第5回 暗峠街道(くらがりとうげ)  南生駒 - 東大阪  2002年10月30日  

江戸時代の石畳の残る道

大阪と奈良を最短距離で結ぶ街道で、暗越奈良街道としては
起点を玉造として暗峠の府県界まで約7.4km、そこから
南生駒までは約6km。

Walkingのコースとしては南生駒から東大阪の峠道の終点
までの約8kmがお勧めのコース。


近鉄生駒線・南生駒駅に午前11時前に到着。地下ホームを東側へ出ると、昼ごはんの
仕込みにコンビニを探す間もなく、駅前に弁当屋を発見。
お茶と弁当で400円だった。や、安い!
いつものコンビニおにぎりとはちょっと
違う暖かい弁当をデイパックに入れると、
昼ごはんが楽しみで背中も気持ちも
温かくなる。


そこからすぐの竜田川を越えると信号機
あり、幅2、3mほどの道を住宅街の中を進む。
100mほどで左手に生駒南小学校が見えてくる。









峠付近には家があり、この道は小中学生の通学路でもあるらしい。
歩いていくと坂道が急で、息が切れてくる。ここを毎日通学で上り下りするとはたいしたものだ。

途中にあった新しい横書きの道しるべ。 『暗越奈良街道峠
まで約2キロ』 とある。
人家もまばらになってくると竹やぶのトンネルがあり、乗用車
がかろうじて竹をこすりながら通れるくらいの幅になる。
しかしこれでも国道308号線。おそるべし3桁国道。

横を通る車もこれまで2,3台と少なく、古い民家も多いうえ
に、急な坂道が続きここ独特の街道風景が楽しめる。










崖の脇に石仏が祭ってある。 『石造阿弥陀如来立像 文永7年(1270年)の銘』と説明文にある。
道中の事故や追いはぎの犠牲者を祭ったものか。
このあたりは木が覆いかぶさるような狭い道が続いている。往時は土の道であり、もっと木が茂って
いただろうから、昼なお暗い場所が続き、この峠の名がついたのだろう。
暗峠の名の由来を想像しながら歩いていくと、(上段中央の写真)すぐあとに突然往復2車線の
コンクリート舗装道路が出現する。 やっぱり国道だったんだ。










息を切らしながら舗装道をさらに上っていくと、生駒側の街並みを見下ろす展望
の開けた道となる。
景色に見とれながら歩いていると、突然犬が近寄り、鼻先で手をつついてきた。
そばに2,3軒の民家があり、そこの飼い犬らしい。鼻先でじゃれついてくるが追い
払いながら相手にせずにいると遊んでもらうことを諦めた様子だが、数メートル走
ってはこちらを振り返り、「ついてこい」と言っているようだ。
バウリンガルがあればきっとそう言っていたに違いない。
いったいいつまで先導役を務めるのか、というくらいに20分ほど犬と一緒だった。
こちらは坂道に息が切れハアハア
いってるのに、さすがに犬である。ぜーんぜん平気のようで、久しぶりに群れの
部下を率いるリーダー気分を味わっているのだろう。
あたりには、近くに棚田があり、遠くに奈良の街並みも横たわる。稲刈り前の季節
はまた稲穂がそよぎ風情があるだろう。
しかし、それにしてもこの道を本当に小学生が通学するのか。
その脚力やおそるべし。 はあはあ。

この棚田の風景を過ぎると信貴生駒スカイラインの高架下があり、手前には庭先
で喫茶店を営業する家があった。
そこでは先ほどエンジンをうならせて追い抜いていったアベックの車が高架下の
幅の狭さに諦めてUターンしていった。
この辺は地図にも「車両通行困難」とある。 「国道」だが、旧道をあなどっては
いけない。
そしてそこを過ぎると実にあっけないくらいに写真でよくみる石畳の景色
(下段左の写真)にたどり着いた。

中:道標
安政六年 と記されている

右:道標
『これより北 
鬼取山元薬師 十二丁』
とある。



左:石畳

中:地蔵堂

右:常夜灯





この石畳は江戸時代大和郡山藩 柳沢家の本陣(河内屋)があったので行列が
ぬかるみなどに滑らないように敷かれたものといわれている。
 しかし今では100mほどしか残っていない。
東大阪市による案内看板によると・・・
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暗越奈良街道と暗峠
 河内平野を横切り生駒山地を越えて、大阪と奈良側を結ぶ街道としては、
北から中垣内越(古堤街道)・暗越(奈良街道)・十三峠越(十三街道)・
北八尾街道(亀ノ瀬越)などがあり、これらとは別に枝道としていく本もの
山越の道が古くからありました。
 この中で、生駒山頂の南側に位置する鞍部・暗峠 (標高455m) を越
える暗越奈良街道は、大阪と奈良間を最短距離でつなぐ道で、8里8町
(34km)あり、日下の直越の道とともに奈良時代以前から利用されてきた
古道のひとつである。
とくに江戸時代に入って、この道は本街道ではなく、脇往還としてならは
もちろんのこと、大和・伊勢間をつなぐ旅客・貨物の重要な交通路として
発展しました。街道の難所・暗峠には石畳が敷かれ、『河内名所図会』に
のせられているように、”河内屋”、”油屋”など20軒ちかくの茶店、旅籠
があり、伊勢参りの人々でにぎわいを見せました。
   現在、国道308号線。  東大阪市
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 平日ということもあり、行き交う人も少ない峠道だが、かつてはここに
20軒あまりの茶屋や旅籠があったとは。
移動手段が足だった時代のこのあたりのにぎわいも、今では往時を偲ぶのみ。
伊勢参りの人々の賑わいを想像しつつ大阪側への道を進む。











大阪側からRV車が石畳の道へ入ろうとしていたが、車両幅と道幅が同じなので迷った末に諦めた。
車でここへ行くのはやめたほうがいい。(付近には駐車場もない)

ここで下ってしまうと景色のいい場所で弁当を食べるという楽しみがなくなるので、
寄り道して”府民の森なるかわ緑地”
へ行く。よく整備された自然遊歩道で、ときおりハイカーとすれ違い。「今日は寒い
ですね」などと声を掛け合う。
場所的に大阪平野を見下ろしながら弁当を使えるところがあるはずだがなかなか
見当たらない。
万葉の森(万葉集にでてくる木々を配した公園)の東屋がようやくわずかに眺望が
開けたので、ここで昼食。
駅前で買ったサービス弁当はチキンカツだったが、魚フライにしか思えない。
安いしうまいのでどっちでもいいのだけれど。

格安弁当に満足し、一服してもとの峠道へ戻る。
大阪側はくだり道となるが、勾配が生駒側よりきつい。上段中央の写真で、
遠く霞んで見えるのは大阪市街であり、この標高が急勾配で大阪平野に続く
ため、これから先はところによっては信じられないくらいの急な坂になっている。
路面が凍結したら車は岩にぶつかるまで滑っていくだろうし、人間でも一度
ころぶとすぐにはとまらないくらいの勾配である。
 左の写真で、ぶれているのは足を交互に動かせず
スキップ状態でブレーキをかけながら歩いているためである。
この後さらにきつい傾斜の道もあり、デジカメを撮って
いるどころではなくなる。
全体にコンクリートの滑り止め月の道だが、これが
土や石でできていた当時はすごい難コースでは
なかったろうか。 そこをわらじに杖で背中に重い
荷を背負って歩いていたなんてすごすぎる。
といっても自動車が普及するほんの数十年前まで
はそんな光景が見られたのだろう。
かつては谷川の側だったろうと思われる石の
切り立つあたりに、”遭難者の碑”があった。
さもありなん。 合掌。

それにしても、峠から大阪側に通学する児童はほんとにいたのだろうか。おそるべし。

 下り終えた街道道を東大阪側から写したもの。
目の前には近鉄奈良線 額田駅-枚岡駅間の
高架がある。大阪側から上るには写真の一方通行
 の標識の狭い道を登っていく。

 なだらかな下り坂を行くとお堂があった。 (左下)
お堂の割りに敷地が狭いが、老木がこのあたりは
昔は木々が取り巻いていたことを想像させる。
かつてはこれから伊勢参りに行く人々が道中の
安全を祈ったと思われる。お堂が宅地に押しやられた感じがして痛ましい。

雰囲気のある古道はここでおしまい。
このまま府道702号線 
大阪平岡奈良線とつづく。

ウォーキングはこの後もまだ
続くが、古い家屋などは見当たらない。
旧街道は紆余曲折して高麗橋
までつづくが、途中でトレース
できなくなってしまったし、日も
傾いてきたので、中断して地下鉄
高井田駅でおしまい。

メーターは 23,700歩 でした。