもないが、坂道を登っていく。
途中、山中渓の集落の入り口
が左手に分岐している。
道路の石畳が目印。

携帯で、帰りの時刻表を調べ、
それに合わせて急ぎ足で進む。




JR阪和線・山中渓駅到着
(17:53)
まもなく電車が来た。











帰りの車窓から見た夕焼けが泉州の海に映えて美しかった。

本日は8時間を使った。

歩行データ: 46,263歩/ そのうちしっかり歩行 40,512歩
        1,550Kcal/37.01km

 大阪府下の熊野街道は、コンビニ、食堂ともに多く、さらに鉄道に沿って
いるため、初心者でも安心して歩けるお薦めのコースだ。
北浜から2日の行程で歩いたが、3、4分割することも可能な道である。
泉佐野以南は、街道風情も多く残る道だが、昔からある集落だけに、
道が複雑で迷いやすい。



次回に続く


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