第 26回 東高野街道 交野市星田 - 羽曳野市古市   2004年9月6日
















  昨日に引き続き東高野街道をJR星田駅より繋げる。
歴史の道調査報告書に附属の地図は、下記にリンクしているが、
実際には、この地図を元に、3万分の一の文庫版地図へ事前にマーカー
で街道ルートを書き写しており、それを道中の参考にしている。
今回のコースでは、左図の2,3,4の地図中の街道を歩く。
 高野街道地図 1 (参考)
 高野街道地図 2
 高野街道地図 3
 高野街道地図 4

 高野街道地図 5 (参考)
 高野街道地図 6 (参考)
 高野街道地図 7 (参考)




 JR学研都市線星田駅
 に9:07到着。
この日も真夏の暑を思わ
せる天候だった。

駅の直ぐ南側で二股に
道が分岐するが、右側
の道を進む。

寝屋川市寝屋を交野市
との市境に沿って通る。





 府道20号線に出たら、
200mほどで、道路の
南側を蛇行しながら再び、
20号線を横断して、JR
東寝屋川駅の北側に出る
道をとる。


写真:右)道の左手に
常夜燈






寝屋川市寝屋
















暑いけど、秋の空。

20号線を打上に合流
して、200mほどで左の
蛇行する道へ入る。


























 寝屋川市打上の
弘法井戸(弘法観念水)
府道20号線が分岐する
地点から約30m南側
に位置する。











 −−−−  弘法井戸  説明版より −−−−−−−−−−−−

 東高野街道の道端にあり、土地の人々が「弘法井戸」と呼び親しんで
いるのがこの小さな井戸です。
そばに、「弘法観念水」と刻んだ小さな石柱が建てられています。
水への感謝と弘法信仰が結びついたものでしょう。
 この井戸は、いくら日照りが続いても涸れることはなかったと語り継がれ
ています。
 高野山へ通ずるこの街道は、古くから弘法大師を信仰する人々の通行
が多く、街道そばのこの井戸は、行き交う数多くの人々の渇きをいやした
ことでしょう。    寝屋川市
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そこからまもなく、四ツ辻に至る。



 JR東寝屋川駅へ向かう道の途中の道標
 
−−−− 説明板より−−−−−−−−
四ッ辻(東高野街道)
 ここ打上の四ツ辻は、南北に走る東高野
街道と東西を走る奈良伊勢道の交わるとこ
ろです。
ここに立つ道標には「東 なら いせミち」
「南 かうや のさき 大坂みち」
「北 京 八はた 柳谷 星田妙見道」と刻
まれています。
伊勢大社・高野山・柳谷観音などにお参りする
聖や善男善女を案内したことでしょう。



 また、東面に「安政四年巳正月 為父母
 施主酒勘」と刻まれており、この道標は、
安政四年(1857年)に酒屋の勘兵衛さんが
父母のために建立したことが分かります。
 かつて、道標の傍に小さな石橋がかかって
いました。
今その溝をのぞくと「往来安全」「酒勘」と刻ま
れた石橋の一部が見られます。
      寝屋川市
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 街道は東寝屋川駅を北側で越えるが、
近くに埋蔵文化財資料館があり、立ち寄った。
ショッピングプラザの中の一角にひっそりと



一部屋が区切られており、
土器などが中心
に展示してある。

 街道関係の資料は
無かった。

元の街道に戻る。









−−−− 打上古墳群  説明板より −−−−−−−−−−

 打上の周辺には、古くから多くの古墳があったといわれています。
江戸時代の「河内名所図絵」には、「八十家同村にあり由縁不詳、
八十は其数の多きをいふ」と紹介されています。 打上には高塚・
ほり塚・ねめり塚・から塚などという「塚」の名前のついた地名が多く
見られます。
これらのことから、かつて打上には多くの塚「古墳」が存在していた
ことがうかがえます。しかし、ほとんどの古墳は、耕地などをつくるため
に消滅してしまったようです。
 この付近の地名は高塚といいます。ここにある多くの花崗岩の巨石
は、かつてこの付近に散在していた古墳に使われていた石材を集め
たものと考えられます。
  弘法大師像

 また、ここには、これらの巨石で祠をつくり「お大師さん」と呼び親しまれている弘法大師像が、安置されています。
いつごろ安置されたか不明ですが、像の台石には「四十番」「四十一番」の番号が刻まれています。
この付近にあります打上弘法井戸(北東約500メートル)正縁寺(南約700メートル)などの大師像にも前後の番号
が見られるところから、これは札所番号で、当時、これらの大師像を巡る「霊場状巡礼」が行われていたと考えられます。
   寝屋川市
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 二月堂灯籠

10:06
(歩行1時間後)











−−−  二月堂灯籠  説明板 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ここ東高野街道沿いにあります二つの石灯籠の内、左側の大きな灯籠は、花崗岩で組み立てられ、高さ
約3メートルを測ります。
脚部の正面に「二月堂」と刻まれ、側面には、天保十四年(1843)の年号が刻まれています。
 「二月堂」は、奈良東大寺二月堂を指すのでしょう。くわしいことはわかりませんが、古老の話によれば、
当地には、「柳谷・二月堂両観音講」が百数十年前からあって、現在でも三月のお水取りのころには、東大寺
二月堂に参詣するといいます。
 また、右側の石灯籠は「八幡宮」と刻まれ、江戸時代中頃の明和三年(1766)の年号が刻まれています。
これは国守神社が八幡宮と呼ばれていた頃に氏子の人々によって寄進されたものです。  寝屋川市
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 道標そばで20号線からはずれ、
南へ迂回するかたちとなり、JR
忍ヶ丘駅の250m北側でまた合流し、
四条畷市岡山へ入り、そのまま直進
して駅の高架下をくぐる。











四条畷市中野、
四条畷小学校の
手前で清瀧街道と
交差する。
JAがある。
農協は郵便局同様、
物流の集積をするのに
街道沿いにもうけられる
ことが多く、街道を探す
ときの助けになる。






JAの隣に交番があり、
その向かいの南へ向かう
道が東高野街道。

東西に伸びる清瀧街道。
見覚えがある。
あの道がここで八幡と
繋がっているのか、と
また頭の中で街道が
プロットされる。






 墓地の傍を通り、住宅
街を行くと、
歴史民族資料館がある。
この日は休館日。
残念。
月曜休館
9:30〜17:00

塚脇町一丁目







その50mほど南で、
国道170号線と
合流する。(写真:右)













 合流してすぐの場所に
四条畷の戦いの旧跡が
あった。












−−−−−−−−−−−   和田賢秀公墓  説明板 −−−−−−−−−−−−−−−−

このお墓は正平三年一月五日楠木正行が、四条畷で敵将高師直の大軍と戦い討ち死にされた時、
共に戦われた和田賢秀公の墓です。
 賢秀は源秀ともいわれ、正行公とは従兄であり、歴戦の勇将で新発意ともいい、伝説によると賢秀公
討ち死にの際、敵の首に噛み付き睨んで放さず敵はそれが因で死んだ。
以来、土地の人は賢秀公の霊を歯噛(神)様として祀っている。
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左手に四条畷神社の
鳥居が見えた。
参道を車が通るというか、
道路に鳥居が立っている
感じがする。

近鉄バス、四条畷神社前
をすぎると大東市へ入る。

11:07
(歩行2時間後)




大東市北条、北条中学野西側あたりで、
国道170号線から旧道は分岐する。
写真右の 白い建物、かわむら屋の左側の
道を行く。













大東市野崎
野崎観音慈眼寺
への参道を左に見る。












写真:左)
府道8号線を横断


写真右)
ふたたび国道170号線
に合流する。
分岐していた区間は
約1.5km







 象印魔法瓶の工場を過ぎると、東大阪市
へ入る。

この170号線との合流区間もまた1.5km
ほどになる。

途中、紀元2600年を記念した八紘一宇
の石碑が常夜燈の傍にあった。
























中石切町4丁目に
入ってすぐに道が分岐
している。(写真:左)
旧道は左側を行く。












 西石切町で、石切神社
の参道が左に見えてくる。
参道から参拝し、先を急ぐ。













 国道308号線、阪神高速の高架下を
くぐる。


写真:右)
道標
 『みぎ 生駒山@
  すぐ 石切@』









東山町、南荘町を南下してすぐ、
箱殿町との境で、暗峠越奈良街道と
交差する。

 13:07
(歩行4時間目)









 平岡神社参道に立つ
鳥居。

箱殿町と鳥井町の間に
立つ。
直進すると近鉄奈良線
枚岡駅。










喜里川町で、国道170号線
と合流する。
合流地点の交差点にある
道路改修祈念碑
このあと、近鉄奈良線
瓢箪山駅の東側の
アーケードを抜けるが、
そこも国道170号線。






−−−−−−−−−−−−−−−−   東高野街道・道路改修記念碑  説明板 −−−−−−−

 この前の道は、東高野街道です。京道、紀伊路とも言われています。
京都九条の教王護国寺(東寺)から伏見を経て、木津川を渡り、山城との国境である洞ヶ峠を越え、
旧河内国に入り、生駒山脈の西麓を経て、大和川を渡り、石川沿いに南下して、紀見峠を越えて
高野山へ至る街道です。
 治承年間(1177〜1181年)に開かれたと伝えらてれますが、当時高野詣での宗教街道として、
大いに利用されたため、この伝承があるのでしょう。古代において、河内の平野部は池や低湿地のため、
この山麓ぞいの道は、河内で唯一の南北道であり、かなり古いころから、重要な交通的役割を果たした
ことでしょう。

 道路改修記念碑は、昭和11年、枚岡村が大阪府に対し、現在の府道大阪・枚岡・奈良線(産業道路)
は大阪市内から箱殿付近までは幅員も広げ整備されているが、それ以東は、狭く、路面も悪く、全国唯一
の針金製造地なのに、大型自動車が通行できないので改築してほしいという請願をしていました。
昭和12年6月、貞明皇太后の枚岡神社行啓に際し、周辺の道路が、大きく改築されたり、新しく施設された
のを記念して、大阪府が建碑したものです。位置は若干異動されています。
もとは、ここに東高野街道の里程標が建てられていました。             東大阪市教育委員会
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 近鉄奈良線・瓢箪山駅
を挟んでアーケード街が
続く。














駅から2分ほどで
 瓢箪山稲荷神社
の参道が左手に見える。

東大阪市立郷土博物館
はこの山側の方角にある。
時間があれば寄りたい。








 東大阪市 発掘ふれあい館

 横小路町4丁目、下六万寺1のバス停
の先で、街道はいったん国道170号線から
逆L字型に回り道する。(150mほど)
再び、170号線に戻り楽音寺から八尾市に
入る。









 玉租神社の参道が
国道脇に鳥居を見せて
いる。
かつては松並木が続い
ていた。











八尾市域を楽音寺、大竹、水越、千塚、山畑、
服部川と過ぎる。街道は各丁目の境界になって
いる。
郡川で府道177号線(信貴山口行き)
と接する。

 まもなく国道170号線はセンターラインの
無い対面2車線の狭い車道となるが、交通量
は少ない。








































写真:左)
『大阪善女講 大正7年
 左 元喜光寺 』


写真:右)
 戦前の忠魂碑

恩智北町







 恩智中町で、
恩智神社の参道
が左手に見える。

写真:中)
写真:左のガード
レール脇で埋もれ
てしまった道標。

写真:右)
木製の立派な鳥居






 恩智南町、神宮寺
と過ぎると、山ノ井町
からは柏原(かしわら)市
となる。



























 太平寺を越えて、
近鉄大阪線・安堂駅北側
を越え、JRの線路を越え
て近鉄道明寺線・柏原
南口駅の手前で、新大和
橋を渡る。











この辺りは1704年に
わずか8ヶ月で大和川
の付け替えが行われた。

川を渡ると、藤井寺市へ
入る。









 船橋町の南で、右へ
分岐し、国府2丁目で
近鉄道明寺線を通過する。













 国府1丁目の突き当たり
允恭天皇陵の東側で
八幡神社に突き当たり、
左へ曲がる。












 近鉄南大阪線・
土師ノ里駅の東100m
ほどで渡る。

この手前、東西の道が
長尾街道。
この地点で交差する。









 道明寺を右に見ながら進む。















 藤井寺市 道明寺

道明寺5丁目、国道170号線の東側で
西名阪道をくぐる。 (写真:下段中)

そのまま道なりに進み、国道170号線を
渡る。 (写真:下段右)


























 誉田3丁目、応神天皇陵
の南東で、誉田八幡宮の
塀に沿って進む。





























参道と合する街道は
夏祭りの雰囲気。













写真:左)
 古市代官屋敷跡
今は駐車場













 古市3丁目の商工会館で、竹内街道と
交差する。

商工会館自体もかつては銀行だった
のだろうか、モダンな建物。
その角にある道標。

 『右 大阪
  左 大和路
    嘉永元年 』

東高野街道は、本日はここまで。





古市の辻で、西の竹内街道を近鉄古市へ
向かう。

17:53 到着。
30,160歩 (1,116.6Kcal)
まだ夏の蒸し暑さの残る中を9時間近く
歩いたので、ちょっと熱中症気味になった。







 東高野街道 つづく

更新: 2021/5/25 リンク切れ修正