第38 回 熊野速玉大社、那智大社 (大門坂)   2004年12月2日


 この回は昨晩に引き続き中辺路・徒歩旅行の締めを飾るべく
熊野新宮大社、熊野那智大社の参拝をレポートする。
 本来なら湯の峰温泉からは再び大日越えをして本宮大社へ
出てから、舟で熊野川を下り新宮大社へ参拝したいところだが、
今はもう舟運はない。
 観光ジェット船の瀞峡めぐりは熊野川の一部を周回するのみであり、
ここは、舟で熊野川を下ったことにして、川筋の国道168号線をバス
で移動する。


宿の朝食の都合もあり、湯の峰温泉を8:46に出るバスに乗ることに
して、まずは朝の散歩を。


東光寺と温泉場

番台横の販売機で
入浴券を買う。
左手が一般浴場で、
番台の奥が薬湯。








つぼ湯は東光寺の左手を川沿いに30m
ほど行き川へ下りた場所にある。
早朝6時から営業していたので、もう一度
入ればよかった。

写真:右
湯筒。川べりにありここで卵や野菜を
ゆでる。90度の温泉が絶えず沸いている。






 瀧よしの朝食。温泉がゆと、温泉コーヒーもサービスしていただいた。
宿泊客は私ひとりだったので、3階のワンフロアーを独占状態で、快適
だった。 また湯の峰温泉に泊まるときはここに泊まりたい。
暖房は、民宿「ちかつゆ」と同様に、部屋に取り付けられた冷暖房エアコン
で、空調もまったく問題なし。
寒かったときの為に持参した長袖フリースは結局一度も使わずじまい
だった。

お勘定は、1泊2食に瓶ビールをつけて 9,600円也。
展望浴場が4階にあったようだが、入らなかった。

バス待ちの間、昨日の福岡からのパーティの方々の朝の散歩と出会い、
挨拶をして分かれる。















 移動中の車窓からの熊野川の風景。
コバルトブルーの川面が美しい。
バスは本宮大社を出て、湯の峰温泉、渡瀬温泉、川湯温泉を経由して
新宮へ向かう。
 10:00に熊野速玉大社最寄りのバス停、「権現前」で下車。
 バス代は、1,500円








 熊野速玉大社
橋を渡り、鳥居をくぐり
直角に曲がり、宝物殿
を過ぎると拝殿がある。










写真:左
宝物殿。
熊野三社の中では最も
展示が充実している。


写真:右
宝物殿の前から拝殿を
望む。
































 速玉大社については 熊野速玉大社ホームページ を参照してください。

熊野御幸

宇多天皇     一度   延喜七年
花山法皇     一度   永暦二年
白河上皇   十二度    寛治四年〜大治三年
鳥羽上皇  二十三度   天治二年〜仁平三年
崇徳上皇     一度   康治二年
後白河上皇 三十三度   永暦元年〜建久二年
後鳥羽上皇 二十九度   建久九年〜承久三年
後嵯峨上皇    二度   建長二年、建長七年
亀山上皇     一度    弘安四年
待賢門院     九度   
美福門院     四度
建春門院     三度
八條院      三度
七條院      四度
殷富門院     一度
修明門院     六度
承明門院     一度
陰明門院     一度
大宮院      一度
東二條院     一度
玄揮門院     一度
道法法親王   二度
道助法親王   一度


 平安時代後期から鎌倉時代初期(11世紀〜13世紀)にかけて参詣が集中している。
釈迦入滅後、正法千年、像法千年を経て、仏法が次第に衰えて功徳が届かなくなるという末法の
世に入ったのが、1052年。その前後に世紀末の観が広がり、阿弥陀如来の住む西方極楽浄土
への往生を望む浄土教が広がっていった。 ここ熊野では観音菩薩の住むという補陀洛浄土への
往生を願って補陀洛渡海船で浄土を目指して旅立つ僧もあった。
政治的には、天皇・貴族の政治体制がゆらぎ、武士がそれにとって代わりつつある時代であった。
現世での神仏の加護を祈願し、来世では極楽浄土へ往生できるようとの願いが参詣の回数にも
あらわれているのではないだろうか。


 宝物館へ見学する。
補陀洛渡海船、皇室からの奉納の品々
など見応えのある展示内容だった。

神札授与所で、お守り、牛王誓紙を授かる。






 ありがちな合格鉢巻きとは異なり、いかにも
霊験がありそうな雰囲気。
お守りとセットで、600円を納める。








鳥居で一礼し、速玉大社を後に、新宮駅へ向かう。 (10:50)
11時を回っていたが、那智駅方面への普通電車は1〜2時間に一本の割合。
特急なら数分後にあるが、普通電車なら1時間以上の待ちになる。(12:22発)
バスターミナルで時間を見ると(11:30発)があり、バスでとりあえず那智駅へ
行き、そこで那智山方面のバスに乗り換えることにした。

本来なら、速玉大社から那智大社へ歩くのが街道Walkerとしての使命なのだが、休暇が本日で終わり。
毎日頭を空っぽにして歩いていると、御幸の随員のような気がしてくる。 しまいには、こうして歩いているのが、
自分の仕事のような気になってくるから不思議だ。 数日ぶりに現実にもどり、浜沿いに通る道は大辺路を歩くときに
とっておこう。
念のため、街道マップでは、下記のページへリンクしています。
 8.熊野速玉大社〜那智駅
 


12:10に那智駅へバスは到着。
那智山行きのバスは勝浦駅を起点に、那智駅へ寄ってから向かう。
そのため新宮からは接続が良くない。
那智駅から那智山行きのバスは
10:25 11:10 12:00 13:10 13:45 14:20
といった具合で、時刻表は新宮駅の観光案内所か、バスターミナルで
もらえる。

乗り継ぎまであと1時間ある。補陀洛寺へ参拝して目はり寿司でも
食べようと思ったら、なんと那智駅近辺には何もない。
新宮で昼食にして、12:22発のJR線で那智駅へ来るのが正解だった。
ということで、昼飯抜きで付近を散策する。
写真左側は温泉、丹比の湯。右手が那智駅。


 浜の宮大神社
那智駅前の国道42号線を渡ってすぐ、2分ほどで到着。

浜の宮王子
<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
浜の宮王子社跡
 藤原宗忠の日記、『中右記』天仁二年(1109)十月二十七日に、
「浜宮王子」とみえ、白砂の補陀洛浜からこの王子に参拝した宗忠は、
南の海に向かう地形がたいへんすばらしいと記しています。『平家物
語』には、平維盛がここから入水したと記されているように、補陀洛
浄土(観音の浄土)に渡海する場所でした。
那智参詣曼荼羅には、浜の宮王子の景観とともに、この補陀洛渡海
の様子が描かれています。また、浜の宮王子では、岩代王子(南部
町)と同様に「連書」の風習がありました。連書とは、熊野参詣に
随行した人々が、官位・姓名と参詣の回数を板に書いて社殿に
打ち付けることです。応永三十四年(1427)の足利義満の側室
・北野殿の参詣では、十月一日に「はまの宮」に奉幣し、神楽を
奉納したのち、帯や本結(紐)を投げると、神子女(巫女)たちが、
争って拾った様子を、先達をつとめた
僧実意が記しています。
三所権現あるいは渚宮と呼ばれていましたが、現在は熊野三所大神社
と称しています。
なお、隣の補陀洛山寺は、千手堂あるいは補陀洛寺と呼ばれ、
本来はこの王子社と一体のものでした。
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写真:左
補陀洛山寺
右手に社殿が
続いている


写真:右
熊野三所大神社






 鳥居と小屋が目を引く補陀洛渡海船。
神仏習合のかたちが現代には珍しい。

 補陀洛山寺

 阿弥陀如来の極楽浄土へ往生するというのが浄土教の主流。
ここでは、観音信仰により、観音菩薩の居ます補陀洛浄土へ憧れた。
補陀洛浄土への交通手段は、左のような船。原動力は法華経。

 熊野の信仰は神道に修験道と密教が混淆されている。
殉教というよりも、即身成仏を目論んだのではないだろうか。
宗教上の死をキリスト教と対比すると、ここにも日本の特異性がある。


 那智駅は浜辺に面しており、駅舎の下をくぐるといきなり浜辺が
広がる。 補陀洛渡海の海である。
補陀洛山寺の住職は、左下のような補陀洛渡海船に乗って、
ここから船出した。
 ちなみにこの方向は東南東。まっすぐ行けば南米だろうか。
もちろん船出して幾日か幾十日かでで往生したに違いない。
このころ、西洋では地球はお盆のような海に囲まれたもので、その
端は滝のように海水が流れ落ちる、そんな地球観であった。
 釘で打ち付けられた小屋を乗せた渡海船に乗り、日夜法華経を称え
る僧は、いったいどんな地球観を抱いていたのか。

 ベンチに座って海を見ながらバスの時間を待つ。
「新宮駅で目はり寿司買ってくればよかった」などと考えながら・・・。

 13:10、那智駅前発のバスに乗る。16時すぎの勝浦発の特急に
乗るので、バスの時間やら参拝箇所をあれこれ考えながらタイミング
や時間的な制約を考えて、ぎりぎり大門坂を上れると考えた。
バス停には、「熊野古道」というのもあるが、その手前の「大門坂」で
降りる。
バス代 330円








 大門坂
 石畳の道の両脇に樹齢800年を越える
大木が並ぶ。
こうして写真で見ると木が大きいので
小道に見えてしまう。
写真左の木の根本に掲示版が挿してあるが、
その大きさから、実際の規模を想像して欲しい。

 高低差約100mを約500mかけて上っていく。
途中に一町(106m)ごとに町石があり、残りの
距離を教えてくれる。

老木の巨大さと相まって、古道の風格は充分で
ある。
まもなく多富気王子跡が右手に見えた。



<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
多富気王子跡

 熊野参詣中辺路にある最後の王子社です。おそらく樹や峠の神仏に
「手向け」をした場所で、それがいつしか王子と呼ばれるようになったと
思われます。ただし、王子の名は中世の記録には登場せず、江戸時代
の地誌類にみられます。『熊野道中記』には、「那智山坂ノ内壱待ち程
上がり、右ノ方」と記されています。また『紀南郷補記』では若一王子、
『紀伊続風土記』では児宮(ちごのみや)と呼んでいますが、『熊野巡覧
記』には、若一王子と児宮の両方の名をあげています。江戸時代には
社殿がありましたが、明治十年に熊野夫須美神社(現、熊野那智大社)
の境内に移され、跡地だけとなりました。
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大門坂を上りきると
土産物屋の並びを過ぎ、
さらに階段を上っていく。

一の鳥居(左)を過ぎ、
二の鳥居(右)をくぐると
いよいよ本殿のある平地
に出る。






向かって左側に本殿が
あり(写真:左)、参道正面
に拝殿(写真:右)がある。











 拝殿右手の休憩所から海の方向を望む。標高は400m程になる。

本殿左隣りの宝物館を見学する。
補陀洛山寺も浜の宮大神社と同じ敷地にある、今となっては神仏習合
の珍しい形態だが、ここ、熊野那智大社も拝殿の右脇を通ると、青岸渡寺
があるようにみごとにかつての姿をそのままに残している。
宝物館には、那智大社の曼荼羅がメインに展示してある。
神社に密教のアイテムである曼荼羅というのも、初めて見た。

 熊野那智大社 ホームページ

 青岸渡寺
 西国三十三箇所巡りの一番札所


 拝殿を右手に回り、神札
授与所の横の門をくぐると
青岸渡寺の境内に繋がる。
 明治以前は多くの社寺が、
こうした神仏習合の形態で
あったが、神仏分離令で
姿が変わってしまった。
伝統的な神も、舶来の仏も
「神仏」と一緒に祀る日本人
の感覚からすると、この珍しい
形態に懐かしさを感じる。



青岸渡寺を過ぎ、三重塔、
その向こうに大滝が見える。

階段を下りていく。











滝前バス停のあるコーナー道路に面して
滝へ降りる参道入り口に立つ鳥居。
石の階段を下りていくと那智大滝の雄姿が
見えてくる。

偉大な自然を目の当たりにしたときに畏怖を
感じる。 TVも写真もない時代に前知識なしで
この大滝を見上げたとき、神性を感じたことは
想像に難くない。
もちろん、現代でも日本人の心性に届くだろう。
ナイアガラの”Water Fall”とは違うのである。


 さらに飛龍神社の奥へ進む。
大滝がご神体であるから、その流れはお瀧水
として延命長寿の御利益がある。
杯(100円)が側に用意してある。
延命も長寿もまだあまり気にしていないが、
ありがたい水なのでとりあえず頂く。








 写真ではどうしてもスケール感が伝わらない。
その場所に身を置くと、音、風、空気の香りはもちろんのこと、
写真と、実際に目にする光景は視野がぜんぜん違う。
那智の大滝はテレビでは何度も見ていたが、今回、初めて間近に見る。


瀧の側まで行きたかったが、 バスの時間(15:01)が迫り、
駆け足で階段を上る。
バス待ちの間、香港?からの観光客を乗せた外人用のバスもやって来た。
大木や瀧に神聖を感じる日本人のセンスのどれほどが彼らに伝わるのか、
聞いてみたい気もする。
 京都ではフランスやドイツ語で話している観光客とすれ違うが、さすがに
この民俗宗教色の濃い熊野では、ほとんど見かけなかった。
ローマがまだ多神教だった時代、キリスト教に改宗しなかったら、こうした自然
崇拝の神道的センスは、もっと世界の多くの人々と共有できたことと思う。
ちょっと残念。


 しめ縄を授かる。今年のしめ縄はちょっと違うぞぉ。












 那智勝浦駅へ15:26着。
駅弁を物色し、商店街にも足を伸ばす。
その間に、候補にしていた熊野古道弁当(めはり寿司入り)が
売り切れてしまった。

改札は二階、弁当類はこのあたりで調達しないと改札、ホーム
にもない。
スーパーくろしお32号 16:02紀伊勝浦発。
この時間なら海岸線に沈む夕陽を眺められる。
 駅前に佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の歌碑があった。
高校時代に好きだった詩だ。


万歩計: OMRON   11.2km
      歩数: 13,995 歩/ 3,268歩(しっかり)
      消費カロリー 497Kcal / 消費脂肪 28.9g

秋刀魚弁当はなく、
マグロステーキ弁当を
買う。
千円ちょっと。

唐揚げのように見える
が、臭みもまったくなく、
なかなかうまかった。

毎度感心するが、駅弁の
ご飯は冷えているのに
なぜかうまい。


車窓から見る夕暮れの海
東牟婁郡 那智勝浦町
から古座町、串本町へと
海岸線に沿って走る。

山々の緑の間を抜け、
歩いてきたので、海の
青が新鮮に感じる。
また水平線へ向かう
広大な空間が自然の
圧倒的な大きさを
感じさせる。



16:58日没

車窓に突然、屏風を
ならべたような岩が並ぶ
風景が現れた。
橋杭岩だった。

駅弁とビールをちびちび
やりながら、車窓の景色
に見とれる。
日本の風景は本当に
美しい。



 この回は、大門坂以外は、街道歩きもありませんが、三泊四日の徒歩旅行の最終日としてまとめてみました。

<<費用>>
 <交通費>
   ¥2,520 JR 新大阪〜岩代
   ¥  550 JRバス 一ノ瀬橋〜鶴ヶ丘
   ¥  550 JRバス 鶴ヶ丘〜一ノ瀬橋
   ¥1,500 五新線バス 湯の峰温泉〜権現前
   ¥  750 バス 新宮駅〜那智駅〜大門坂
   ¥  600 バス 滝前〜勝浦駅
   ¥6,190 JR紀伊勝浦駅〜新大阪 (乗車券 ¥4,310 + 特急券(自由席閑散期)¥1,880)
  合計: ¥12,660
 <食費・宿泊費>
   ¥6,300  シティプラザホテル紀伊田辺 宿泊費のみ
   ¥9,600  民宿「ちかつゆ」 2食+おにぎり 付き + ビール
   ¥9,600  民宿「瀧よし」 2食付き + ビール
   合計:¥ 25,500 + ペットボトル飲料、2日目朝食、帰りの駅弁・ビール代など 約 ¥3,000
   ここまでで、4万円強。さらにお守り、賽銭などでだいたい1万円くらい。
   総額 5万円の3泊4日の旅だった。

<<ウォーキングデータ>>
  合計歩行距離:  106.9km  合計歩数: 133,698歩  しっかり歩数: 66,819歩
  合計消費カロリー: 4,607Kcal  合計脂肪消費量: 277.3g
* 帰宅して翌日、風呂上がりに体重計で測ると、体脂肪率が初めて20%を切っていた。


 中辺路の峰道で遠く望む、重畳たる熊野の山々の眺め。
それは、人間が開発の名のもとに踏み込んでいくことを躊躇するような厳粛な山々の姿であった。
また、帰りの車窓から見た海岸の美しい景色。 わずかの距離で実に多様な姿を見せてくれる豊かな自然。
こうした美しい日本の国土への愛着が一段と沸いてきた旅だった。
また、季節のいいときに、大辺路も歩いて見たい。

(付録: 藤原定家 『御幸日記』を基に作成された旅程: くまの古道歴史民族資料館(有田市糸我町)より )


更新: 2021/5/24