第7回 山陰街道(篠山街道) 阪急・桂 - JR馬堀  2002年11月20日 

紅葉の丹波路をゆく

京の七口 (ななくち)
京都と各地を結ぶ出入り口は古来「京の七口」と呼ばれてきた。各地方から
京都へ向かってはみな京街道と呼ばれ、
これらの口から各地へ向かう道は別の名がついてた。
今回は山陰街道を丹波方面へ向かう道であり、その起点は丹波口(七条口)
(七条通と千本通の交差する七条千本の東側付近)と呼ばれていた。
 中世にはこのあたりに関が設けられ、この一帯を丹波口と称したという。
現在のJR山陰線丹波口駅はこれより先の千本五条東に位置する。

ちなみに京の七口は実は7箇所に限られない。近世中期の京都町奉行所
が記した(京都御役所向大概覚書)では、重複した場所があるもののつぎの口をあげている。
  東寺口・五条橋口・四条大宮口・竹田口・三条橋口・大原口・清蔵口・千本口・
  七条口・粟田口・鳥羽口・丹波口・長坂口・若狭口・八瀬口・荒神口・鞍馬口
所在地名の他に、竹田口、丹波口、若狭口など行き先に因むものもある。
(京都と京街道 水本邦彦[編] 吉川弘文館 より)

ということでさて、丹波口である。本来は起点
であるそこから歩きはじめるべきだが、今回は
阪急桂駅を起点に出発した。 (10時30分桂出発)
今年は秋の気温が低めであり、紅葉が例年に
なく鮮やかであるらしい。紅葉というとじっとして
おれないのは私だけではないらしく、行きの阪急
電車は平日の午前9時台というのに満員であった。
乗客はほとんどが紅葉見物と見受けられる。
多くの人が嵐山への乗り継ぎで桂駅で下車した。
先週の日曜は嵐山には5万人の人出があったらしい。
しかし、嵐山の魅力は人気のまばらな朝や黄昏時
にあり、バーゲン会場のような雑踏をすり足で歩く
ような混雑のなかでは半減するのではないだろうか。
そこでその激混みの嵐山を裏山側のルートを回るというのがこのコースの特徴である。
さあ、桂駅のケンタ(KFCのこと)でチキンフィレサンドを買い、コンビニでおにぎり弁当 240円を買い求め出発。

駅南側の踏切りを西へ
横断すると、そこがすでに
山陰街道、丹波篠山への道。

右手の木は神社のものであり、
さすが京都、見所がいきなり始まる。




松尾大明神とある。
北にいくと松尾大社があり、そのゆかりだろうか。







この神社のそばに用水路があり、そこの高札にはつぎのように説明があった。
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小畠川(明智川)  現在では公称洛西西幹線と呼ばれる用水路で昔から小畠川、
別名明智川とも言われている。
この流れの源は嵐山渡月橋畔大堰川(保津川)より分離、京の五つの丘のひとつ
西の岡十一郷一帯の田畑にみずを潤しています。
この用水路には種々な逸話が残っております。
天正十年(1581年)6月2日京都の本能寺で主君織田信長公を誅殺した明智光秀は
早々に山陰道の樫原のこの場所に引き上げて来たとき落馬した。
村の老人が「このおにぎりでも食って落ち着かれよ」と腰掛等もすすめた。
「才々愛いやつじゃ時に東の家事は何処だ当てたら望みの物を与えよう」
といわれた老人は「あれは本能寺だ」と云うと「見事だ何が欲しいか申してみよ」
老人は「このあたりの水田は水が非常に不足だ何人としても水がほしい」
と申し出たため光秀は直ちに着工された。
然しこれはいささか矛盾する。三日後の天王山の戦いで秀吉に敗られている。
この川は信長の命を受け天正3年(1575年)丹波平定の際、樫原を補給基地とし、
老の坂から樫原桂までの通路を整備、田畑の灌漑用水路、溜池を造ったので
小畠川を明智川と呼んだと思われる。(筆者注:当時丹波国は光秀の領地)
光秀の領民に対する政策が善かった事が立証されている。
(樫原町並整備協議会))---------------------------------------













このあたり、樫原宿は宿場町の面影が随所に残る。
上、右から2枚目の写真では折りたたみ式の床机があり、往時、旅人が軒先で休憩したのだろうか。
解説版によると、 <揚げ素戸、ばったり床机   樫原は山陰街道の一番みやこ寄りの宿場町で方々からの物資の
集積地として非常に賑わった町でした。道路から一間程度後退したところに母屋があり、往来の方々の休息に、
そして景観を考えてきた造りで、「虫こ窓に紅がら格子」の意匠は今も数多く残っております。この家は
揚げ素戸、ばったり床机の建物で多くありましたが、現在はこの一戸のみで貴重なものです。>

樫原陣屋址

門扉が本陣らしい
造りになっている。





高札の説明によると --------------------------------------------------------------------
陣屋とは本陣ともいい江戸時代に東海道や山陰道の参勤交代で諸大名が宿舎としたところです。
寛永十二年(1635年)徳川家光公が大名の参勤交代制を始めました。
山陰道の樫原は早くから宿場町として設備も整い丹波山陰より物資の集積地として殷賑を極めていました。
樫原本陣は奥の間の六畳と四室が続きで、その他の七部屋のあわせの構えは誠に立派の一言につきます。
表に乳門という乳首に似た飾り金具をつけた玄関門があります。
玄関の天井板には、高松少将御宿松井伯耆守御宿と筆太にかかれた宿札がびっしり貼りめぐらされています。
他に大名の泊まった宿帖や関札等多くの古文書も蔵されています。
この本陣は安政二年(1855年)に山田の豪族足利直系の玉村新太郎正継が継承し、今日まで5代、大切に
維持されています。
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道幅は3,4mと街道の標準的な長さだが、この道をバスが往復し、比較的交通量も多いものの、宿場の雰囲気か
わりとのんびり街道気分を味わえるいい場所だった。











街道筋を行くと3差路に出会う。手前道標には天保14年とあり、奥のは 「左松尾」とある。
バス停は「三の宮」。もちろん神戸の繁華街ではない。このありに三の宮神社がある。

ここまでの道は府道142号線だが、溜池のあるこのあたりで道を見失い、溜池を右手に見つつ、
広い道に出てしまった。
100mほどで国道9号線との交差点へ出る。
交差点に沿って9号線のあたりは洛西ニュータウンのエリアで、量販店など店が並ぶ。










樫原秤谷交差点。 ここで地図にはこれまで歩いてきた府道142号線に平行に北側にもう一本道があり、
それが三の宮神社の参道に続いているので、交差点からはじめの道を西へはいってみた。











竹林を過ぎ、紅葉も鮮やかな庭園がある。しかし料亭で、行き止まりとなっていた。
落葉を掃いていた中学生に道を尋ねたが、「よくわかりません」と丁寧に返事をしてくれた。
三の宮神社も聞いたが困った様子で知らないという。
しかし、なぜ料亭の落ち葉を坊主頭の中学生が平日の午前中に掃除しているのだろうか。
不思議だった。
道を戻り、街道のルートへ復帰する。

この後、大枝までの桂から7,8kmの区間は府道142号線だが、交通量も多くなく、道が曲がっているため
スピードを出す車もないので、歩きやすく雰囲気のある良いコース。























兒子神社。地図には載っていない。どうもこの地図(昭文社『文庫版都市図2002年版)このエリアの情報が怪しい。
























道は大枝を通り大枝沓掛手前で国道9号線と合流する。
左の写真は合流の手前のホテル街。お客さんは入っていないようだ。
この後国道9号線に入ると歩道があるので一安心するが、500mほどで歩道は
なくなり、車道脇を歩くことになる。大型トラックがスピードを出しており危ない。
騒音もひどいのでここでCDを聞きながら歩く。
矢井田瞳が影響を受けたと思われる、アラニスモリセットの曲。
確かに良く似ている。邪道だがヤイコの英語版として楽しんでいる。
あの、とつぜん声が裏返ったりする歌い方がいい。本家アラニスモリセットも
みごとに裏返っている。


となり20cmを10トントラックが
轟音を立てて過ぎる。あぶないなあ。
道の両脇の山は紅葉も美しく、
交通量の割りに森林のいいにおいがする。

9号線は5,6km程度つづく。
くれぐれも車に気をつけるべし。





9号線の途中で、ついに亀岡市へ入る。


左の写真のカーブをまがると住宅が数軒ある。
歩道ガードがあるが軒に迫っており、
道幅は20cmくらい。
ここはからだを斜めにして歩く。




老ノ坂トンネル。街道はトンネルに入らずに写真右手のわき道に入り、峠越えのコースへ。
老ノ坂は古くは大枝と書かれ、室町時代には大江関が置かれた。この付近の山並みは
酒呑童子伝説の大江山とも云われ、この途中には酒呑童子の首塚を祭った首塚神社がある。


下の図は『拾遺都名所図会』(江戸時代の観光案内ブック)老の坂を南東から描いたもの
丹波亀山道とあり、右上の四角囲みに『国分石』とあるがこれは下の写真中段右の『従是東山城国』
(これよりひがしやましろのくに)の石のこと。今なお残っている。現在のこの国分石は人も通らないような
場所にあるが、往時は旧山陰道の往還の多い路傍だったのだろう。
このあたりを峠の里といい、丹波の国の産物を運んで売買する市場があって、絵の中央に荷物を担いだり
馬の背に俵を載せて行き交う人々が描かれている。












いきなり、静かなうら寂しい道となる。
誰も歩いていない。
突き当たりの道を左へ行くと首塚神社























もう1時過ぎなので、ここで昼ごはん。人気のない神社で、しかも「首塚」だし、怪鳥の鳴き声がする。
お参りをして、弁当を使わせてもらいます、と断ってから石に座る。

石版の由緒によると、-----------------------------------------------------------------------------
 平安時代初期 (西暦800年頃) 丹波国大江山を本拠と構えた酒呑童子が京都へ出て盗賊や
婦女子をかどわかすなど悪行の数々を尾河野で、天皇が源頼光ら四天王に酒呑童子とその一族を征伐するよう命じた。
大江山に分け入り苦心の末に酒呑童子とその一族を征伐し、首級を証拠に都へ持ち帰る途中、この老ノ坂で休憩したが、
道端の子安地蔵が「鬼の首のような不浄なものは天子様のおられる都へ持ち込むことはならん」と云われた。
足柄山で熊と相撲をとったという力持ちの坂田金時がが証拠の品だから都へ持っていくと言って酒呑童子の首を
持ち上げようと力んだがここまで持って来た首がついに持ち上がらなくなった。
そこで一行は止むを得ずこの場所に首を埋めて首塚を作ったと伝えられる。
酒呑童子が源頼光に首を切られるとき、今までの罪を悔い、これからは首から上に病を持つ人々を助けたい と言い残したと
伝えられ、首塚大明神はは首より上の病気に霊験があらたかである。
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首塚神社から旧街道へ戻し、しばらく人気のない竹林を進むと国道の下をくぐり、ふたたび交通量の多い国道9号線にでる。

600mほど車をよけながら行くと右手に
農道がある。
本来の街道からは外れるがお勧めの迂回
コース。
のどかな田園風景がなだらかな山を背景に
広がりのんびり里山歩きの気分。
道幅は狭く、途中に橋があるが軽トラックで
かろうじて通れるくらい。
やはりどこでも通れる徒歩の強みである。

農道の終わりの坂道をあがっていくと、すぐ左手に神社があった。
王子神社 (篠山王子)
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祭神は イザナギノ命、イザナミ命
往古は境域広大にして闇宮(くらがりのみや)と呼ばれ
峠神として街道を往還する旅人等が行旅の安全を祈願した。
現存する菩薩形神像は著名で、鎌倉期の熊野信仰の影響
を物語るものと考えられる。
寛延三年(1750年)後水尾院勅願の天神様を祭る境内
社天満宮が造営され、五穀豊穣家内安全の神として信仰
を集め王子天満宮と呼ばれた。
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そこから1km強進むと篠八幡宮がある。 

---  篠八幡宮  ------------------------------------------------------
創建は不明であるが鎌倉初期をあまり降らない頃と思われる。社伝によると延久三年
(1071年) 後三条天皇の勅願により河内の誉田から心霊を遷したといい、室町時代は
将軍足利家の庇護を受け醍醐三宝院門跡をして当社の別当職を管掌せしめ社領を寄
進され大いに栄えた。元弘三年(1333年)足利尊氏は当社に願文を奉ると共に上差の
鏑矢一筋を添えて奉納して京都六波羅北条仲時を討ち建武中興のさきがけをなした。
このとき、尊氏の旗印「源氏の白旗」を掲げた楊の大木の2代目が「旗立の楊」として現
存している。
本殿は明智光秀の丹波攻めの兵火で焼かれたが、後 亀山城主松平氏により再建された。
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ここにも明智光秀の足跡があった。 この丹波攻めは信長に命じられたときのもので、この篠山街道は
明智光秀に縁の深い道である。きっとこの道を歩いたことだろう。












まだ時刻は3時前だが、前回の粉河街道でこしらえた特大の足の豆が痛み出した。
テーピングテープをまめの箇所に貼り、綿ではなくナイロンの靴下を下にして2重ばき
にしたおかげでここまでやってきたが、無理をするとまめの下にまめができそうなので、
今日のところは馬堀でいったん打ち切るとする。
篠八幡宮からJR山陰線馬堀駅までは1.5kmほど。 その近くにはトロッコ鉄道終点・
亀岡駅がある。
現在の山陰線のこのあたりはトンネルを中心にして嵯峨まで行っているが、むかし
嵯峨野に住んでいたときはトロッコ鉄道の線路が山陰線だった。
 バイトの帰りにうっかり嵯峨駅を乗り過ごすと、電車は保津川の峡谷ぞいを走り、周囲
には家もない保津峡駅となる。
冬の夜のことでもあり、峡谷の中にぽつんとある駅で電車を待つ気にもならず、馬堀駅
まで乗り越した記憶がある。
この山陰線は京都駅の1番ホーム(旧京都駅では明治期のままの屋根のあるホーム
だった)から電車が出るのだが、冬になると車内の暖房を逃がさないため、自動では
開閉せず、初めて乗ったときは戸惑った。
そんなほのかな記憶をたぐりながら馬堀駅へ向かった。


途中に和菓子屋さんを見つけた。
おはぎの旗が立っている。
丹波といえば小豆。小豆といえばぼた餅。

1個120円のぼた餅ときなこ餅を買い求めた。
JR馬堀駅は新線上に作られたもので駅舎も新しい。
写真では左奥の斜め屋根がそうだが、JRの駅
というのは全国に線路がつながっているせいか、
どことなく旅情がある。


電車待ちの間にぼた餅を食べようと思っていたが、数分で京都行きの電車が来た。
鉄橋を渡るときに保津峡が二、三度見えたが、ほとんどはトンネルの中だった。

本日の歩数 約22,500歩。(17km) 国道9号線と重なる部分以外は街道の雰囲気が残っているいい道だった。


* 篠山街道 (馬堀から篠山城京口橋)へつづく