第 20回 柳生街道  奈良市 − 柳生 −相楽郡笠置町   2003年11月17日


 秋の柳生街道を歩く。
そのコースの大半は東海自然歩道となっており車での通行
はできない。また、地図には奈良県版であってもエリア的に
はずれている地域も多く、しかも車道でないために地図を見
ながらたどることは難しい。
 近鉄奈良駅の改札を出てすぐに数十種類の「てくてくまっぷ」
が用意されているので、「柳生街道(滝坂の道)コース」を貰う
ことが前提となる。 (裏面は「柳生街道(剣豪の里)コース」
であり道が繋がっている。)
 このマップを使って、近鉄奈良駅から柳生の里までを通して
歩く。


 近鉄奈良駅を8:20に出発。
猿沢の池を横に東へ進む。春日大社の手前を右に折れ、若草
山の裾野を南東へ回り込むように進む。




















高畑町の新薬師寺を目指して進むが、てくてくまっぷ
では市街地でのコースがわかりにくいので、地図を併
用する。 実際にさっそく道に迷ってしまい、新薬師寺
まで来たところで現在位置がようやくわかった。

 新薬師寺の一つ北側の道を東行するとじきに道は
細くなり上り坂になっていく。










 飛鳥中学校の前で道が分かれる。 左手の上り坂を進む。標識に沿って坂道をさらに上っていく。
若草山と高円山の間の渓流に沿って柳生街道は始まる。

南へ約400mほどのところに白毫寺がある。
高円山の中腹にある白毫寺は、天智天皇の皇子である
志貴皇子が都が飛鳥から平城京へ移ったときに建てた
別邸跡と云われている。

志貴皇子が春を歌った万葉集の一首は有名。

  石走(いわばし)る 垂水の上の さわらびの
     萌え出る春に なりにけるかも
  (志貴皇子)

皇子の死を悼む歌にはこの地の山の名が織り込まれている。

  高円の 野辺の秋萩 いたずらに
    咲きか散るらむ 見る人なしに
 (笠朝臣金村)

右手に高円山を見ながら、石畳の柳生街道は昔の姿のまま
に残っている。




 落葉に覆われた渓流沿いの道。     大石には寝仏が彫ってある。 (室町前期の作)


 街道沿いの崖の石に彫られた夕日観音。
夕日に石仏が輝くという。朝日の下では
わかりにくい。

 この道は平安、鎌倉時代に南都七大寺
の僧の修行場であった。
















−−−−説明版より−−−−−−−−−−
対岸の岸壁に彫られているのは朝日観音です。
これは早朝、高円山の頂から刺し昇る朝日に
真っ先に照らされてくることから名付けられ
たもので、実際には観音ではなく中央は弥勒
仏、左右は地蔵仏です。
この石像には文永2年(1265)の銘があ
り、鎌倉時代の石彫の代表的なもので、この
下の夕日観音と同じ作者と思われます。

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倒木が街道に架かっている場所が2,3カ所あった。 行き交う人もほとんどない寂しい道に
初めは石畳の道に感動していた興奮も徐々に冷めていく。


−−−−−−説明版より−−−−−−−−
首切地蔵
 荒木又右衛門が試し斬りしたと伝えられる
首切地蔵です。 彫刻の手法から鎌倉時代の
作と思われます。谷川沿いに上ってきたこの
道は滝坂道と呼ばれ、江戸中期に奈良奉行に
より敷かれた石畳の道は、昭和のはじめまで
柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につ
けて下り、日用品を積んで帰って行くに使わ
れたものです。
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 確かに首が切れている。
心細くなったところに「首切地蔵」である。
合掌して通り過ぎる。





首切地蔵の遠景
大木の右手が地蔵。左手にも道が続きここで
二手に道が分かれる。
どちらも同じ場所へ出るが、右手の道が近道。
入り口に「峠の茶屋」の標識がある。

手前の庇はトイレ小屋のもの。
ここで小休止していると、やっとハイカーとすれ
違った。
 この心細さは山道特有で、往時の通行人も味
わったであろう。





晴れた日の午前中でさえ、多少心細い感じがするが、これ
が夕方とか雨や曇天だったりすると誰も出会わない街道は
一層心細いだろう。
 自然の中での孤独感は、歩くものを卑小にし、対して自然
への畏敬の念を抱かせる原始的な感情ではないだろうか。


 東海自然歩道ということで、要所要所には木の道しるべ
が設けてある。







 10:05、スタートから約1時間半の地点。
高円山ドライブウエイ(有料道路・乗用車460円)と一部交差
する。
車道のコーナーからつづく道を奥へ進む。
石畳の道はドライブウエイの手前で終わり、この先の細い道は
アスファルトで舗装されている。











 掘り下げられた峠を越えて進む。 植林された杉林はよく手入れされて
おり、日が当たって気持ちよい。 先ほどまでの鬱蒼とした街道から、のどかな峠道を進む。


 山の曲線に沿った杉林の道を歩いていると、何の前触れもなく峠の茶屋が
いきなりそこにあった。
この出現の仕方はちょっと意表をつき、新鮮な驚きだった。

店の主かと思ったら飼い猫だった。
中を覗くと草餅が一個130円、しかもお茶付き。
ポットからお茶を注ぎ自由に飲める。
このシチュエーションで京都だったら、2倍以上の
値段になるのは間違いない。
あまりの良心的な値段だったので余分に支払った。

草餅とお茶で小休止。
 10:20頃到着したので、奈良駅からここまでは2時間弱
の距離。






旅の武芸者が食事代の形に置いていった槍などが
さりげなく掛けてある。

峠の茶屋を過ぎるとすぐに集落があった。
まったくの峠の一軒家でなくてホッとする。











 集落を下ると左手の斜面に茶畑
があり、さらに行くと「大神宮」の銘
の常夜灯があるが、街道はその手
前を左に曲がる。












 県道184号線
舗装された道を進む。

「てくてくまっぷ」では、カーブミラーの地点で道が三つ叉
に分かれている場所を右手に進むように記してあり、
そのまま円城寺に続くことになっている。
 しかし、県道184号線に沿って舗装道路を歩いている
うちに間違って大慈仙へ出てしまった。








大慈仙町の茶畑。茶葉を炒る香ばしい香りがあたりに
漂う。
まだ、道を間違ったことに気づいていないので道なりに
そのまま進んでいく。
道は対面二車線の広い道になり、交差点に信号までつ
いているバス道に出たところで、これはおかしい、とよう
やく気がついた。

バス停のある広めの道を円成寺の方角へ歩く。











11:40ごろ円成寺到着。 駅からは3時間弱の距離。

 円成寺は天平勝宝八年(756)、聖武・孝謙両天皇の勅願により開創と伝えられるが、
史実的には平安初期に起源をもつ。
応仁の乱の兵火で主要伽藍を焼かれたが、程なく再興し、その後江戸期には寺中二十三
寺、寺領二百三十五石を有する寺院となった。
しかし、明治維新後、寺領を失い現在の寺域となった。

楼門: 室町時代 (重要文化財) 入母屋桧皮葺
庭園: 平安時代。 浄土式と舟遊式を兼備した寝殿造系庭園。
多宝塔には、運慶作の大日如来座像(寄木作り・平安時代・国宝)が拝観できる。

本堂に上がり、阿弥陀如来座像(平安時代・重要文化財)、四天王(鎌倉時代)を拝観する。
12:05 出発。 境内には弁当を使えそうな場所はないので、昼食は後回しにする。




 忍辱山(にんにく)円成寺のバス停から30mほど下ると
細い脇道があり、これを下っていく。

柿の実の朱色と秋空の青がほどよいコントラストを見せる。
竹林の道を進んでいくと柿の木を植えている家々もとぎれ、
また寂しい山道の様相を呈する。















 東海自然歩道の棒杭のような標識を頼りに進む。
見落とすと間違いなく道に迷う。
実際、見落としたばかりに田畑のあぜ道に迷い込み
用水路で行き止まりになりつつも、現在位置がつかめ
ずに行ったり来たりで三十分ほど無駄に時間を費やした。

「てくてまっぷ」でのこのあたりの記述は分かりにくく、
棒杭式標識を頼りにした方が間違いが少ない。
道幅も軽自動車の通る道幅から獣道風の狭いものまで、
意外な展開をしながら進むので、道幅の連続性にとらわ
れると道を間違う。
左の写真では直進するのが道なりとして自然だが、実際
は左に曲がる。



間違った道の例。

道の廃れ具合といい、木の
倒れ具合といい、これはおか
しい、と思いつつ進むと、田ん
ぼへ出て行き止まりだったり
する。

2,3回間違って後戻りした。







 この倒木の横たわる道も間違い
道かと思えるが、実は正解の道
だからややこしい。

「うそだろ」と何度となく連発するが、
ハイカーが意外道から出てきたり
する。

標識やハイカーと出会うとホッとする。

道を間違っても間道がほとんどないの
で、面倒でも後戻りするべし。

田園、竹藪地帯を抜け、人里へ出ると
道しるべを信じて進む。民家の軒先
だったりしても愚直に信じること。








 どうみても田んぼのあぜ道としか思えない道や、 幅50cmほどの道をいぶかしみ
ながら進むと斜面に石仏があり、街道であることを教えてくれる。
さらに進むと夜支布(やざう)山口神社に出る。


−−−表示板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 夜支布(やざう)山口神社
 大柳生の氏神で平安時代の延喜式にもあらわれている古い社です。
境内にある摂社立磐神社の本殿は、春日大社の第四殿を延享4年
(1747年)に、ここに移したものです。この神社には、一年交代で集落
の長老の家に神様の分霊をむかえる「回り明神」と言う、珍しい行事が
伝わっており、700年の伝統をもつ大柳生の太鼓踊りが奉納されます。
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 2003年6月に、この神社のご神体が盗まれた、という新聞記事を読んだ。
 「お宝探偵団」の影響だろうか、それまでたいして顧みられなかった文化財が
金になるというので、盗まるのは痛ましい限りだ。
この記事を読んで驚いたのは、ご神体を盗んでしまうという罰当たり加減がひとつ。
盗んだ「ばちかぶり者」には、たとえ法の網は抜けても、しっかり罰を当ててもらい
たいものだ。
 もうひとつの驚きは、所蔵されていた経典の金銭的価値が億単位ということだ。
神主も驚いたことだろう。なにせそれまでの保管場所はベニヤ板一枚の壁だった
というから、二重の驚きである。

ちなみに、経典というのは、鎌倉時代から南北朝時代の全600巻の大般若経で、
これを京都大総合博物館に寄託した。その価値は1億8000万円という。

誰も人影を見なかったこの日の夜支布山口神社だが、その一億八千万円はまだ
あの社務所あたりにあったのではないだろうか・・・。



 夜支布山口神社の階段を下り、さらにもう一本の道にかかる階段を下り車道を
横断して標識に従って柳生の里を目指す。
道はすぐに車道から脇にそれ、道幅は数十センチの狭さになり、あぜ道、けもの道
のようになったり、車道に出たかと思うと、民家の軒先を通ったりする。

大柳生の集落。

街道とは関係ないが、
住宅街におもしろい
デザインの家を発見。












 このあたりで14:00になり、人通りも車もほとんど通らないので、道ばたに座り込み
弁当にした。
 そこから15分ほどで奈良市青少年野外活動センターの裏へ出る。
さらにその裏道を道なりに進むと南明寺へ出る。

−−−説明版より−−−−−−−−−−−−−−
 南明寺
本堂は鎌倉時代に建てられた一重寄棟造で、
力強く簡潔な様式を残しています。
本堂には木造の釈迦如来(平安後期)、薬師如来
(平安初期)、阿弥陀如来(平安後期)の座像
三体を安置していますが、造像の手法はそれぞれ
異なっています。
寺の創立年代は不明ですが、周囲に多くの堂塔の
ある大寺であったようです。
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この日は扉が閉ざされており拝観できなかった。ここから先も迷いやすい。
「てくてくまっぷ」に頼っていたら道に迷ってしまった。

−−−−説明版より−−−−−−−−−−−−−−
 おふじの井戸
 この道が大柳生と柳生を結ぶ旧道で、柳生の
城主、但馬守宗矩が、この井戸の付近を通りが
かり、洗濯をしていたおふじという娘に「桶の
波はいくつあるか」とたずねると娘は「お殿さ
んがここまで来られた馬の歩数はいくつ」とた
ずねかえした。但馬守はその器量と才気を見そ
め、のちに妻に迎えたとの伝説がある。今も
「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬
の嫁になる」との里歌が残っている。
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おふじの井戸を見つけ、またコースに乗る。写真左手の山へ街道は向かう。


里から山道へ入る。
また山越である。
初めのうちはコンクリートで
舗装された道だが、そのうち
土の道となり、落葉が覆い
隠した道となる。

 14:45に山越の道に入る
抜けたのが 15:15なので、
この山越は30分コース。
距離はたいしたことはないが、
登坂もきつく、この街道を通して
ウォーキングシューズよりも
トレッキングシューズを装備した
方がよかった。







杉木立の道を進む。
登り道がきつい。














          疱瘡地蔵                           中村六地蔵
 疱瘡地蔵は疱瘡除けに作られた高さ3mの石仏で、元応元年(1319)の銘がある
すこし先に寝仏地蔵があるが、土に覆われよく判別できない。

このあたりから民家はもうすぐで、山を下りきるとそこ
はもう柳生の里。
「てくてくまっぷ」には今川に架かる神殿橋を渡るよう
になっているが、手前の道を北側へ進むと陣屋跡と
八坂神社の間へ出る。
コースとしてはこちらがおすすめ。

写真は今川を渡った場所から今来た山越の道の方向
を移したもの。
それほどの高さはないことがわかるが、こんもりとした
山の形からその山道が急であることを物語る




−−−−−説明版より−−−−−−−−−−−
 柳生は剣豪の里である。
柳生陣屋跡をはじめ家老屋敷 柳生家墓地や芳徳寺に
保存されている数々の宝物に剣豪のありし日をしのばせ
てる。
 柳生陣屋跡は柳生心陰流を生み出した宗厳(石舟斎)
の子宗矩が亡父宗厳の菩提を弔うため芳徳寺を建て、
ひきつづき三年の歳月を費やし寛永十九年この地に建築
したものである。
「柳生藩日記」によるとその坪数は一三七四坪(4534u)
表は竹の枝門であったと記されている。
 その後、宗冬により増築整備されたが、延享四年(1747)
の火災により全焼し、仮建築のまま明治の廃藩により姿を消した。
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 陣屋と道を挟んで八坂神社がある。

−−−−−説明版より−−−−−−−−−−−−−
 柳生八坂神社
 もと四之宮大明神と呼ばれ、奈良春日大社の第四殿
此売大社を祀っていましたが、承応三年(1654年)
柳生宗冬が大保町にある八坂神社の祭神素戔嗚尊の分
霊をここに勧請して社殿を造営し、八坂神社と改めた
ものです。境内の拝殿は天之石立神社のものをここに
移したものです。
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 石垣の上に立派な武家屋敷がある。
資料館と思ったら、家老筋の子孫の個人宅だった。
観光バスから降りて見物に来た人たちが上っていって
ここは違うと教えてくれる。
それにしても立派なお宅である。











そこから5分ほどで旧柳生藩家老屋敷 資料館へ着く。
−−−−−−−−−−説明版より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 旧柳生藩家老屋敷
 柳生藩の幕末の家老、小山田主鈴の旧宅です。
主鈴は、岩代国(福島県)の出身、文化三年(1806)二五歳のときに、江戸の柳生藩邸
に使え、才腕を認められて重職に栄進文政九年(1826)国家老として奈良に移り、柳生
藩南都屋敷(現ならまちセンター)を預かって藩財政の立て直しに功績をあげました。
弘化三年(1846)家督を譲って退隠、さきに藩公柳生但馬守俊章から賜っていたこの地
に新邸を営んで余生を送りました。 それがこの屋敷で、弘化四年(1847)八月に着工、
翌嘉永元年(1848)六月に上棟してものです。 主鈴は、安政三年(1856)七五歳をもっ
て世を去りましたが、その子孫は、明治四年(1871)の廃藩後もここにとどまり、旧藩主
柳生俊益も、三たびこの屋敷に立ち寄っています。
 昭和に入り、米蔵その他の付属施設が撤去されたりしていますが、主屋はほぼ創建当初
の姿をとどめ、奈良県下ではほとんど唯一の武家屋敷の遺構です。
 昭和三一年(1956)子孫が奈良の大森町に移って、屋敷は土地の人の手に渡りましたが、
昭和三九年(1964)に作家の山岡荘八氏の所有となり、以降山岡氏はしばしばこの屋敷に
滞在、昭和四六年(1971)のNHKから放映されました大河ドラマ「春の坂道」の原作もここで
その構想が練られました。山岡氏の死後の昭和五五年(1980)遺族の山岡賢二・雅子ご夫
妻から奈良市に寄贈されました。
 公開にあたって、庭園と堀を修復するとともに、主屋にも若干の補修を施し昭和五六年十一
月一日に一般公開しました。
                                               奈良市
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 日もかげってきた16:00、家老屋敷を後に
する。
柳生街道はここ、柳生の里で終わるが、ここから
最寄りの駅へ向かうバスの便は本数が少ない。
 ラフな観光用地図で確認すると2kmほどで、JR
笠置駅があるので、ここから笠置へと向かう。
 実はこの距離は嘘くさい。徒歩30分と表示
されているが、実際はバス停のあたりから笠置町
まで50分かかった。

16:05に柳生バス停そばを通過。

<柳生街道おまけ編 笠置へ行く>




錦生醸造 寛永年間創業。               古代茶屋。古民家を改造した食事どころ。 バス停そば

柳生の里は思ったより規模が小さく、
有名な割に大きな観光旅館もなく
集落といった方がふさわしいサイズ
だった。

国道163号線を北上する。

16:22、京都府との県境に出る。
県境のしばらく手前から民家も途絶え
寂しい道が続く。

従是東奈良県 の道標

ここから笠置町になる。







深い谷間を横に見ながら坂道
を歩く。
柳生の里と、笠置は奈良よりも
近いものの、この道は周囲の
状況からするとあまりに厳しく、
明治以降に作られたような気が
する。
 国道が整備される以前は細々
とした険しい山道だったのでは
ないだろうか。






 16:54 笠置町に到着。
柳生のバス停からは徒歩で
50分かかっている。













笠置の町は柳生より開
けている印象がするのは木津川
のそばで古くから水運
が開けているためか。












 木津川に架かる笠置橋。
手前に支流の白砂川が注ぎ、笠置の町を貫く。白砂川に架かる橋の欄干に
説明文があった。
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 鎌倉時代末期の千三百三十一年笠置山一帯は元弘の変の兵火に包まれた。
火手橋の名はこの地が笠置山城の大手門であったことに由来するといわれている。
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地理的に見ると木津川は下流、大山崎のあたりで、宇治川、桂川と合流し、淀川と
なって大阪湾へ注いでいる。
京都からは舟運を使えば、この笠置の地はそれほど辺鄙な場所ではなかったのだろう。

元弘の変: 1331年〜1333年 鎌倉末期、鎌倉幕府が倒れて建武中興を招来
した内乱。後醍醐天皇は正中の変の失敗後、再挙をはかり、笠置に逃れ、楠木正成
は赤坂城に挙兵したが、幕府軍のために落城。
天皇は隠岐に流され、幕府は持明院統の光厳天皇を擁立。
しかしやがて諸国の武士が挙兵、北条氏が滅び、建武中興の実現を見た。
                              (数研出版:日本史事典)

 後醍醐天皇は皇位の正統の証である三種の神器を持ったまま、その後吉野へ
逃れ、南北朝時代を招来する。
 京と笠置の位置関係は舟運で半日もあれば結ぶ距離だし、笠置から奈良へは
徒歩でも一日の距離、奈良盆地を南下すると一日で五條市のあたりまで行く。
五條市から吉野は吉野川を渡っていくらもない。
 街道歩きのメリットのひとつに、当時の移動手段に近い形で地理上のポイント
をそれぞれに結ぶため、歴史上の事件が足でもって距離感が把握できる、とい
のがある。

 落ち延びる後醍醐天皇一行はもしかしたら、今日歩いた道のどこかで重なって
いるのかもしれない。

と、鎌倉末期の笠置を想像しつつ、疲れた足を最後の目的地へ運ぶ。
それは、天然わかさぎ温泉「笠置いこいの館」だ。
 17:10到着。  万歩計のカウンタは 41,726歩 を指していた。

町の規模からすると驚くほどの施設の充実ぶり。1000円の入場料も納得。
笠置の地下1200mから、こんこんと涌き出る「天然温泉」は
ぬめり感のある泉質で、終日の街道歩きには最高のごちそう。
ということで、 銭湯開始!

 天然温泉は、泉質もすばらしく本物の温泉に浸かった満足感のまま、
二階の休憩室では、食事も注文できる。
雉飯定食(釜飯、天ぷら、さしみ、酢の物、吸い物、小鉢、漬け物)で
たしか1200円くらいだった。
まずは風呂上がりの生ビールをジョッキでゴクゴク。体の隅までビールが
行き渡るよう。トリ釜飯は、雉飯というからもしかしたら雉を使っているの
では、と思いつつほかほかご飯を口に運ぶ。
すっかりリラックスして、ほろ酔い気分のまま温泉から徒歩5分ほどの
JR笠置駅から19:08発の電車で奈良・大阪方面へ。
 いい旅でした。


温泉に入らずそのまま笠置駅から帰る場合の所要時間は9時間、約4万歩の
行程。 しかし、ウォーキングと温泉の親和性は高く、湯上がりのビール、食事
がついたら、もう最高。適度な疲労がかえって満足感に身を浸します。




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