第9回 上ツ道(上街道)  奈良・猿沢池 - 桜井・三輪  2003年4月13日

 大阪からのお伊勢参りの道 〜 桜の頃の初瀬詣 〜

 大阪からのお伊勢参りのコースとして、暗峠越え 
 → 上ツ道 → 初瀬街道 →伊勢街道 → 伊勢神宮を選んだ。
 今回は近鉄奈良駅から猿沢の池 西岸を南下し、三輪山のふもと
までの上ツ道を歩き、さらに初瀬街道へ入り、枝垂桜の咲く長谷寺
へ参詣する。







上ツ道 : 明日香へ南北に通じる古道。
平安時代以降は初瀬詣へのコースであり、桜井市三輪の春日神社を過ぎた大和川手前
(出口橋)から県道199号線が初瀬街道(関西からの呼称は伊勢街道)へ通じる。
近世には上街道とも言われ、関西からあるいは伊勢参りの参詣者が大和、京、大坂とさら
に足を伸ばすときの通り道となった。
 天理市佐保庄から桜井市大字谷に至る道が古道としてのコースらしい。
「奈良国道」 奈良の古道 参照


さすがに飛鳥、奈良時代までの歴史の中心地だけあって、古墳の多いことなどが特長
付けている。 また、江戸、明治初期までは年間50万人、約60年周期のブーム時には
300万人の人が訪れたという伊勢参り(江戸時代の人口は現在の六分の一)の人の流
れの一端を担った道のひとつであり、街道沿いには虫籠窓のある古い家屋が現在も数
多く残っており、これまでの街道歩きの中では最もその数が多い。
 上ツ道としては天理市までだが、人の往来の導線を考えるとそのまま直線に北上して京、
あるいは暗峠街道に交差させるのが自然だろう。 じっさい猿沢の池の西岸からは、ほぼ
道なりに南下しているのが面白い。
律令時代の中央集権国家では、条坊制などきちんと区画された土地の利用や、直線の
道路という特長があり、これは中国の都での制度をローカライズさせることなく直輸入した
政策の表れと見て取れる。
(*「古代の道について」 に興味深い調査方法がでている。
近世の街道は山や川など地理的条件に沿っており、途中に門前町や城下町があれば、
防衛のために意図的に曲がりくねった道になっているなど、時代によって道の様子が異なる
ことを改めて実感する直線的な道だった。

 近鉄奈良駅に8時に到着。ここで万歩計をリセットする。
商店街を抜け興福寺へ向かうと猿沢池にでる。

 (池の南西の常夜灯から興福寺 五重塔を臨む)

常夜灯から小橋を渡るともう古い家並みが続く道が始まり、このあたりは
「ならまち」として街並みを生かした資料館などがある。 奈良町というの
は地名ではなく、今御門町(いまみかど)など付近の町の総称したもの。
 「月刊小さな旅」・奈良町紹介リンクへ








そこに小さな祠があり、「上ツ道 伊勢街道」 と看板が出ている。
この南北の道が上街道にまちがいない。

猿田彦神社 (道祖神)平城天皇の時代に元興寺境内にあったが、
類焼で現在の位置に移されたもの。
 道の向かいに 街の驛 がある。
その脇を通って南へ歩く。虫籠窓のある古い家屋が多く建ち並んでいる。




 「砂糖傳」 砂糖を扱っており、和三盆など日ごろ見かけない砂糖
を売っている。
住居として使われてる家ばかりでなく、他にも漢方薬の店や、蚊帳、
すだれなどを扱う会社を見かける。
さすが歴史の街。売っているものが違う。
奈良町物語館、奈良町資料館がある。

 下段左は 藤岡家住宅 跳ね上げの床机が残っている。
軒先で夕涼みをしたり、街道を行く人が足を休めたりしたのだろう。
 下段中・右は格子の家(リンク:動画あり) 元興寺町
 あいにくまだ9時前だったので入館できなかった。 入館料は無料。




 元興寺町を過ぎると東に扇湯(銭湯)の煙突が見える。
南から北上する行軍のときはそこで銭湯開始!するのもいいだろう。

井上町で信号を渡り中辻町へ入る。










 奈良町振興館
 奈良の伝統産業である蚊帳の製造業で、安政2年創業の勝村商店の分家として大正初期に建てられた。
今は改修して地域文化の振興を目的としてオープン。2階の応接間は社交の場としてその面影を今に伝えている。

 西隣に京終天神社がある。その南にはJR桜井線の京終(きょうばて)駅がある。
 肘塚(かいのづか)町を越えJR桜井線のすぐ東側の道に沿って出屋敷町を過ぎる。


出発後1時間後の9時ごろ。北永井町の風景。 このあたりは池が多いが農業用水として利用されている。
街道の家並みが尽きると、田んぼ沿いの道となる。



9:20ごろ柴屋町の帯解寺に至る。このあたりは寺門町のためか古い造りの家並みが続く。
縁起によると、9世紀、文徳天皇の御妃染殿皇后(藤原明子)に長い間子が生まれなかったが、
帯解子安地蔵菩薩に勅使を立てて祈願したところ御懐妊され、後の清和天皇をご安産された。
これにちなみ伽藍を建立。大和名所図会にも描かれている。

上の手水鉢は 四代将軍、徳川家綱の寄進。(寛文3年3月/1663年)。

帯解寺を後にする。田中町を過ぎると、蔵之庄町から天理市となる。


蔵之庄町の街道風景 
上ツ道では、古い家屋のほとんどが二階の部分で隣家に接するところが張り出してる。
名称は分からないが、おそらくうだつと同様、隣焼を防ぐ防火壁としての意味ではないだろうか。



楢(なら)町にはいる。 楢神社
法被を着たちいさな子供が手を引かれて境内へ入っていった。 奉祝例大祭 の幟がある。

櫟本(いちのもと)町の道標。
山野辺の道  左たつた@@ (基部が埋まっている)とある。

櫟本町の郵便局を過ぎて、県道192号線と上ツ道
の交差するところ。
西に10m寄った道が街道のつづき。
写真はこの地点で南側を臨んだ場所。
 一方通行の標識があり、道幅も狭いので、一瞬戸惑う。
ここから100mほど南で西名阪自動車道の高架をくぐる。

写真・下段中の道の向こうに見えるのがその高架。
手前には古い家並みが続く。






(写真・左)
虫籠窓が横に長いのが珍しい
今も雑貨屋が営まれている。

櫟本町のこの街並みはよく
保存されている。

ここで10時になる。
近鉄奈良駅から徒歩2時間
の距離になる。





「馬出」(うまだし)の街並み

 上街道(上ツ道)と高瀬街道の交わったところで古くから市場が開かれ、
商業の活発だったことから「市場」という小字名がついています。
 上街道から東方へ高瀬街道に沿ってのびた部分を馬出と予備、主に
大和高原(福住方面)から薪炭を載せて下り、この地で荷をおろし、帰り
に食料品や日用品を買って帰る人馬で賑わったところです。
 また、荷を運ぶ馬をつないだ「馬つなぎ」の遺構も残されており、昔は
流通の中継地として栄えたところです。   天理市







石上(いそのかみ)町
 石上市神社ちかくのお稲荷さん。水路脇に小さな祠がある。
正一位@@@@ (たぶん稲荷) 側面には 安政七年 とある。



街道は田部町でゆるくカーブを描き妙幸寺方面に直角に折れて、南下する。
(写真上・中)のタバコ屋が角に当たる。(写真上・右)一時停止ラインのある道が直角に曲がるポイント。
そこからまた南下する。
田部町と別所町との境の道にあたる。


(写真左)
別所町、天理教 東本詰所この
あたりから、巨大旅館が多く目立
つようになる。

(写真右)
筑紫詰所前のカーブ道を、通なりに
沿って行く。







 田部町からJR天理駅前のある川原城町のあたりはこういった長期の宿泊
施設が各地域ごとに設けられている。規模といい宿泊施設の数といい、さすが
行政区画の名称が天理市となっているだけのことはある。
 日々、地域コミュニティーで志を同じくする人たちと集まり、年に何回か観光
バスでこの本山へやってくるのだが、宗教の一派とはいえ、なんだかそれは
それで楽しそうな気がする。
参詣を目的にしながらも、実はしっかりと旅を楽しんだ江戸時代のお伊勢参り
にも通じるものがあるのかもしれない。

天理教のホームページには「陽気ぐらし」というテーマが掲げられている

また日本史辞典によると・・・
天理教: 幕末に起こった教派神道のひとつ。1838年、大和国の中山みきが
霊感をえて立教。みずから天理王命と称し、呪術による民衆救済を行い、農民・
小市民に布教。神職や明治政府に圧迫されたが、1908年独立の教派として
公認され、奈良県丹波市町(現・天理市)に本部を置き、全国的に教線を拡大。

神道がでてきたところでちょっと脱線。
 街道には古くからの神社仏閣があり、建築様式を鑑賞するのも楽しみのひとつ
だが、お参りをするときには、道中の無事を祈った昔の人の気分を味わうのも悪くない。
天理教は神道の一派だが、神道そのものは宗教というよりも、有史以前からの
日本人の風俗習慣のようなものであると最近思い至った。
 無宗教を自認しているひとでも、初詣に行ったり、年始にはなにか清新な気分
になることがある。 そういった日常の風景はごく自然に日本人の中に溶け込ん
でいて、自覚することがないくらい身近なものではないだろうか。
仏教が大陸から伝わったころ、そこではじめて当時の日本人はものごとの考え方
や、感じ取り方が、仏教というロジカルな思想との対比によって初めて気づいた
ものらしい。 そこで記録の必要性を感じ、記紀などが編纂されていったという説
すらある。

 初節句や七五三には親は子供を神社へ連れて行き、車には魔よけ(交通安全)
のお札を貼り、チャペルで結婚式を挙げ、お坊さんにお経を読んでもらう。
 こういった日常の風景を、無宗教を自認する一般的な現代の日本人でも、特に
宗教活動としてはとらえられていないだろう。
しかし、これをイスラームの人など、食事制限はある、毎日5回も定時に礼拝をする
ような気合の入った一神教信仰の方々はどう思うだろうか。きっと噴飯物である。
また、キリスト教文明諸国の人に「日本には”エイトミリオン ゴッズ”(やおろずの神)
がいる」なんてまじめに言うと、「なーんだ、アニミズム(自然崇拝)の国かぁ、意外に
アフリカといっしょじゃん」と軽蔑されそうである。

ところが、21世紀をすぎて経済はグローバル化が進み、人も物もボーダーレスの
傾向が拡大している現在、中東では新興国家の十字軍がイスラム国家のひとつ
と戦争をした。 名目はどうあれ、イラクの政治形態がどうだったであろうと、アメリカ
の流儀に従わせるという側面は抜きがたく、イスラムの人たちはこれを宗教戦争
としてとらえている。
インドネシアでも首都制圧後も義勇軍の応募が続いているということはその証左
であろう。
 経済が発展し、文明が進み生活が便利になることは快適なことで、よいことである。
 しかし、一方で酸性雨、オゾンホールなど国家を超えた地球人としての共通の
問題があり、さらに食料問題、国家間の貧富の格差など、グローバル時代ならでは
の問題も同時に進行しつつある。 こうした地球環境の問題を思うとき、アメリカ流の
資源消費型の繁栄を、いったいどれくらいの人数まで、地球が許容できるのだろう。
すくなくとも全地球人が享受することは不可能だろう。

 神道には自然崇拝という側面があり、自然の恵みを人が分け与えられ、自然に
感謝するという感覚がある。
自然はねじ伏せて克服するものではなく、畏れ敬う対象であるという感覚である。
思想というより、アニミズムに近いけれど、21世紀の新しい考え方にも沿うもの
ではないだろうか。

神社は、なかなか侮れないのである。


 街道である。道にもどる。
天理駅へつづく大きな県道25号線を渡り、
川原城町から丹波市町へ入るとき、横断歩道
を渡ったさきに道はそのまま続いていない。
右か左の南へ続く道へ入るのだが、10mほど
東よりの道(写真・左)が街道である。

駅に近いこともありマンションや新しい住宅も
あるが、その間には虫籠窓ある古い家屋も
多く残っている。



写真上下とも丹波市町の様子。 郵便局の向かいに市座神社の鳥居があり参道が延びている。
鳥居は昭和三年奉納のもので、灯篭の台座には奉納者の名前が記されている。
台北市の岩井という人の名があるが、これも歴史のひとつだろう。



 先へ行くと急に道幅が広がり虫籠窓のある家屋を両側に
挟んで屋根掛けがある。
馬つなぎかと思ったが、それほど古いものでもなく、軒が
文房具屋から張り出していた。
 それにしても不思議な雰囲気である。










 勾田(まがた)町へと進む。

 路傍のお地蔵さん。
道路工事の際に、一箇所にまとめられたものだろう。
ちゃんと花が供えられている。

このあたりで11時を過ぎた。









三昧田(さんまいでん)町の風景。
このあたりは眺望が開けていて、農道のようになっているので、街道から外れていないか心配になってくる。
 畑とそれを売って作られた工場がある。


三昧田町と福知堂町との境で東へカーブする道に八坂権現がある。


そのすぐ南に藤棚が設えられていて、碑と説明板があった。
座るのによさそうな石も配置してある。
−−−−−−−−−−−−−説明文より−−−−−−−−−−−−−−−−−
草臥(くたび)れて 宿かる比や 藤の花

「歩きくたびれて、そろそろ宿を借りなければと思っていたところ、ある家の門辺に、
夕暮れの色にまぎれず紫色の藤の花が咲いている。それが旅にあるもののわびし
い心に沁みいるばかりであった。」と、暮春の旅情が詠まれている。

貞享四年(1687)江戸を発って故郷伊賀上野で越年した芭蕉は、翌年三月弟子の
杜国とともに吉野、高野、紀伊、大和、須磨、明石を巡って京へ入った。この六ヶ月
の旅を綴ったのが、「笈の小文」で、この句はここに収められている。

 道中、芭蕉、杜国連名で旧友に送った手紙によると、当地では在原寺、石上神宮
に詣でたあと、桃尾の滝へも足を延ばし、「・・・淡培地、やぎと云処、耳なし山の東
に泊まる。”ほととぎす 宿かる比の藤の花”(下略)」とある。
この句が初案だったのを、”草臥(くたび)れて 宿かる比や”と詠嘆的表現に改め、
余情深い現行の句ができたと言われている。
 なお、この句碑は文化十一年(1814)の春、三輪山下芝風来庵雪酔 によって
建立されたものである。                    天理市観光協会

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 カーブの先を南へ曲がり、兵庫町へ入る。














 道標があり、 「右なら は(以下埋没)」

その前の細い道の手前に「元官幣大社 大和神社
南へすぐ(直ぐ)一丁」とある。

正面の鳥居がある参道とは別に、この道は境内へ入るわき道にあたる。


大和神社に到着 11時45分ごろ。
 (写真・下) 大和(おおやまと)神社 の境内




神社の縁起によると・・・
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    大和大明神
               日本最古の神社  大和(おおやまと)神社
           祭神  大和大国魂大神 (やまとおおくにだまのおおかみ)
           八千矛大神 (やちほこのおおかみ)
           御歳大神   (みとしのおおかみ)

まほろばなる大和平野に長い森を列ねて鎮座する神々の主神は、崇神天皇六年まで
皇居内にまつられていた日本の大地主(おおとこぬし)である。
この神が大和大明神として交易、農業、工業、商業等、産業の啓発と繁栄を司り、式内
明神大社として祭られたのである。
四海平穏に、国内諸行を繁栄させ、国民をお守りくださる御神徳は、伊勢神宮と並ぶも
のである。
往時、わが国に文化をもたらした遣唐使に御守護を賜り、交易、学問を奨める神様とし
てもあがめられ、人々の参拝も繁かった。
万葉集には「好去好来之詩」として数多くうたわれている。以後、政治経済の発展にも
御神徳がいよいよ広まってくる。
戦艦大和に当神社の分霊が祭られていたことも周知のことである。

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お参りする女性3人組み。
一緒に参拝したときに緊張して小銭入れから最後の百円玉を
賽銭箱に入れてしまい、御籤(100円)を引くときに、小銭がなく
両替していただいた。

御籤は大吉だった。

その後、祝詞のようなものを読み上げていた。
只者ではないようだ。







 本殿北東にある祖霊社
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 国土の主と言われる大国主命はじめ信徒
祖霊が鎮まる。
添えて戦艦大和をはじめ第二水上特攻隊に
乗り組み沖縄決戦に起死回天を計り給いし
護国の英霊を祀る。
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大和神社を参拝し、参道を東へ向かい成願寺町に入り、フサギ塚古墳の手前の道を南へ行く。
矢矧塚古墳を過ぎる。
 そろそろ昼ごはんにしようと、県道169号線に出て、大型リカーショップ やまや で弁当とビールを
買い求める。

県道わきで弁当を広げるわけにも行かないが、
地図でみると400mほどさきの称念寺そばに
東海自然歩道トレイルセンター がある。

駐車場完備、トイレ、コインシャワー室、テーブル、椅子、お茶など
至れり尽くせりの設備の上に、近くの出土品の展示もある。
館内は自由に無料で利用でき、清潔で気持ちの良い場所だった。
 ここは山野辺の道の途中にあり、次回山野辺の道を歩くときにも
ここに寄りたい。



ここで弁当を使い、トレイルセンターを
後にする。出発は13時半
ここで万歩計は22,920歩をカウント。

写真・右は 崇神天皇陵
前方後円墳の堀にそって遊歩道がある。

ここで県道51号線を200m西へ行き
街道に戻る。



街道と交差する辻に屋根掛けした柱を発見。
説明板によると...

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長岳寺五智堂 (重要文化財)

 長岳寺の飛び地境内に建つ、方一間の小さい建物である。
中央には太い心柱を立てた極めて珍しい構造で、続に真面堂とも呼ばれ、
『大和名所図会』では傘塔と記している。
心柱は欅材を用いた丸柱で、その四方には受木を出し、梵字をきざんだ額を掲げている。
額の梵字は南に、宝生如来、北に不空成就如来、東に阿?(あしゅく)如来、西に無量寿
如来を表し、心柱を大日如来に見立てている。建立年代は明確ではないが、鎌倉時代末期
と考えられ、長岳寺の伽藍から離れた街道沿いに建てていることにも重要な意義を持つもの
と思われる。
そのため参詣人や街道の通行人の恰好の目印となり、親しまれてきた。 天理市教育委員会
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上は柳本町の街道風景。 本当にこの街道には古い家並みがよく残っており驚かされる。
このあと、桜井市へ辻町から入っていく。

農業用水池のほとりにさりげなく道祖神が民家の片隅に鎮座する。



巻野内でJR桜井線 巻向駅南150mで跨線橋をわたる。 14時ごろ。春の午後の穏やかな日差しがさらに長閑。

「歴史街道」の標識の向こうに見えるのは箸墓古墳
街道からはこんもりとした鎮守の森のように見えるが
上空写真からは完璧な前方後円墳の形が見て取れる。

(倭迹迹日百襲姫墓) やまとととひももそひめ

箸中から芝への道。 駄菓子屋さんに掲げられた旗。桜井市では同じ旗をたまに見かけた。
「ナポ君の家で〜す」とあるが、表札ではない。


芝の町内の小橋のあたりに北池、
弁天池がある。
桜と山が池に映っているのが綺麗。

かなり古い常夜灯。常夜灯は街道のしるし。

上ツ道(上街道)としてはこの後も南へ伸びていくが、今回のWalkingは お伊勢参り計画のコースで、
奈良駅から長谷寺を目指す。
かつて、大阪方面から暗峠を越えて来た伊勢参りの人々がたどったであろう道は、
芝から東南へ向かうコースを取る。

引き続き 初瀬街道 編をご覧ください。