第2回 西国街道(山崎街道) 箕面区間  2002年10月15日  

北摂の田園風景を想像しながら

阪急北千里線・北千里駅から阪急宝塚線・石橋駅のコース。
スタート時刻がすでにお昼の遅い出発だった。
南に行こうか、北に行こうか、早く来た電車で選ぶことにしたら、
北千里行きだったので、西国街道の続きを歩くことにした。

北千里駅から国立循環器病センターの前のみち、府道119号
線を北上し、国道171号線に出る。 この国道は京都へ向かう
産業道路で交通量が多い。
幅広の往復4車線の道路だが、街道の推移から推測しても、
山崎道と重複する箇所はあっても一致しているわけではない。
分かっているポイントは箕面市半町(はんじょ)2−8の半町本陣跡・瀬川駅であり、
後は実地調査で憶測しながらとなる。
171号線南側歩道を西宮方面へ折れ、わき道を地図で確認しながら行く。
上の写真はこのあたりから南を望んだもので、新船場の繊維団地が遠景にある。
丘陵地帯になっており、以前は田畑や竹林であったものが、万博にともなう北摂
の開発で姿を変えたもの。
それでも手前の田園には稲穂の波がひろがり、北摂ののどかな風景が残っている。
新御堂筋(国道423号線)の高架下を抜けると萱野にでる。
道路標識に『萱野三平屋敷』とでていて、以前から気になっていたのでとりあえず
ここを目指す。

標識を左に折れて入っていくと、小さな古びた
地蔵堂がありこのあたりの
人々の歴史が浅くないことを教えてくれる。
さらに行くと、萱野三平屋敷跡が現れた。

萱野三平とは何者なのか?・・・




説明文によると・・・
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    大阪府指定史跡
    萱野三平旧邸
 美濃の旗本大嶋氏の所領である椋橋荘(現豊中市大島町)の
代官を務めていた萱野重利の三男として、延宝三年(1675)当地に
生まれた三平重實は、十三才の時、大嶋出羽守の推挙により、
播州赤穂の浅野内匠頭の小姓として仕えるようになりました。
 元禄十四年3月14日、江戸城松之廊下で、内匠頭の吉良義央に対
する刃傷事件後、三平は大石蔵助を中心とした仇討ちの同士に
加わろうとしましたが、三平を推挙した大嶋氏へ迷惑がかかることを
心配した父の反対を受け、元禄十五年(1702)一月十四日、当地
において自刃し二十八才の生涯を閉じました。
 「涓泉」の俳号で多くの優れた句を残した文化人でもある萱野三平
の生誕、終焉の地である旧邸は、地元自治会の努力により保存継承
され、昭和四十八年、大阪府の史跡指定を受け、平成四年箕面市へ
寄贈されました。   箕面市教育委員会--------------------











忠臣蔵の人だったのですね。 もっと知りたいかたはこちらのリンク先を参照ください。
当日は休館日で、中には入れませんでした。


しかし、前の通りには秋の祭礼の準備がなされ、
古くからの町の雰囲気があり、171号線に並行
する形でこの道を西へ進む。








民家の石垣の角に高札があり読んでみる。
(写真左の白い立て札に説明文がある)

芝村の高札場跡
 江戸時代、放火やキリスト教、偽金銀の使用
の禁止等のお触書きを掲示するために、村々に
高札場が設置されました。
 この旧芝村の高札場は、西国街道と村の中を
通り抜ける道が交差する、人通りの多い場所に
立地しています。
 また現存しませんが、萱野地区の西国街道沿いには
、一里塚があったことも推理されています。   箕面市教育委員会

いま歩いてきた道が街道であったことがこの高札場跡で分かった。一里塚でも現存して
いれば街道の復元は容易だが、国道の開発、周辺地域の開発でほとんどは取り除かれ
ているのだろう。


格子窓の旧家も点在する。旧街道沿いも街並み
日差しもやわらかく、田畑の風景ものどか。









パノラマ写真風
旧街道から南東方向
を望む。






標識にしたがって行くが、牧落5丁目の府道43号線と国道171号線
の交差点で北西への分岐を入るのが街道だが、道を間違いそのまま
国道171号線を行ってしまい、瀬川・半町駅所跡へは行けなかった。
ここはまた次の機会にたどりたい。







資料によると・・・
半町本陣跡:
最近まで長屋門が残っていたが取り壊された。今の梶山邸がかつての脇本陣の
一部。西隣には瀬川本陣が明治時代まで残っていたという。
寛永年間(1624−44)には瀬川駅が設けられており、後に隣接する半町との
立会(共同)駅となった。
しかし、西国大名の参勤交代の増加により人足調達が大きな負担となり、また
馬借も公用では収益も上がらないので、酒・炭・木材・銅などの民間物資の輸送
で繁栄してきた池田に対して仕事を回すように要求して争ったが、
敗れて衰退していった。  (大阪府の歴史散歩 上 P152 / 山川出版)

半町から1.5kmほどで石橋に至る。
資料(大阪の街道・神野清秀著)によると、
 池田市石橋1丁目の阪急宝塚踏切(石橋駅南)西側の辻を西へ入るところに
かつて橋が(狭い溝に)架かっていた。それは明治40年まで幅二間(3.6m)、
長さ一間の一枚石の橋が架かっていた。
その石の中央に浅い孔があるが、それは「七卿都落ち」の閉じ三条実美らが立ち
去ったあとに馬の足跡が浅い孔となって残ったものだという話が伝わっていると
『北豊島村誌』に記されている。その石は現在、石橋南小学校内に保存されている。
その石の橋から地名の「石橋」が生まれたのだという。

実際に地図と照合しながら歩いたが、石橋駅南は国道171号線の高架になって
いたり、川(溝)があった後も見つけられず場所を特定することはできなかった。

今回は半町あたりで道を間違えたので次の機会にそこから続きの街道を探っていきたい。





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