第37 回 中辺路  近露(西牟婁郡中辺路町) - 熊野本宮大社(東牟婁郡本宮町)
 − (大日越) − 湯峯     
2004年12月01日

 (街道マップ 「中辺路」 滝尻 〜 継桜王子 その2) P.6 ,P.7

 近露の民宿「ちかつゆ」を7:04に出て、近露王子へ。
北野橋の付近から朝靄の日置(ひき)川を望む。日はまだ
上がっていない。

 本日の天気予報は、晴れ。気温は8度/17度
旅空のせいか、それほど寒さは感じない。
フリースベストとウインドブレーカーを着ていたが、
20分も歩くうちに暑くなった。
しかし日陰は気温が下がるので、こまめに温度調節を
しながら歩く。




 近露王子
(7:16)


写真:右
大本教の
出口王仁三郎
の筆による
という。




<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
近露王子

 永保元年(1081)十月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近湯(ちかつゆ)」の湯屋
に宿泊しています。王子社の初見は、藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月二十四日条で、宗忠
は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣しています。このように、古くは「近湯」「近津湯」とありますが、
承安四年(1174)に参詣した藤原経房の日記以降は、「近露」と書くようになります。建仁元年(1201)
十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻について、近露でも歌会が行われ
ています。定家は、川を渡ってから、近露王子に参拝していますので、上皇の御所は右岸にあったよう
です。
承元四年(1210)、修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記でも同様で、女院は四月二十九日に
宿所に着いて、「浴水・禊」をし、翌五月一日に王子社に参拝しています。このように、近露では宿泊する
ことが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。江戸時代には、若一(じゃくいち)王子権
現社と呼ばれ、木造の神体が安置されていたようです。明治時代には王子神社となりましたが、末期に
金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。なお、跡地の碑の文字は、大本教主出口王仁三郎の筆
によるものです。
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大本教といえば、教派神道のひとつで、丹波、亀岡城の城跡に教団本部を構えていたが、戦前に國から
弾圧され、神殿ごとダイナマイトと吹き飛ばされたという組織だ。
弾圧は徹底を極め、こうした石碑もすべて破壊されたはずだが、地元の人が別人の手によるものだとして、
この石碑は唯一破壊を免れたものと説明版に記してあった。
 篠山街道の途中で城跡を掘りから眺めたが、そのゆかりの人の足跡が、意外なところにあったものである。


陽が昇る。
対岸の山には
陽光が射して
いる。









<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
近露伝馬所跡
 この付近は近露道中といわれ 熊野街道の宿場としてにぎ
わった所で、江戸時代には十軒近くの宿屋があり、伝馬所も
ここ(丹田家)に設けられていた。 伝馬所は、紀州藩が官吏
の通行の便宜と公用の文書・荷物の逓送のために設置した
役所で、ここ近露伝馬所には馬が十二頭常備され、人足は
地区民が交代で出て、西は逢坂峠・十丈峠を隔てた高原、東
は比較的近い野中との連絡にあたった。
 歌人加納諸平が天保初年近露に泊まって、「駅長(うまやお
さ)の小筒を吹くからに山のかひこそ声あわせけれ」という和歌
を詠んだが、夜中に逓送しなければならぬ至急便がきて、伝馬
所の長が竹筒を吹いて人足を呼んでいるのである。人足を呼ぶ
合図にはほら貝を吹くこともあった。
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ややオレンジ色
の着色がしてある
アスファルト道路
が熊野古道である。
北野橋のあたり
から楠山坂登り口
で地道に入るまで
続くので、わかり
やすい。

集落を離れ山へ
と向かう。


写真:左
 29番標識
 (7:38)
楠山坂登り口から
入ったあたり。

写真:右
 30番標識
 (7:47)





比曽原王子
(7:58)












<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
比曽原王子

 藤原忠宗が熊野に参詣した天仁二年(1109)には、近露王子から中川王子までの間に王子社は見られず、
この王子はそれ以降に出現したとみられます。建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定
家は、近露王子についで「ヒソ原」王子に参拝しています。また、承元四年(1210)四月、修明門院に随行した
藤原頼資も、近露王子についで「檜曽原」王子に参拝しています。鎌倉時代末期の「熊野縁起」(仁和寺蔵)以
降は、比曽原王子と書かれますが、早く荒廃したようで、紀州藩は享保八年(1723)に緑泥片岩の碑を建てて
います。現在は、この石碑から跡地を偲ぶのみですが、「紀伊続風土記」には、かつて境内に「手枕松」という名
木があったという伝承を載せています。明治末期に石碑だけの比曽原王子神社として、金毘羅神社(現、近野
神社)に合祀されました。
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 一里塚跡
 (8:09)












 伝馬所跡 (8:15)
<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−
野中伝馬所跡
 ここはテンマという屋号で呼ばれていた所で、江戸時代の
野中伝馬所の跡である。 この伝馬所は、紀州藩が熊野街
道に設けた役所で、官吏の通行の便をはかり、公用の文書
や荷物を逓送するのが任務であった。
中辺路では、田辺と本宮の間に、上三栖、芝、高原、近露、
野中、伏拝の各所に伝馬所が設置されていた。ここ野中には
十一頭の馬が常備され、人足はいつでも出られるように用意
されていて、西は近露まで、二十九町(三キロ余)であるが、
東は小広・草鞋(わらじ)・岩神・三越(みこし)などの高い峠を
越え、三里三十四町(十六キロ弱)もある伏拝との連絡にあ
たった。
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伝馬所跡のちかくで右へ降りる
道があり、それが「野中の清水」
への道。立ち寄らずにそのまま
直進する。


 継桜王子
 (8:18)

階段を上り、鳥居をくぐる。
境内にある杉の大木が、
「野中の一方杉」。






写真:左
登ったところ
にある社殿。

写真:右
境内から鳥居
の方を見下ろす。
一方杉の大きさ
に驚く。





<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
継桜王子

 藤原宗忠は、天仁二年(1109)十月に熊野に参詣した際、「道の左辺に継桜の樹あり、木は檜で、誠に希有
なこと」と、日記に記しています。檜を台木とした桜が生長していたものとみられます。建仁元年(1201)十月に
後鳥羽上皇に随行した藤原定家の日記、あるいは承元四年(1210)四月、修明門院に随行した藤原頼資の
日記には、「続桜」王子とありますので、鎌倉時代にはこのめずらしい木の傍らに王子が出現したようです。
ただし、藤原宗忠の参詣記では、仲野川(現、野中川)を何度か渡るようにし記していますので、この王子社は
その後現在地に移されたことも考えられます。江戸時代には若一王子権現とも呼ばれ、また、社前の桜樹は
「接桜(つぎざくら)」、更には「秀衡桜」ともいわれて名木となっていました。
王子社から約百メートル東にある現在の秀衡桜は何代目かにあたり、明治中期に植えられたものです。明治
時代には王子神社となり、末期に近露の金毘羅神社(現、近野神社)に合祀されましたが、社殿は残り、後に
神体も戻されました。境内にある九本ほどの杉の大木は、枝がすべて南向きに伸びているため、「一方杉」と
呼ばれています。神社合祀の際に、南方熊楠らの保存運動によって残され、現在はこの神社に奉納される
「野中の獅子舞」とともに、県の文化財に指定されています。
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参拝して、
とがの木茶屋へ

紅葉と藁葺き
屋根がよく似合
う。

さらに100m
ほどで秀衡桜へ






 秀衡桜
 (8:26)

















 (街道マップ 「中辺路」 継桜王子 〜 熊野本宮大社 その1) P.8, P.9


 35番標識
(8:34)
標識と道を挟んで
「安倍晴明とめ石」
が段上にある。

陰陽師の力で、山崩
れをこの石に封じた、
という。
腰掛けられるほどの
大きさ。民家の敷地内
にある。

 (8:39)
<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
中川王子跡

 天仁二年(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠は、十月二十五日
「仲野川王子」に奉幣し、建仁元年(1201)に後鳥羽上皇の参詣に
随行した藤原定家は、十月十四日「中の河」の王子に参拝しています。
承元四年(1210)に参詣した修明門院に随行した藤原頼資の日記
以降は、「中川」と書くようになります。この王子社は早く荒廃したよう
で、江戸時代の享保七年(1722)の『熊野道中記』には「社なし」と書
かれていて、紀州藩がその翌年緑泥片岩の碑を建てました。
明治末期にはこの碑だけの中川王子神社として、金毘羅神社(現、
近野神社)に合祀されました。
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新高尾トンネル(工事中)を過ぎて峠道を進むと、バス停の側に「小広王子」跡がある。
(9:07)
<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
小広王子跡

 天仁二年(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠は、十月二十五日に
「仲野川王子」に奉幣した後、「小広緒」「大平緒」を経て、岩神峠に向
かっています。また、建保五年(1217)に後鳥羽上皇と修明門院の参
詣に随行した藤原頼資の日記には、「大平尾」「小平尾」と書かれてい
ます。
この王子社は、「小平緒」「小平尾」に由来すると考えられますが、江戸
時代以前の記録に、王子としては登場しません。土地の人々が小広峠
の上に祀った小祠が、いつの頃か小広王子といわれるようになったと推
測されます。その跡地に紀州藩が享保八年(1723)に緑泥片岩の碑を
建て、明治末期には、この碑だけの小広王子神社として、金毘羅神社
(現、近野神社)に合祀されました。もとの小広峠が道路建設で崩されたため、王子碑はここに移されていますが、石碑の
上部が欠けて、「王子」の文字のみとなっています。
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写真:上左の小広王子バス停の先で、道は二股に分かれているのが微かに
写っている。
右方向の道をしばらく進むと、国道311号線を見下ろす位置があり、道路標識には、
「湯峰18km」とある。
しばらく進むと地道になり、左の写真のような石階のある古道に入る。

 40番標識を(9:08)に過ぎ、マップ中の拡大図のように町道をZ字型に曲がり
41番標識を(9:15)に過ぎた。









<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
熊瀬川王子跡

 熊瀬川の地名は、承元四年(1210)、修明門院の熊野参詣に随行
した藤原頼資の日記の五月一日条が初見のようです。この日一行は、
近露王子を出発し、熊瀬川で昼食をとり、本宮まで行っています。
寛喜元年(1229)の頼資自身の参詣では、十一月五日、同じく近露を
出発して、熊瀬川で昼食をし、湯川で宿泊しています。「熊背川」王子の
名は、鎌倉時代末期の『熊野縁起』(仁和寺蔵)にのみみえます。熊瀬
川の地名は、草鞋(わらじ)峠の登り口付近一帯をさしますので、王子跡
はこことするのが一応妥当でしょうが、その他の文献には見えませんの
で、小広王子と同じとする意見や王子社の存在そのものを疑問視する
意見もあります。
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熊瀬川王子から草鞋峠までは、マップ中「つづら折れの急な登り道」
と記されているように、けっこう勾配がある。
しかし、石段よりも土の坂道が多く、まだましな方か。

一里塚跡
 (9:27)









<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
草鞋峠
ここ草鞋峠(標高五九二M)は、西に小広峠、東に岩神峠をひかえ、谷川を渡っては
上り降りする相次ぐ峠の一つである。平安・鎌倉時代に、小平尾(小広峠)に接して、
大平尾と称されたのがこの峠のことかとみられる。江戸時代には、草鞋峠という名称
のほか、この峠の西側の坂は、熊瀬坂、東側の坂は女坂とも呼ばれた。この付近の
山道は、蛭降峠百八丁といわれ、山びるに悩まされた所だという。
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写真からも勾配のきつさが見てとれるだろうか。








 峠を越えると女坂(めさか)を下る。
マップ中に「つづら折れの急な下り坂」とある。

 女坂の途中、43番標識を通過する。 (9:40)










川沿いに走る林道と交差した後、写真のコンクリート橋を渡る。
そこにあるすこし平坦な場所が、仲人茶屋跡。
女坂と男坂の谷間にあるから、「仲人茶屋」ということらしい。
茶屋としては、川の側で大水の時以外は地の利を生かした茶店
といえるし、旅人の立場では、登り降りのきつい山道での一服と
いった場所だろうか。

この後に控える男坂は、本日一番のきつい登りだった。
仲人茶屋から岩神王子までの1.1km、約30分間の登り坂だ。






男坂の様子
見るからに
勾配がきつい。
道幅が30cm
くらいの所も
あり、ふらつい
て落ちないよう
に気をつける。









45番標識 (10:11)
このあたりでは勾配も
ゆるくなる。

細い道が斜面に沿って
いる。
岩神王子手前のビュー
ポイント。
景色に見とれて
落ちないように。




岩神王子 (10:19)
<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
岩神王子跡

 天仁二年(1109)熊野に参詣した藤原宗忠は、十月二五日に「石上
(いわかみ)の多介(たけ)」(岩神峠)にあった王子社に参拝しています。
この時、社辺には「田舎」(地方)から熊野に参る途中の盲人がうずく
まっており、宗忠は食料を与えています。王子社の名は、建仁元年
(1201)の藤原定家の日記には「イハ神」、承元四年(1210)の藤原
頼資の日記には「石神」とあります。江戸時代以降は、「岩神」と書かれ
ることが多く、小祠がありましたが、後期には荒廃して、『紀伊続風土記』
には、岩神王子旧址とあり、「社も印もないのに、毎年祭日にはそこに
神酒を供えていた」と記されています。明治十年(1877)王子神社
(湯川王子)に合祀され、この王子神社も後に金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。明治初年にこの岩神峠を通る道が廃道になったため、
王子跡は山林中に埋もれて、約百年間不明になっていました。
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 岩神王子から、つづら折れの急な坂を下り、46番標識を過ぎる。
林道と交差して、すぐにまたつづら折れの急な坂を下る。
47番標識を(10:33)に通過すると、湯川川に道が沿うかたちになる。

48番標識 (10:42))









 おぎん地蔵 (10:48)
着物を着た地蔵に屋根が
掛けられている。










<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

おぎん地蔵
 この地蔵には「妙安自楽信女、俗名おぎん」と刻まれ、文化一三年(1816)十月二九日がおぎんの亡くなった
日である。この女性は京都の芸者であったという。道湯川の豊之丞をしたってここまで来て、もうすぐ道湯川とい
う所で、二人組の追いはぎに襲われ命まで奪われた。土地の者がその死を哀れんで、地蔵をたて、おぎん地蔵と
呼ぶようになった。
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道中、地蔵はいくつもあったが、このおぎん地蔵だけは別格扱い。屋根は最近作られたものだが地蔵自体も
よく保存されていて着物姿がよく分かる。
俗名まで彫ってあったので、「何十年か前の人のお墓か」と思ったが、説明版を見つけてみたら、おぎん地蔵だった。
明治の始まりからさらに50年前のものにも関わらず、勘違いしたほど保存状態が良い。
土地のものがその死を哀れんでというが、もしかしたら、街道沿いのことでもあるし、怨霊になるのを恐れて丁重
に祀ったのでは、と考えつつもお参りする。

写真:左
左手が湯川川、崖に小道が
続いていく。

写真:右
一里塚跡 (10:59)












写真:左
マップ中拡大図の
湯川川を渡る橋の
上から。
蛇形地蔵は橋の手前
を反対方向へすこし
奥に行ったところ。
(11:08)

写真:右
51番標識(11:13)



湯川王子 (11:16)
<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
湯川王子

 永保元年(1081)十月、熊野に参詣した藤原為房は、「三階(みこし)
」(三越峠)の手前で、「内湯川」で浴びています。王子社の初見は、
天仁二年(1109)に参詣した藤原宗忠の日記の十月二十五日条で、
「内湯」王子に奉幣しています。建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇
の参詣に随行した藤原定家の日記には「湯河」王子、承元四年(1210)
五月、修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記には「湯川王子」と
あり、この頃から湯川王子の名が定着します。参詣の途上、ここで宿泊
や休憩することが多く、上皇・女院の御所や貴族の宿所が設けられました。
この地は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に勢力をふるった湯川氏
の発祥の地と伝えられ、応永三十四年(1427)九月に足利義満の側室
・北野殿が参詣した際には、奥の湯川を称する
豪族が兵士を従えて接待しています。
江戸時代には、本宮町の湯川(下湯川村)と区別するために、道湯川
(どうゆかわ)村と呼ばれ、王子は若一(じゃくいち)王子社と称しました。
明治時代には王子神社となりましたが、末期には社を残して、約十二キロ
離れた近露の金毘羅神社(現、近野神社)に合祀されました。もともと山中
の小村でしたが、昭和三十一年(1956)無人の地になりました。現在の
王子社の建物は、昭和五十八年に再興されたものです。
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藤原定家もここで宿泊した。
鳥居前に見える石柱は『皇太子殿下行啓の地』の碑。
ここにも足を伸ばされた。
湯川王子から800mほどの坂道を登ると峠にでる。


三越峠の休憩所
(11:43)
小屋の左側にくみ取
り式トイレ。
くさいぞお。









休憩所で昼飯にする。
向こうの山に懸かる雲が珍しい。
宿で用意してもらった昨晩の雉子釜飯おにぎり(手前の三角形)
を3個食べる。

約30分の休憩の後、12:08に出発

マップ中の拡大図にあるように、門を入って木々の
茂る坂道を下っていく。




<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三越峠

 ここ三越峠は、口熊野(西牟婁郡)と奥熊野(東牟婁郡)の境界で、その昔、熊野本宮へ参った人びとが、西の
湯川王子から東の音無川の谷へ越えて行ったところであります。古くは平安時代、永保元年(1081)の藤原為
房参詣記に「三階の人宿」、天仁2年(1109)の藤原宗忠参詣記に「三輿(みこし)の多介(たけ)」とその名が
あらわれ、また同じころの源役頼の「散木奇歌集」には、
 中宮亮仲実熊野へまいりけるにつかはしける

   雲のゐる みこしいはかみ 越えむ日は
   そふる心に かかれとぞ思ふ

という和歌がみられます。
 熊野へ参る人は、この三越峠で本宮へと流れる音無川をはじめて目のあたりに見るのですが、後鳥羽上皇の
正治2年(1200)の御集にみえる次の有名な歌はそのときの感懐を詠んだものと思われます。

   はるばると さかしきみねを 分すぎて
   音なし川を けふみつる哉

 中世には、本宮町の九鬼・八木尾谷とともに、三越峠に関所を置いて関銭を徴収したと伝えられ江戸時代から
大正のはじめまでに、ここに茶店が設けられていました。峠からは音無川へ下る本道のほかに、その右岸の尾根
を湯峰へ通じる赤城越の道があり、近世の西国巡礼などでにぎわったといわれます。
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 (街道マップ 「中辺路」 継桜王子 〜 熊野本宮 その2)  P.10 P.11


写真:左
 54番標識
 (12:18)

階段の急な下り
坂がつづく。

写真:右
 55番標識
 (12:25)




 マップ中「林道より分岐して急な石段を下る」とある分岐点。

 57番標識を(12:41)に通過。



 写真左下:
しばらくすると、紅葉した木々が並んだ川縁があり、日あたりがよい。
音無川を左岸から右岸へと小橋を渡る。






 58番標識
 (12:47)











 船玉神社
 (12:54)












 この季節、落葉樹の下を歩くと地面はふかふかだし、
日当たりはよいので見通しもよい。
それにしてもこれまでの山中の道すがら、この山も
向こうの山も針葉樹林ばかりだった。
古くは紀伊山地の山々はぶな、こならなど広葉樹林
であったが、大東亜線戦争後の復興の中で建材として
の杉、檜の需要に応えるために様変わりしたらしい。

木々の印象としては、「杉だらけ、植過ぎ(杉)けんしん!」
である。花粉症は都市部の大気汚染との複合と言う
説を信じていたが、こうして山地を歩いてみると、杉の
数が大きく増えているのが原因だと思った。
木の実のなる広葉樹林がこのあたりには見あたらない。
「熊野」といういかにも熊が多そうな土地にかかわらず、これじゃ熊に出会うこともなかろう。


 猪鼻王子跡
 (13:05)
山の斜面に石碑だけ
が残る。
斜面の道沿いにある。

定家はこのあたりに
のどこかで宿泊した。





写真:左
 60番標識のカーブ
道幅は狭い。

写真:右
 61番標識
登り坂







写真:左
木の根の坂道を登っていくと
鳥居が見えてきた。

写真:右
発心門王子 (13:21)
五躰王子社のひとつ。

バス停がある。
ここから本宮まで歩く手軽な
ショートコースも人気らしい。








参拝して、13:26
に出発。











 アスファルト道をしばらく行くと分かれ道にあたる。
マップ中では「ささゆりの看板を左折する」とあるが、
右折ではないかと思う。
右折すると新しい休憩所があった。
隣には水洗トイレも併設されていおり、小道を挟んで、飲料の
自動販売機もある。

集落に入り、田畑の脇の道を歩くと、わき水を動力源にした
案山子がおもしろい。
写真:左下 
 「45秒待ってください。かならずやります。」の看板。
じっと見ていると、万歳をした。



道路脇のキノコ栽培
を見守る案山子。
人間かと思った。










水呑王子
 (13:53)
ここまでくれば本宮まで
あと1時間半の道程。
予定より早く着けそうだ。








<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

水呑王子社跡
(和歌山県東牟婁郡本宮町三越1416の1番地)
 この王子は平安末期の藤原純忠参詣記に、「内水飲王子」とあるように、もとは内飲水といわれ、当時新しく
祀られてた王子でした。中辺路町高原の熊野道に古くから水飲という所があり、参詣人の宿になっていましたが、
それよりも本宮に近いこの地を内飲水と呼んだと思われます。
当地は鎌倉時代の参詣記にもその名がみえ、後鳥羽院御幸記には「王子二内水飲」、修明門院御幸記には
「内水飲において御小養」とあります。

 ここはもと三里小学校三越分校の敷地でありましたが、昭和48年7月本校に統合され廃校となりました。
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建物の脇から土の小道
を入っていく。

66番標識 (14:01)

ゆるい下り坂が1kmほど
続き、67番標識を14:08
に過ぎて、すぐに道は
アスファルト道路になり、
伏拝王子まで続く。




 菊水井戸 (14:16)
集落の中を歩く。
道路に面し、民家の敷地にある。

























小辺路はあの屏風のような山を越えるのか・・・・。
地元のおばあさんに挨拶ついでに、小辺路の方向
を聞いてみた。
 「なんもないとこやけど、都会はおそろしいところ
だから、わたしらよう住まん。」など世間話をする。
都会のような生活の便利さはないが、いい空気と
水がここにはある。
水はコンビニでも売っているが、清浄なこの空気は
都会では買えない。







伏拝王子にある休憩所
新しく清潔で、水洗トイレ
併設。
その向かいを登ると
伏拝王子跡がある。
(14:27)







写真:左
伏拝王子
笠塔婆、右手に和泉式部
の歌。


写真:右
遥拝所から本宮方面を
望む。





<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
伏拝王子社跡
     (和歌山県東牟婁郡本宮町伏拝茶屋)

この王子は熊野本宮まで約4kmの地にあり、東南の方向に熊野本宮旧社地「大斎原」が望まれるため、熊野
本宮遥拝所としての性格を有していたと思われます。しかし、創記は不明で御幸時代の記録には名がみえず、
享保15年(1730)「九十九王子記」には水呑王子の次に伏拝王子がみられます。
 徳川頼宣公が寄進したと伝えられる伏拝王子の石祠と並ぶ「和泉式部供養塔」は、笠塔婆の上に宝筺印塔の
塔身と蓋を積み上げたもので、延応元年(1239)8月の銘があり、三百町卒塔婆の一つではないかともいわれ
ています。
 この碑にはまつわる話として、和泉式部が熊野参詣の折、この地で月の障りちなり参詣できず、ここにて熊野
本宮大社を伏し拝み「晴れやらぬ身の淳き雲のたなびきて月の障りとなるぞかなしき」と詠んだところ、その夜
熊野の神が夢に現れ「もろともに塵にまじわる神なれば月の障りも何かくるしき」とのおつげがあり、喜んで参詣
したとの風塵集巻20の中に記されております。
 これは熊野権現が何事も心広く受け入れる神であることの事例として、聖たちが諸国に広めたものと考えられます。
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三軒茶屋跡とおぼしき
場所。
土産物があり、熊野口
関所の門の左手には

右 かうや
左 きみい寺
の道標がある。
ということは、右に折れる
草深い道が小辺路か。

関所をくぐり直進する。
(14:45)


ゆるい下り坂を進む。

72番標識を(14:55)に、
73番標識を(15:03)に通過する。

マップ中の拡大図にあるように、
石段を降りきると、住宅地の道路
に出る。

杉の影が長く伸び、日暮れが近づいた
ことを知る。


 祓戸王子
 (15:19)
もう、ここから裏参道の鳥居がみえている。

ついに本宮大社へ罷り来した。
定家のように感涙にむせぶことはないが、紀伊路、中辺路と
長かった道中を思い、しみじみと到着の喜びが、達成感とともに
身の奥からわらわらと伝わってくる。






<説明版>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
祓戸王子社跡
 (和歌山県東牟婁郡本宮町下祓戸1077番地)
 かつての熊野の山相をうかがわせるイチイガシやクスの大木が茂るのこ王子は、他の九十九王子が
熊野詣でにおける巡拝、休息、宿泊所であったのとは違い、むしろ潔斎所として熊野本宮へ参拝する
直前、旅の埃を落として身づくろいを正すための場所であったと思われます。藤原定家は「明月記」の中
で、「建仁元年(1201)10月16日払暁、発心門を出ず。王子ニ<内水飲、祓殿>、祓殿より歩み指し
御前に参る。山川千里を過ぎ遂に宝前を拝し奉る。感涙禁じがたし」とその喜びを記し、その後定家は
発心門から来られる後鳥羽上皇の行列を、祓殿王子で出迎えたとしております。
 なお、この王子名の表し方については史料によって変化しており、祓殿、祓戸、祓所等の文字が当
てられております。
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 本宮裏参道の鳥居


神殿の脇を通り回り込む
ようにして参道は進む。
千木高くそびえ、空を画
する鰹木が並ぶのも神々
しい社殿。







八咫烏の紋がはいった幟。
じつにキマッテいる。
拝殿の脇の門をくぐると
本殿にそれぞれ参拝できる。
ここから先は撮影禁止。

「甦る日本!!」の幕がいい。
ほんとに甦って欲しい。






 道中の説明版にもよく出てきた、後鳥羽上皇は、平安末期から源頼朝が幕府をひらく頃に天皇であった。
それは天皇親政の貴族の世が、彼らが一段下に見ていた武士達による世の中に変わりつつあった激動に時期
にあたる。 いまいましい武士どもを押さえつけ、もとの世に戻すことを祈願するために、この難行苦行の道
を何回も歩んできたのではなかったか。
「和歌を詠む」というのは風流な行為だが、井沢元彦の言う「言霊」、すなわち言葉を発すればそれは力を
持ち、現実化する、という感覚が往時には確かにあったと思えてならない。
 途中の王寺社で歌会をたびたび催しているのは、土地の神を言祝ぎ、道中の安全を祈ると同時に、天皇
・貴族の世の中に戻るように、言挙げしていたのではなかったか。

 後鳥羽上皇は鎌倉幕府草創のころから院政を始め、幕府の内紛に乗じて政権回復を計画したのが、
承久の変(承久3年・1221)であった。
西面の武士を設置し、僧兵、反北条勢力を集めるなど、倒幕の準備に10年以上の歳月をかけた上皇は、
いよいよ、北条義時追討の院宣を発し、新興武家勢力と全面対決を計った。
しかし、時代の流れはもやは変えようもなく、鎌倉を発した、北条泰時、時房率いる20数万の兵力に敗北
してしまう。
この結果、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐へ流された。
その上、院側の所領3000余箇所は没収され、御家人に配分され、経済的な基盤を失ってしまう。

 日本史の流れの中では、後鳥羽上皇と、この承久の変は、天皇・公家の世の中から武士の世の中へ逆転
していく大きなターニングポイントであった。

 平安時代から鎌倉時代にかけて、天皇、上皇、法皇の熊野参詣はそれぞれ回を重ねていて、どうして
こう何度も参詣するのか、現代人の旅行や物見遊山の感覚からは分かりにくいかもしれない。
あれは、世の中の流ををひっくり返して元の天皇親政の世の中へ戻すという祈願の旅ではなかったか。

その甲斐無く、鎌倉、室町と時代を下るにつれて武士が世の中を動かすということは決定的になり、
江戸時代には幕末以前まで、皇室、公家は微力なままに置いておかれた。
だから、皇太子殿下が皇族として七百数十年ぶりに熊野参詣されたということに、新鮮な驚きを感じ、
日本の歴史の重層さに感動すら覚えるのである。


熊野本宮大社
伊邪那美大神・熊野牟須美大神、伊邪那岐大神・速玉之男神、家津美御子大神・素盞嗚尊、天照皇大神
それぞれ第四殿まで、二礼二拍手一拝して、札授与所にて以下の品々を授かる。












熊野午王神符(誓紙)はもちろん。
八咫烏のアイテムも押さえておきたい。










 宝物館は規模は小さい。
大斎原で本殿が流された
のがいかにも残念。
三社のうちで、もっとも宝物
館の規模が大きいのが速玉
大社、那智大社はそれに次ぐ。








表参道の鳥居脇に、八咫烏の大きな幟がある。壮観なながめ。
いや、じつにまったくありがたい、と古道歩きの達成感の余韻さめやらぬ
うちに本宮大社を後にする。

現在、15:57。日没まであと一時間ある。
すぐそばのバス亭からあと五分以内に湯峰行きのバスが出る。
バスで行ってしまうか、それとも本宮から湯峰までの大日越を歩くか、
迷いながらも、足はバス停を離れ山の方へ向かう。





中辺路はここで終わり。





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  大日越 熊野本宮大社 〜 湯の峰温泉

 (街道マップ 「中辺路」 大日越) P.13


 大鳥居をを越える
のが本来のコースだが、
国道168号線を南へ。

途中、元々河原にあった
社殿へ通じる鳥居を横
に過ぎる。








石垣を上がる階段が大日越えのルート。
大日越登り口 (16:15)
石段を上がって左に曲がり直進するとまもなく急な石段の道。

写真:下
マップに「急な登り坂が月見ヶ丘神社まで続く」とあるように、
本当に急な坂だ。 中辺路を歩いて、余力があると思っていたが
かなりきつい。日が暮れかけて、冷えてきたのでウインドブレーカー
を着ていたが、汗が噴き出し途中で二度ほど立ち止まりつつ登る。
ただし、石段の自然な雰囲気は古道の風格十分で、発心門王子から
歩くのなら、こちらの大日越えの方が雰囲気はある。
























月見ヶ丘神社

神社かどうかもよく分か
らないうちに、先を急ぐ
ペンライトは持参している
とはいえ、この山道で真っ
暗になるのは、まずい。

急な登りもようやく穏やか
になる。





日は山の端に沈んで
いるうえに、木が茂り
すでに薄暗い。

2番標識(16:44)

女坂はじめ、上り下りでステッキを持っていた手の反対側の
足(左膝)が痛む。
それをかばいつつ歩く。





写真:左
鼻欠地蔵 (16:45)

光量が少なく、写真も不鮮明。

写真:右
3番標識 (16:53)








やっと、日のある内に湯峰
王子に到着。 (17:05)

そこから湯の峰温泉街が
みえる。









<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

湯峰王子
 熊野詣は、昔も今も人生の日常と永い未来とに恩恵を仰ぎ、光明を観い出そうと願って続けられている。
殊に平安王朝の頃、上皇、女院がこの信仰のもとに、険難を越えて参詣されたのが、史上有名な「熊野御幸」
である。その途中休息されたところが、今に跡を残して「熊野九十九王子」と称せられている。その一つがこの
「湯峰王子」でかつては、熊野本宮大社の末社となっていた。現在では毎年春の例大祭の前々日、4月13日
に「湯登神事」が古式豊かに行われている。
「湯登神事」は4月15日の例大祭に先立ち、13日早朝、宮司、宮総代、役所等と華麗な赤地錦の装束をまとい
巴紋の小太鼓を抱いた稚児(三才男児8人から10人)がたくましい若者に肩車されて、行列を整え古神歌を謡い
つつ、熊野本宮大社から湯峰に至り、温泉に浴して身を清め、この社前に登り古式に習って八揆神事を修め、
古道を通って、大日峠を越え、途中大日社前でも同様の神事を行い、大社まで帰って翌日からの大祭を無事
奉仕できるよう祈念する行事であります。
和歌山県無形文化財となっている。
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 大日越えの道は、つぼ湯の後ろ
から温泉街に入る。

 本日の宿は、民宿「瀧よし」


湯の峰温泉の宿の一覧のページ
から探した。








つぼ湯から徒歩1分、
バス停あたりから撮った
瀧よしの写真。

3階の部屋。
とりあえず荷物を置いて、
つぼ湯のある公衆浴場へ
開いているかトライした。

道路を渡って浴場へ。





開いていました。
つぼ湯はすぐ入れる、
と番台で聞きまずはつぼ湯。

つぼ湯に入るのが本日
の目標の一つだったので、
これで言うことなし。

室町時代からつづく河床
の温泉。
硫黄の香りがほのかに漂う。



<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
小栗判官物語

 常陸の国の小栗判官は、相模の国の郡代、横山将監の一人娘で東国一の美女と誉れ高い照手姫と恋に落ち、
父横山の許しを得ず婿入りする。
小栗は、横山の怒りにふれ毒殺される。
地獄に落ちた小栗は閻魔大王の計らいにより餓鬼の姿でこの世に戻される。
その後藤沢のお上人様のお導きで照手と再会「耳も聞こえず 目も見えず、物も言わぬ」餓鬼の身になった小栗は、
照手の引く土車に乗せられ紀州熊野 湯の峰温泉を目指し苦難の旅を続ける。途中、善男善女の助けを受けながら
藤沢を出て四百四十日で湯の峰温泉に辿り着く。熊野権現のご加護と薬湯の効あって、つぼ湯に浴するうちに奇跡
が起こり、四十九日にして小栗は見事に元の姿に回復する。
 照手の情愛に支えられ、熊野で蘇生した小栗判官の物語は室町時代のロマンとして今日まで語り伝えられている。
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入浴料金 750円で、
つぼ湯の他に、一般浴場
か薬湯のいずれかに入れる。

薬湯ののれんをくぐってすぐ。
男女別のお風呂に分かれる。
湯船はさほど広くない。
つぼ湯よりも硫黄の臭いは
薄いが、いかにも効きそうな
薬湯の泉質を感じる。





 入浴料金
一般公衆浴場 250円
くすり湯     380円
つぼ湯     750円
営業時間 6:00 〜 22:00

 番台で手ぬぐいをもらった。
 * つぼ湯薬、薬湯ではシャンプー、石けんの使用は禁じられている。
   使いたかったら、一般浴場へ入ること。
   たまには、体を洗剤で洗わずに、温泉に浸かるという入り方も本格的で良いのではないか。


無事中辺路を踏破できたし、
念願のつぼ湯で汗も流し、
充実感と達成感の中での
夕食はまたひとしお。
瀧よしは一階が料理屋に
なっていて、そこで食事を
する。
たとえ一人でも、ビールが
うまい。料理も本格的で、
おいしかった。




民宿というと、人の家でご厄介になるイメージがあったのだが、民宿「ちかつゆ」といい、この「瀧よし」といい、
旅館との違いは、蒲団を敷きに来てくれるかどうかだけだと結論するに至った。 あの布団敷きは要らない
サービスだと思っていたので、今後は民宿をもっと活用しようと思う。 ちなみにこの瀧よしも二食付きで
9、000円。
しかも、建物は新しく、おそらく湯峰温泉街でもっとも新しくきれいな宿ではないだろうか。
部屋も清潔でロケーションも申し分ない。実にいい宿を選んだものだ。


本日の計測 OMRON
  歩行距離: 37,646歩 / 15,835 歩 (しっかり)
  消費カロリー 1,297Kcal   消費脂肪 77g

ヤマサ万歩計: 17,165歩 / 609.4Kcal 。。。。 やっぱり坂道の計測でセンサーが追いついていない。

近露のスーパーで買って、昨日飲まずに持ってきた500mlビールは窓際に置いておくとちょうどいい具合
に冷えて、おつまみと一緒に晩酌を楽しんで寝た。


明日は、朝8:40分のバスで、新宮へ行き、さらに那智大社へと参拝に行く。


 翌日へつづく





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