第 36回 中辺路  稲葉根王子(西牟婁郡上富田町) - 近露(西牟婁郡中辺路町)   2004年11月30日


 本日はいよいよ人里を離れる。一気に近露までいかないと、
途中の補給は期待できず、バスで退避することもできない。
しかも近露にはあの妙に気になる牛馬童子像を日のあるうちに
撮影したい。 資料や地図で想像してきたコースだが、実際の道
はどうなのだろう。 期待をふくらませつつ5:50に自然に目覚めた。

ホテルの朝食は7時からで、ホテル近くのJRバス「鶴ヶ丘」からは
7:03の栗栖川行きに乗る予定にしている。
 バス時刻表
買っておいたサンドイッチとドーナッツで朝食を済ませ、フロントへ。
チェックアウトをお願いすると、¥6、300の合計という。
夕食にとったビール付きビジネスステーキ¥1,800が加算されていない。
その旨を申し出ると、「レストランから伝票が回って来ていない」という。

数分、あれやこれやと責任者の人もでてきたが、後で請求してもいいか
というので、旅行の途中なので「今払いたい」と言うと、「今回はお支払
いは結構です。」という。バスの時間も迫っており、丁重にお礼を言って、
ホテルを後にする。
ということで、一泊夕食付きで¥6,300となった。これも熊野権現の
思し召しか。 お賽銭で返そう。紀伊路を歩いて思ったが、和歌山の
人ってとても親切だ。
 さっそく食事伝票の紙(?)隠しという霊験が現れ、さい先の良さに気を
良くしつつ、バスは昨晩のバス停、一ノ瀬橋に7:28に到着した。
日は昇っているが、まだ山の端から顔を出していない。
通学の小学生と挨拶を交わしながら一ノ瀬王子へ向かう。
(西牟婁郡上富田町)


 2.稲葉根王子〜滝尻王子

 一ノ瀬王子
(7:45)











<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

一瀬王子
 建仁元年(1201)十月十三日、藤原定家は、徒歩で「石田川」(岩田川=富田川)を渡り、この王子に参拝しています。
平安・鎌倉時代の熊野参詣では、岩田川の瀬を何度も渡り、滝尻まで行きます。最初に渡るのが一の瀬です。天仁二年
(1109)に参詣した藤原宗忠は、十九度も渡っており、上皇や女院も徒歩で渡ります。この川で身を清めるためです。
 「女院が渡るときは、白い布を二反結び合わせて、女院が結び目を持ち、布の左右を殿上人が引いた」と、応永三十四年
(1427)に参詣した僧実意は日記に書いています。その後、この王子社は荒廃し、江戸時代に再興されて、市瀬王子社、
別名、清水王子・伊野王子などと呼ばれていました。明治時代に春日神社に合祀されましたが、昭和四十四年(1969)に
現在のように整備されました。
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富田川を上流の方向へ向けて、右岸を歩く。県道219号線で、
途中、大塔村へ入る。
マップでは加茂橋で左岸に渡る。左の写真の上流の先に微かに
見えているのが加茂橋。
次の王子社は鮎川王子だが、これは、また右岸に渡る鮎川新橋
のたもとにあるので、時間を節約するときには、マップ中のピンク
色のコースを近道してもよい。







 加茂橋の上から上流方向を望む。
これからあの山々を越えて行くわけだ。

加茂橋から鮎川新橋の区間はとくに見所はない割に登り道が
続き、道に迷って墓地まででてしまった。
マップ中にコンビニマークがあるが、これはオレンジの導線上にはなく、
結局、バンドエイドの補給もできずじまいだった。







マップには無い、千人供養塔。
山が迫る住宅街の山際の道を歩く。












<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
鮎川王子  (8:37)

 藤原定家は、建仁元年(1201)十月十三日、この王子社に参拝し、
日記には「アイカ王子」と書いています。鮎川王子と記されているのは、
承元四年(1210)に熊野に参詣した藤原頼資の日記です。アイカも鮎
川も、合川(川が合流するところ)に由来するようです。頼資は修明門院
に随行して熊野参詣をしたのですが、鮎川付近で済南に遭遇しました。
四月二十八日、大風雨の中、田辺を出発した一行は、石田河の一の瀬
を渡ったころから、川が増水しはじめ、頼資は鮎川王子に辿り着きますが、
六の瀬の付近で溺死者が出たのです。随行した公卿の従者九名が命を
落とし、女院も急遽予定を変更して、真奈子(中辺路町真砂)に宿泊して
います。江戸時代には王子社といわれ、拝殿を備えていましたが、明治
時代に住吉神社に合祀されてました。跡地は、その後、崩壊して原形を留めず、石碑が建つのみです。
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鮎川新橋を渡り、富田川
の右岸にもどる。
支流の内ノ井川を渡り、
大塔村役場を右に見なが
ら、マップ拡大図に従って
進むと住吉神社がある。
(8:48)着
参拝
(8:53)出発






忠魂碑にも参拝。する












(9:12)

写真:左  御所平
柵のある小道を上がる。


写真:右 お薬師さん
穴の開いた石を奉納する
と、耳の病に霊験がある
という。

御所平の一段上にある。


<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 御所平

 永暦元年(1160)後白河上皇は十月二十三日から一ヶ月間に及ぶ旅
が熊野御幸の初めであったといわれている。
嘉応元年(1169)に法皇となり建久二年(1191)まで三十回あまり御幸
されている。御所平は熊野詣の道筋にあり後白河法皇の頓宮(仮の御所)
があった場所といわれている。
 下を流れる岩田川(富田川)の瀬を御所の瀬と呼んでいる。
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藤原定家歌碑
(9:14)

「そめし秋を くれぬとたれか いはた河
          またなみこゆる 山姫のそて」







<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 建仁元年(1201)後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉した歌人、藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」がありますが、
十月五日に京都を出発し先陣として各宿所に入りながら、十二日目には「御所は美麗にして川に臨み、深淵あり」
という田辺御所に入り、開けて十三日、展明に御所にまいり、早出して秋津王子、丸王子(万呂王子)、ミス王子、
さらに八上王子、そして昼には昼養宿所である稲葉根宿所で休息し、石田(いわた)川(富田川)で水垢離をしな
がら、一ノ瀬王子へ参り再び石田川を渡ってアイカ(鮎川)王子を拝して十三日の宿所である瀧尻王子へと歩を
進めています。
鮎川王子から瀧尻王子までの道程を「河の間の紅葉の深浅の影、波に映じ景気殊勝なり、次に崔嵬(さいか)の
険阻を昇瀧尻宿所に入る」と記され、夜の歌会では、河辺の様子を
     「そめし秋を くれぬとたれか いはた河 またなみこゆる 山姫のそて」と詠んでいます。
 今は河辺まで植林されたり、道路も施設され様子が一変しておりますが、古道を辿って行くうちに所々に往時の
面影を残す岩場や道へ施石された箇所が目にできます。
 田辺から瀧尻までの行程を一日で歩くことは大変だったのでしょうが、河を渡ったり王子で休息したり、河辺の
景色に見とれながらの旅も又それなりの趣があったことでしょう。散策される一時、往時の面影を思い浮かべな
がら、楽しんでいただけらと思います。 (大塔村教育委員会)
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 富田川の右岸を
進むと、 「念仏沼と
鮎川温泉」の案内板
がある。








<説明版>−−−−−−−−−−−−−−−
 川向かいに念仏沼と鮎川温泉があります。
後白河法皇が三十余回熊野に御幸されているが、
法皇は持病の頭痛で困っていたとき、熊野の神が
夢枕に現れ前世のどくろが岩田川(富田川)に沈ん
でいて、どくろに松の根が入り水の流れに松の根が
ゆれてそのたびに法皇の頭が痛むのでねんごろに
くようするようにとお告げがあった。
さっそく供を連れて熊野に向かった。
淵のところで急に頭が痛くなったので阿闍梨を呼ん
で祈祷すると淵の底から松の根が刺さったどくろが
みつかり頭痛がすっかり治った。
 熊野へ詣る人々が淵のところで念仏をとなえると、
仏、仏、と淵の底から仏様の名が聞こえてくることか
ら念仏淵の名が付いた。 淵の付近を掘って出たの
が鮎川温泉の始まりであり温泉で炊いた黄金めしが
有名です。
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茶屋の壇とふるさとセンター
案内板があり、テーブルが
ふたつ据えられている。
(9:28)











国道311号線の蕨尾橋
の下をくぐる。
(9:34)

ところどころ道幅は30cm
くらいになっている。
道標がしっかりしているの
で道には迷わないだろう。
滑り落ちるとそのまま川へ、
という箇所もあり、注意して
歩く。


<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−
オオウナギ生息地域指定境界
 オオウナギは熱帯性のウナギで富田川は北限の生息地と
いわれ鮎川付近で1.7m 重さ28kgのオオウナギが保護さ
れた事がある。
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川の景色も美しく、落葉樹がもっと多かったら絶景の場所だろう。
雨の日は足下が悪くなり、柵も無いので歩くのには向かない。
夏場など、あの恐怖の”くちなは”と万一出会ったら、逃げられな
いな、と考えつつ歩いた。



蕨尾橋からはマップにも
「急な登り坂」とあるように、
確かに急な坂だった。
川から3mほどの位置を歩い
ていたのが、登りきるとこの
高さだ。








新旧二体庚申塔

このあたりでは、勾配もやや緩くなるが、山の斜面の細い道になっている。
遙か崖下に国道311号線が平行して走っているが、恐ろしいほどの急勾配
で、柵が道沿いに設けてある。

まもなく、細道は下り坂となり舗装道路に合流する。
「工事中 全面通行止め」の標識があるが、徒歩ならなんとかなるだろう、と
構わず進む。 工事の人に挨拶をしてアスファルトをめくった土道を歩く。
マップでは 北郡(ほくそぎ)バス停が目印にあるが、この区間が工事中で
バス停の位置は確認できなかった。



北郡橋
(10:00)
吊り橋である。
足下は板である。
結構高いのである。
こわごわと真ん中を
歩く。

写真右:右岸より写す。

写真左:橋梁上より
上流を望む。

 
 川の働きは「運搬・浸食・堆積」だが、長年の川の働きで川沿いの
地形は変わる。熊野詣を忠実にたどるなら、何度か川を歩いて渡り、
水垢離をしなければならない。
しかし、地形も変わってしまったし、あちこちに休息所がある訳でもなし、
有給休暇をとりすぎると、会社から無休無限休暇を給わりそう。
 時間に追われる現代人としては、今日の宿を目指して先へ先へと進む。

富田川の左岸へ渡ると、いよいよ清姫の里だ。
有田町の日高川では、蛇に化けた清姫をモチーフにした欄干が印象的だった。
紀伊路では、死後、怨霊と化し安珍を追いかける清姫にまつわる史跡が記憶
に残る。
 ここ、中辺路町真砂では、清姫が産まれ育った土地。


 清姫を祀る祠と地蔵。
少女の頃、清姫は長い黒髪を水面に揺らめかせてこの川で泳いでいたのだ
という。 見てきたわけでもないだろうが、周囲の風景を見ると、そういうイメー
ジもむべなるかな。 絶世の美女、清姫のイメージがわいてくる。
安珍も修行の為とはいえ、もったいないことをしたものである。

 しかし、へび嫌いの私にとって、それが怨霊であろうとなかろうと、大きかろう
と小さかろうと、追いかけられでもしたら、それはそれは恐ろしいことだ。

「どうか、へびに出会いませんように」とお参りする。




清姫茶屋
国道から向こうに見える橋を渡って、すぐにアクセスできる。
土日に通るなら、ここを昼食場所にするのもいいかもしれない。












 清姫茶屋からしばらくは、国道に平行して一段上がった道を歩くが、
ペットショップが見えるあたりで国道311号線に合流する。
ここから熊野古道館までの間は、柵で仕切られた歩道が整備されており、
徒歩でも心配はない。










 熊野古道館へは国道を離れ、橋を渡る。
写真右手の多角形の茶色の屋根が熊野古道館。
(10:47)到着。

古道館と道路を挟んで五躰王子のひとつ、滝尻王子がある。
境内にはテーブルのある休憩所、土産物屋がある。
熊野古道館の建物の外にはトイレもある。


 滝尻バス停から中辺路を歩き始めるコースも定番のひとつだが、
11時ごろ、ここを出れば16時〜17時に近露の宿に入れる。



 瀧尻王子












<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
滝尻王子

 この王子社は、岩田川(富田川)と石船川が合流する地点にあり、ここから本宮
まで厳しい山道となります。天仁二年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月
二十三日に水を浴びて禊をした後に、この王子社に参詣していますが、日記に「初
めて御山に入る」と書いているように、滝尻からが熊野の霊域とされていたのです。
 承安四年(1174)に藤原経房がこの王子に参拝したときには、社殿で巫女が
里神楽を舞い、建保五年(1217)の後鳥羽上皇と修明門院の参詣の時には、
両院が馴子(なれこ)舞いに興じているように、いろいろな芸能が奉納されました。
特に著名なのは、後鳥羽上皇が歌人を随行させたときには、この王子社の宿所で
歌会を開いたことです。建仁元年(1201)に藤原定家が随行した際に、めいめいが
和歌を書いた「熊野懐紙」は一枚も残っていませんが、前年の正治二年(1200)の
ものは十一名の分が伝来しており、そのすべてが熊野古道館に複製展示してありま
す。鎌倉末期以降、熊野の御子神五所を祀る五躰王子の一つとされ、室町時代にも
そのように呼ばれていますが、三栖(田辺市)から潮見峠で栗栖川へ通じる道が多く
利用されるようになると衰退しました。明治時代には村内の神社を合祀して十郷
(とごう)神社と呼ばれましたが、現在は滝尻王子宮十郷神社と称しています。
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土産物屋では軽食が売ってあり、目はり寿司弁当を期待していたが、
ちらし寿司しかなかった。やはり弁当は事前に用意しておいてよかった。

おみやげを買う。
・熊野九十九王子絵巻。 縦11.5cmの小さな巻物。(¥1,260)
・牛馬童子のタオル (¥300)

 まだ風邪の病み上がりなのに、これから山へ分け入るので、
ファイト一発! リポD (¥130) ちょっと安いぞ。



















写真左:熊野古道館内

写真右:展示品
かつての御幸の様子。

館内で弁当を使わせて
もらう。
展示資料、映像資料など
興味あるものなので、じっ
くり見て回りたかったが、
先を急ぐ旅なので残念。



 4.滝尻王子〜継桜王子


45分休憩の後(11:32)に出発



 滝尻王子の裏の山道へつづくが、
急な坂道がいきなり始まり面食らう。
ここから歩き始める人は、この先を
心配するだろう。
 しかし、坂道、峰道、下り坂、いろいろ
なのであきらめずにがんばって欲しい。

写真:右 胎内くぐりの岩
子宝に恵まれるらしい。






 木の根の階段になっている坂道。
石段よりもずっと歩きやすい。ただし引っかかって倒れないように。
古道の雰囲気がある。

 不寝(ねず)王子  (11:47)

各王子社趾にある緑泥岩の石碑は
紀州藩が設けた物。









<説明版より>−−−−−−−−−
 不寝王子

 中世の記録には、この王子の名は登場しません。王子の名が載せ
られているのは、江戸時代、元禄年間頃に著された『紀南郷導記』です。
これには、ネジあるいはネズ王子と呼ばれる小社の後があると記され、
「不寝」の文字があてられています。
この頃すでに跡地となっていたようで、またネズの語源も明らかではあ
りません。江戸時代後期の『紀伊続風土記』では、「不寝王子廃趾」と
なっており、今は滝尻王子社に合祀されていると記されています。
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写真:上左  1番標識
 500m置きに杭にしつらえた標識が本宮まで案内する。
近露が26番標識の先、本宮は75番標識の先である。

 写真には標識もできるだけ写るようにアングルを選び、マップ中のコースと標識
番号を照合すると、そのあたりの道の様子や風景が分かるように心がけた。

マップにも「急な登り坂」とあるが滝尻王子から2番標識までは、確かに急な坂である。
途中、2回ほど立ち止まって汗を拭いた。
12月にはいったばかりで、朝は8度くらいとすこし肌寒いが、日中は17度くらいになる
陽気である。 平地を歩いているときは、シャツだけでちょうどいいくらい。
しかしこの山道を登り始めると腕まくりをして、額からは汗が流れ落ちるので、手ぬぐい
で鉢巻きをした。





 2番標識
 (12:05)
 ここらでようやく登り坂もおわり緩やかな勾配になる。











写真:左 剣ノ山経塚跡

塚跡を過ぎると平坦な尾根道になる。青空が頭上に広がり、麓を見下ろし
実に気持ちいい。
椿の花の赤色と、空の青色のコントラストが美しい。









 3番標識
(12:17)
















紅葉の時期だが、山の大半
は杉、檜などの常緑針葉樹
で、落葉樹は少ない。



西北西の方向へ山並みを
望む







階段の下り坂をおりる。
 4番標識
(12:25)










石畳の下り坂をおり、林道
を横切り、一段高い土道を
行く。


 5番標識
 (12:33)







 針地蔵尊



山裾の景色を見ても分かる
ように、わずかの間にここまで
標高が高くなっている。
マップで見ると滝尻から1.6
kmで、標高が300m以上
高くなっている。




まっぷにある、「急な木の階段の登り坂」。
本当に急だ。 息が切れる。
鉢巻きの手ぬぐいは汗でびっしょり。

登り切ると、テレビ塔があり、その先に
 6番標識がある。 (12:47)

道をさらに行くと集落に入る。
























 集落へはいったあたりから山々を望む。
2,3軒の家の庭先に接した道を進むと集落となった。
尾根沿いに集落は、麓との往来がたいへんなことだと思う。

 7番標識 (12:55)
を過ぎて、しばらく集落を歩くと、「山小屋連絡所」とあり、利用者がここで
届け出るとビバークできるような施設もあるらしい。
 このあたりは、地図で確認すると、西牟婁郡中辺路町高原。
山の裾野の方に中辺路町役場がある。

 集落内にある 高原熊野(たかはらくまの)神社
朱塗りと苔むした桧皮葺の屋根の緑色が美しい。


高原熊野神社
(12:57)













 神社の前の道あたりからアスファルト道路になり
休憩所へと向かう。

写真:左下 高原霧の里休憩所
名前の通り、まさに高原の景色。見晴らしよし。
建物の中はテーブルがあり自由に休憩できる。
壁の写真は、皇太子殿下が熊野古道を歩かれた
時の写真である。
『ようこそ皇太子さま、 皇族として711年ぶり
熊野古道に』と数年前のキャプションがついている。

そうか! 七百年ぶりの御幸である!
皇太子殿下、偉い!!
秋篠宮様も「鯰がいるかも」と聞いたのか、ご夫妻
で来られた。


休憩所の前は広い駐車場
になっており、車できた人が
2,3組、歩きの女性が二人
だけだった。

飲み物の補給はここが最後
となる。







写真:左
 旧旅籠通り
石畳で舗装してある坂道。

写真:右
段々畑から山並みを望む









立派な鶏が道ばたで草を
ついばんでいた。

「古道散策のみなさまへ」
 ここより近露まで民家が
なく連絡の方法がありま
せん。
所要時間は約四時間です。
の掲示板。




 一里塚
(13:26)

 9番標識
 (13:27)
石畳が所々に残っている。








 11番標識、そのすぐ
先が大門王子 (13:46)

初めて他の街道歩きの人
と出会う。60代以上の人達
のパーティ。
挨拶を交わし、福岡から
昨日やってきた、とのこと。
私も実家は福岡なので、
奇遇ですね、と話をする。
今日の熊野古道は福岡
県人が占めるのか。

写真を写していただいた。
<説明版より> −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大門王子
 この王子は、中世の記録には登場しません。王子の名の由来は、この付近
に熊野本宮の大鳥居があったことによるものと考えられます。鳥居の付近に
王子社が祀られ、それにちなんで大門王子と呼ばれたのでしょう。天仁二年
(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠は、この付近の水飲の仮屋に宿泊して
おり、建仁元年(1201)に参詣した藤原定家も、この付近の山中で宿泊して
います。江戸時代になって、享保七年(1772)の「熊野道中記」に、「社なし」
としていこの王子の名が見え、紀州藩は享保八年(1723)に緑泥片岩の石
碑を建てました。この王子碑と並んで、鎌倉時代後期のものとされる石造の笠
塔婆の塔身が立っています。以前には松の大木がありましたが枯れてしまい、その後朱塗の社殿が建てられて、この王子跡付近の様相は一変しました。


 マップある「登り坂」。

10番標識
(13:27)











 左手には林が途切れ、
視界が広がる。
山々の景色が雄大で美しい。

高原池までの登り坂を行く。








 11番標識 (13:46)
登り坂を進むとまもなく
十丈王子

登り坂を行き十丈王子で、
腰を降ろして休憩している
と、さっきの福岡のパーティ
の方が追いついた。
蜜柑をいただいく。





 <説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
重點(十丈)王子
 この王子社は十丈峠にあり、現在は十丈王子と呼ばれています。
しかし、平安・鎌倉時代の日記には、地名は「重點(じゅうてん)」、
王子社名は「重點王子」と書かれています。天仁二年(1109)十月
二十四日、藤原宗忠は熊野参詣の途中、雨中に重點を通っています。
重點王子の名は、建仁元年(1201)十月十四日、後鳥羽上皇の
参詣に随行した藤原定家の日記に初見しています。
また、承元四年(1210)に、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参に
随行した藤原頼資も、四月三十日に「重點原」で昼食をとり、この
王子に参詣しています。江戸時代以降、十丈峠、十丈王子と書か
れるようになった理由ははっきりしません。かつてこの峠には、茶店
などを営む数軒の民家があり、明治時代には王子神社として
祀っていましたが、その後、下川春神社(現、大塔村下川下春日神社)に合祀され、社殿は取り払われました。
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写真:左
 小判地蔵
(14:28)
 マップに「道が細く右手
が崖になっているので注意」
とある場所。
20cm〜50cmの道幅。
雨天には避けたい道だ。

写真:右
15番標識
(14:37)


(14:33)

<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
悪四郎屋敷跡

 十丈の悪四郎は伝説上の有名な人物で、力が強く、頓智にたけていたとい
われる。悪四郎の「悪」は、悪者のことではなく、勇猛で強いというような意味
である。江戸時代の「熊野道中記」の一書に十丈の項に「昔十丈四郎と云者
住みし処なり」とあり、それがここだと見られている。背後の山が悪四郎山
(782m)で、ここから約三十分で登ることができる。
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ここでデジカメExilim−M1のメモリ(128MB)が一杯になり、バッテリーも
同じタイミングで無くなったのでそれぞれ交換する。

落葉樹のあたりでは、道に落ち葉の
絨毯がふかふかで歩きよく、しかも
陽が良く当たる。
山主からすると金になる杉・檜を植える
のだろうが、元々の木々であった落葉
広葉樹ももう少し残しておいてもらえると
ありがたいのだが。











<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三体月の伝説

 今は昔、熊野三山を巡って野中近露の里に姿を見せた一人の修験者が、
里人に『わしは十一月二十三日の月の出たとき、高尾山の頂きで神変不可
思議の法力を得た。村の衆も毎年その日時に高尾山に登って月の出を拝む
がよい。月は三体現れる。』
 半信半疑で村の庄屋を中心に若衆連が、陰暦十一月二十三日の夜 高尾
山に登って、月の出を待った。
 やがて、時刻は到来、東伊勢路の方から一体の月が顔をのぞかせ、アッと
いうまにその左右に二体の月が出た。
 三体月の伝説は上多和、悪四郎山槇山にもある。
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20番標識
(15:05)

このあたりが「板尻の谷」
21番標識
(15:20)

坂道を下っていく。






<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大坂本王子

 大坂(逢坂峠)の麓にあるところから、この王子社名が付いたようです。
天仁二年(1109)十月に熊野参詣をした藤原宗忠は、この坂を「大坂」
とし、「坂中に蛇型の懸かった大樹がある。昔、女人が化成したと伝えら
れる」と、日記に書いています。建仁元年(1201)に後鳥羽上皇の参詣
に随行した藤原定家は、十月十四日にこの王子に参拝しています。また、
承元四年(1210)に、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参詣に随行した
藤原頼資も、四月三十日にこの王子に参拝しています。江戸時代には
「大坂王子」「相坂王子」とも記され、寛政十年(1798)ごろには小社が
ありました。現在、跡地にある石造の笠塔婆は鎌倉時代後期のもので、
滝尻王子(もとは剣ノ山の上)や大門王子などにも同様のものがあります。
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 4.滝尻王子〜継桜王子


写真:左
 22番標識 (15:48)

写真:右
 「牛馬童子口バス停」の
ある道の駅がある国道311
号線と接する。
近露はもう近いが、陽のある
うちに牛馬童子を写真に収め
たいので、先を急ぐ。




 写真:左
 24番標識 (16:00)

 写真:右
 一里塚跡









 ついにやって来ました。牛馬童子。写真ではもっと大きいものかと思って
いたら、このサイズでした。
先にいる人に挨拶をして話をしていたら、役場の人だった。道標のわかりやすさ
など聞かれ、台風の大雨で土が減ったところへ土を入れる調査に来ている、
ということだった。
 稲葉根王子からこちら、道標は必要十分に整備されており、こうした役場の方々
のおかげで古道が守られている。 せっかくだから、と写真を撮っていただいた。








<説明版より>−−−−−−−−−−−−−

箸折(はしおり)峠の牛馬童子(ぎゅうばどうじ)

 箸折峠のこの丘は、花山(かざん)法王が御経を
埋めた処と伝えられ、またお食事の際カヤの軸を
折って箸にしたので、ここが箸折峠、カヤの軸の赤
い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」
と尋ねられたので、この土地が近露という地名に
なったという。こここの宝筺印塔は鎌倉時代の者
と推定され、県指定の文化財である。石仏の牛馬
童子は、花山法王の旅姿だというようなことも言わ
れ、その珍しいかたちと可憐な顔立ちで、近年有名
になった。そばの石仏は役ノ行者像である。
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しばらく牛馬童子像を眺め
ているうちに、また福岡の
パーティの方々が追いつい
てこられた。
このアップダウンの道をなか
なかの脚力である。




















 「秋の夕暮れは釣瓶落とし」のままに、丘から近露の町へ下っていくわずかのあいだに
日は暮れていく。夕焼けが向こうの山に照り、あかね色に染まっているのがなんともいえず美しい。
近露は日置川をの右岸の、山と山の間にあるこぢんまりした町だ。思ったより家の数も多い。

北野橋を渡るとすぐ左手に近露王子があるが、日も暮れかかっており、翌日に
参拝することにした。
Aコープでビールとつまみを買って、本日の宿、民宿「ちかつゆ」へ向かう。
近露王子からは、日置川(ひきがわ)の上流方向へ平行して進む道を徒歩、
3,4分程度の距離。
丘から見下ろしたときに、ホームページで見た「ちかつゆ」らしい新しい家が見
えた。

 16:50 宿へ到着。宿のご主人は丁寧で愛想よく、建物は清潔で新しく
牛馬童子で会った役場の方も、「あそこはいい宿ですよ」と言うだけのことは
ある。

     民宿「ちかつゆ」

 まず旅装を解いて、同じ敷地内にある天然温泉「ひすいの湯」へ入る。
他の民宿からの入浴に来ている先客が2人いたが、すぐに独占状態。
ぬるっとした感じのお湯で、いかにも温泉!効能ありそう!というものだ。
似た泉質のお湯で、伊賀街道で行った、加茂のささぎの湯の泉質と似ている。

 パック入りのシャンプーが部屋に置いてあり、これを使う。風呂には石けんが
置いてある。
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泉質: ナトリューム炭酸水素塩、塩化物泉(弱アルカリ性低張性低温泉)
浴用の適応症: きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病 




 そして、いよいよ晩飯。
温泉を使った鍋をメインに、付き出し(もろキュウ)、煮物、刺身、揚げ物
(ヤマメ)雉子飯(釜飯)のメニュー。
川魚のまるごとフライだが、これがまったく魚くさくない。香ばしくて、頭
からしっぽまで丸ごと二匹食べた。
料理はいずれも美味で、鍋を作ってもらいながら、明日のコースについ
て宿のご主人にアドバイスをいただいた。
ビールを頼むと、瓶ビール(大)が出てきた。快適な宿に、うまい飯。
今日一日の充実感と達成感もあり、実にうまい。
釜飯までは食べきれなかったので、明日のお弁当にとお願いしたら、
快くおにぎりにしてもらえることになった。



六畳部屋を独占。
本日の泊まり客は私の他に、
大阪から来た女性二人づれ
の二組だけ。
洗面室にはコインランドリー
もあった。
知っていれば、ここで洗濯を
する予定で、下着の枚数を
減らせたのに。
洗濯¥200、乾燥機¥100
洗剤は洗濯機の下に箱ごと
置いてある。


 明けて12月1日。
朝食は古道歩きの人の為に
6時すぎからにして頂いた。
6:20には食事ができた。
ビニールに入っているのは
昨晩お願いしたおにぎり。
お茶もペットボトルに入れて
いただいた。

盆地の気候のため、朝霧が
たちこめ、幻想的ないい感じ。



 チェックアウトする。一泊二食(昼のおにぎりを入れると3食)とビールで
¥9,600。 しかも天然温泉もあって、コインランドリーもあって、設備は
充分。 昨晩買ったナイトキャップ用のビールは結局飲まなかったが、
入り口の飲料自動販売機にはちゃんとビールもある。

近露で泊まるなら、この民宿「ちかつゆ」がいち押し!


 本日の歩行データ: OMRONでの万歩計では、
  歩行距離:   28.9km  / 36,159歩/19,174歩(しっかり歩行) 195分
  消費カロリー:1,255Kcal / 消費脂肪 74.9g

 以前からの万歩計では、17,239歩/648.9Kcal
 なんだこれは、半分ではないか。 おそらく不規則な歩幅で山道を登り降りしたのをカウント
 していないものと思われる。センサーに問題アリ。



つづく


更新: 2021/5/24 リンク切れ修正