第4回 孝子越街道  泉佐野 - 孝子峠  2002年10月26日  


   どこか懐かしい景色に会える道

孝子越(きょうしごえ)街道としては起点を泉佐野市鶴原
4丁目の旧紀州街道からの分岐で終点を和歌山県の県境、
孝子峠(標高85m)とする。




午前10時半、南海本線・泉佐野駅で下車。関空方面へ歩き、栄町の商店街
アーケードを左へ。
この街道は海岸と平行に進むルートだが、海岸部は開発が進んでいるところ
もあり、神野清秀著・大阪の街道で記されている目印が無くなっている箇所も
あった。おおむね府道250線 (鳥取吉見泉佐野線)が相当する。










りんくうゲートタワーを左手に見ながら(写真上段左)、JR関西空港線の高架(同・中)
をくぐり松原2丁目、羽倉崎3丁目から田尻町へ入る。
道幅は一定していないが、狭いところは車の行き違いができない程度であり、おおむね
3−4mの幅の道がつづく。










りんくうエリア開発の進む泉佐野市から田尻町へ入ると、昔からの家並みが多く見られる。
土蔵が残っている民家も目立ち、今も利用されている。

つくり酒屋のシンボル「杉玉」が掲げられた”田原酒造有限会社”
田尻町嘉祥寺にある。

(写真下段左)は横に入る路地を覗いたもの。
古い家並みが旧街道沿いだけでなく奥にも続いている。
2階の通りに面した場所にしつらえてある虫籠窓(むしこまど)は
雲形であり、地域によって特徴がまとまっているのがおもしろい。

(写真下段右)は懐かしいタバコ屋さんの造り。
歴史の風雪に耐えると、昭和期の建築として”たばこ屋造り”などと
歴史書に載るのだろうか。 いまはタバコ屋のおばあちゃんと共に消えゆく風景のひとつ。











田尻町の市民会館の前に出ると、『田尻町戦没者追悼式々場』の看板が
でていた。 戦後50年以上を経てなお、こういう式典が行われるのは地縁
の人たちが動かずに生活してきた証拠だろう。大阪北部の衛星都市では
まず見かけられない。
一礼をして通り過ぎる。

この会館をすぎるとすぐ左手に洋館が見えてくる。
どうやら民家ではなく入れるらしい。































ここは田尻町立 ”愛らんどハウス” で、一般に無料で開かれている。
入り口の石碑によると。
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             田尻町歴史館の沿革
 この建物は大正12年に大阪合同紡績鰍フ元社長である谷口房蔵氏の別邸として建築された
ものです。
 谷口氏は文久元年田尻に生まれ明治大正時代を通じて関西繊維業界の中枢を担った人物で
あり、生まれ故郷である田尻に紡績という産業を興し、それによって田尻は飛躍的な発展を遂げ
たのです。
 時代が変わり昭和19年に大阪機工鰍フ所有となり、その後昭和43年に辻野恒彦氏が買いう
けされ、 永年に亘り建物の保存につとめられ田尻町の歴史の継承と文化の向上に深いご理解
とご協力をいただき 平成5年に田尻町が取得 愛らんどハウスと名づけました。
 田尻の歴史を刻んだこの建物が空港開発記念の年に開館し、これからも発展する田尻町のシン
ボルとして住民の皆さんに末永く愛され、活用されることを願っています。
                                                    田尻町
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入り口に案内の女性がいて、記帳すればだれでも見学ができる。
コンサートなどの催し物も行われる。

和洋折衷様式の建物にはなぜかノスタルジーを感じるのは、映画『千と千尋の神隠し』
のあの独特な世界に覚えるそれと通じるものがあるのではないだろうか。
洋館と和洋建築が1,2階でそれぞれつながっており、次の部屋がどうなっているのか
想像がつかないのでわくわくするような雰囲気がある。 案内係りの人の話では、素材に
贅沢を凝らしているのが特徴であり、左下の廊下の写真だが、檜の一枚板を端から端
まで使用しており、天井も同様な造りになっている。
たしかに、贅沢な造りであり、こういう目立たないところに贅を凝らすというのは粋であり、
また繊維業で栄えていた往時の羽振りのよさを思い起こさせる。
和洋折衷の館のほかに庭には茶室がしつらえてあり、庭に下りて見学できる。










そこを辞して再び街道に戻る。写真中央の分岐点があるがこれは左へ行くのが正解。
古い街並みの続き具合で判断できる。 現在の海岸線は府道250号線からおよそ
500mほど海に伸びておりかつてはこの街道から浜辺が見えていたと思われる。

このあたりの行政区分は海側から山側に各町村が平行して並んでおり、すこし歩く
だけですぐに行政区が変わる。
田尻町を2kmほど歩くともう泉南市にはいる。










醤油工場(ヤマヌマ醤油)があった(写真・中)。現在は稼動していないような雰囲気
だが、地方のこうした醸造業が活躍して地域の独自性が残る方がいいと思う。
全国どこでも同じというのは便利な反面味気ない。

阪南市・舞 で府道250号線は国道26号線と
合流する。
平日の昼間だが渋滞しており、付近の山は頂
まで宅地に開発され、渋滞の国道脇を歩いても
雰囲気がないので、南海本線・箱作駅から
海がわへ折れ、漁港の防波堤で遅い昼飯に
するべく港へ。












写真・右 小さくて見くみえないが、赤い灯台の向こうに関西空港島がうっすらと
海面にへばりついている。
写真・中 同じくよく見えないが左手に空港連絡橋、陸地の先端にりんくうゲート
タワーが写っている。
写真・左 は防波堤でかもめを見ながらおにぎり2個の昼飯を食って満足した人
の様子である。
むやみに歩くとあまりおなかが減らないのである。
それにしてもけっこうな距離を歩いているはずだが、いっこうに関空が視界から消えない。


漁港を後にして、”箱作ぴちぴちビーチ”の海沿いの道
へコースをとる。
なかなか斬新な名称だが、さらに”淡輪ときめきビーチ”
が連なる。
だれもぴちぴちしていない秋のビーチだが、公園が整備
されて思いのほかいい散歩コースになっている。






















ビーチの途中で阪南市から岬町に移る。淡輪ときめきビーチの奥は”せんなん
里海公園”となっており、ビーチバレーの立派な施設がある。このあたりでは
「ビーバレ」というらしい。
写真下段中は大阪府青少年海洋センターの建物で、そばではシーカヤックの
小学生向け講習がされていた。
マリンスポーツ好きには岬町は魅力的な町のようである。
この公園沿いの道は本来の街道からは外れるが、浜道の雰囲気を味わえる
のでよしとする。

淡輪ヨットハーバーを越えて上り坂への急カーブのところに
鳥居があった。黒崎の浜 とある。
紀貫之が土佐守の任を終え、京へ帰る船旅の日記、
「土佐日記」に「和泉の灘に出て、黒崎の松原を過ぎて
箱の浦に到着した。」とあるゆかりの地。
時は承平5年(935年)季節は旧暦の2月1日、今の
だいたい3月初旬のころ。



以下、このくだりの原文を引用。
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二月朔日、あしたのま雨降る。午の時ばかりにやみぬれば、和泉の灘といふ所より
出でゝ漕ぎ行く。海のうへ昨日の如く風浪見えず。黒崎の松原を経て行く。所のなは
黒く、松の色は青く、磯の浪は雪の如くに、貝のいろは蘇枋に五色に今ひといろぞ足
らぬ。
この間に今日は箱の浦といふ所より綱手ひきて行く。かく行くあひだにある人の
詠める歌、 「玉くしげ箱のうらなみたゝぬ日は海をかゞみとたれか見ざらむ」。又船君
のいはく「この月までなりぬること」と歎きて苦しきに堪へずして、人もいふことゝて心
やりにいへる歌、 「ひく船の綱手のながき春の日をよそかいかまでわれはへにけり」。
聞く人の思へるやう。なぞたゞごとなると密にいふべし。「船君の辛くひねり出してよし
と思へる事を。ゑしもこそしいへ」とてつゝめきてやみぬ。俄に風なみたかければとゞまりぬ
              土佐日記へのリンク
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今では松原も残り少ないが、松の色、磯の波頭の白さは当時と同じ。
こちらからはマンションが眺望をさえぎるが、マンションの上からは紀淡海峡が
絶景であろうと思われる。

みさき公園に沿って回り込むとまた国道26号線に出る。
南海多奈川線・深日町駅で高架下を抜け、国道を和歌山方面へ。

民家もしだいにまばらになり、大型トラックや自動車
だけが走る道となり歩道はあったりなかったりという
状態。遠くに見える丸い山が重なり、景色はなかなか
変わらず、日も暮れかけて疲れがでてくる。

このあたりの線路と街道の中間の畑のなかに日本
三筆、橘逸勢の墓と、その娘の墓があるとされている。
父の屍を背負ってここまできて葬り、その後、娘はこの
村に住んだという。
でも、なぜ日本三筆のひとりがこんなさびしい場所で
亡くなったのだろうか。
(※橘逸勢:遣唐使に従って入唐した平安前期の政治家。842年承和の変
の首謀者として捕らえられ伊豆国に遠流の途中、遠江国(とおとおみ:静岡県
西部)で病死。) ということは静岡から娘がここまで背負って来たのか?



ようやく孝子峠に着いたのは午後5時前。
(写真・左) 日も翳ってきて、ススキの穂も
手を振っている。

(写真・左下)
線路の向こうの山裾にトンネルがあり、そこをを
抜けると和歌山県。












本日の行軍は約37,000歩
さすがに疲れたが泉南の魅力に
触れたいい小旅行だった。




更新: 2021/5/25 リンク切れ修正