第1回 西国街道 (山崎道)(2002年9月13日)

西国街道とは: 古代山陽道の後身で、大筋で一致する。西国街道は
通称で近世の公称は山崎通。宿駅制度の整備に伴い、六宿駅(山崎・
芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮)が設けられていた。東寺から西下し桂川
を渡り、久世・向日町・神足・下植野・円明寺などの村々を通る街道を含
んでいた。そのため近世の西国街道は参勤交代の大名の公道であった
ばかりでなく、庶民の交通要路でもあった。
起点は、東寺口で、久世・向日町・神足・下植野・円明寺を経て大山崎
から山崎(島本町)に入り、広瀬・芥川(高槻市)、道祖本(さいのもと)
(茨木市)、半町(はんぢょう)(箕面市)、石橋(池田市)をへて豊島南
2丁目の新開橋西から伊丹市大河原に入り、西宮神社東北で大阪からの中国街道に合流する。 
(参考文献:「大阪の街道」 神野清秀著 松籟社)

ということは、古代においては西国諸国からの租庸調などの納税もこの道を通って京へ送られたのだろう。
室町時代には、大山崎八幡宮の油座は西日本の油(明かりとして利用)の専売権を持ち大いに発展した。
その菜種油の輸送には淀川に接し、街道沿いにあるという地の利も生かされたことだろう。
近世江戸期には島津さんや毛利さんら西国大名がの参勤交代の近道として実際に通っていたのである。
庶民も使っていたけど、大名行列である。いったいどんな立派な道だったのだろう。
そして、幕末ものなどを読むとよく京都、大坂を行き来しているが、はたして当時の人の距離感覚はどうだった
のだろうか。
現代では30分、280円(阪急京都線)程度で移動できる通勤圏内である。
しかし、陸蒸気もなく、古代は駅場・伝馬制があったにしても、自家用馬(?)もなく、徒歩での移動が普通で
あった。歩くのである。ちょっと梅田から河原町のBALビルへ行ってCOCORICOのケーキでも食べようとか、
仕事帰りに大文字の送り火を見物しょうなんて気軽には行けないのである。と言うわけで実際に歩いてみることにした。

街道を探す
だいたい国道171号線の近くを通るらしいのだが実際の山崎道はすこしずれたところにあるらしい。
サイトを検索しても通しで地図を使って紹介してあるものは見当たらない。
市単位で西国街道を紹介してあるものはあるものの途切れがちであり、後は自分で推測しながら行くことにした。
しかしいきなり明治以前の人の真似をするのは行き倒れる恐れがあるので高槻から京へ上る。
9:15 阪急高槻駅で下車。 線路の西側にめぼしをつけて線路に平行して北上。
国道171号線沿いを歩いていたが、どうも違うような気がする。古道にしては道幅
が広すぎる。道を作るときにはおそらく荒地か田畑であったろうと思われる。
そうするうちに川を横切る場所があった。
だいたい、橋はもともと道があるところに架け替えられるものであるから、西国街道
であった道にも橋が架かっているはずだ。
高槻市萩之庄手前の檜尾川で見渡すと左手の西側の名神高速梶原トンネルの
山すそにも橋が見える、どうもあのあたりがあやしい。川の土手沿いに山の方へ
向かうと日吉神社があった。
神社の古さとロケーション的に言って山崎道は近いぞ。
住宅の間を抜けると舗装道路に出た。





ここは府道67号線となっており、道幅は車の対面通行が
かろうじてできる程度である。
西国街道にしては狭くないだろうか。
しかし、しばらく行くと「西国街道コース」と記されている
道標があった。
途中の寺社仏閣など歴史的な場所の案内も記してある。

古くからの神社仏閣は、もともと古道に面しているなど
交通の便がないと建造も参拝もできないから、現存する
神社仏閣から古道を推測するという手もあることに気づいた。
左の大理石に陶製のりっぱな案内図は島本町のもの。









三島郡島本町のあたり畑山神社、妙浄寺、菩提寺
をそばに通り左手にはJR京都線が走る。

このあたりでは左のような標識が案内してくれてる。
しかし、自治体単位での案内表示なので市をまたぐと無くなってしまう。
道幅は狭い。だいたい街道の幅の平均は4−6m程度であるらしい。
ちなみに府道67号線の速度制限は20km。車はやめてやはり
歩いて訪れたい道である。



桜井でJR線の高架下を抜ける。
右の道標は(左 西ノ京@@@@  右落谷)とある。
左へ曲がりそうになるが、右に曲がり高架下を抜けるのが正解。


広瀬3丁目で左手には水無瀬神宮がある。








(楠公父子決別之所) 桜井駅跡。(島本町桜井1丁目))
案内文によると・・・-----------------------------------------
奈良時代のはじめ、平城京と各地域を結ぶ交通を整備するために駅屋が新設された。
そのうち、京から西国へ向かう道筋に設置された駅家の一つに「摂津国大原駅」が
続日本紀に記されている。これが桜井駅のことを指すものと考えられている。
駅(駅家)とは、大化改新以降、幹線道路に三十里(約16km)ごとに設けられたもので、
馬など旅に必要なものを備えた施設である。
 京と山陽道をつなぐ未知は西国街道と呼ばれ古来栄えた街道筋であるが、桜井駅の
実態についてはよく分かっていない。しかし、延元元年(1336年)足利尊氏の大群を
迎え撃つために京都を発った楠正成が、桜井駅で調子の正行に遺訓を残して河内へ
と引き返らせたことが太平記に記されている。このため桜井駅は 「父子決別の場」
として広くしられるようになった。 (大阪府教育委員会)
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ただしこれには異説もあるようだ。



山崎醸造所を左手に見ながら進む。
京都、大阪の人には電車からのおなじみの景色ですね。
ここを過ぎると、島本町から乙訓郡大山崎町となる。





室町中期のお堂  写真右下の陶板の解説によると・・・・・・---------------
当社のはじまりは不明ですが、当地が古代攝津国と山背国(後の山城国)の関所
である山崎の関の跡といわれ、関守神または辻神を祭ったのが起こりではないか
とおもわれます。この関所は当時、交通の要であり、時には朝廷が兵を派遣し守ら
せるほど重要なところでした。しかし、平安時代のはじめのころには関は廃止されて
いたらしく、その跡地には関戸院という施設が置かれ藤原道長や平家一門など貴族
や官人の宿舎に利用されていたようです。現在の本殿は室町時代中ごろに建てら
れたと思われ、大阪府の重要文化財に指定されています。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)または
大智明神(だいちみょうじん)
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その年代物のお堂は左上の写真の格子の向こうにある。保護のためにお堂のまわりに
屋根がかけてあるのでちょっと分かりにくい。
室町期の建造物が無造作に街中にあったりするのが関西の醍醐味!

1時を回っていたので、このお堂を見ながら室町時代のこのあたりの様子を想像しながら
コンビニで買ったカレーパンを食べる。
歩いてると運動のせいか、意外と食欲が細くなっているのでこれで十分。
それにしてものどが渇く。小休止は一時間に一度と決めているがそのつどペットボトルの
飲み物がなくなっていく。往時の旅人も山際に涌く岩清水を飲んだのだろう。


名神高速道の高架をくぐることには市街地となっており街道の雰囲気は失われている。
そのまま行くと長岡京市へ入ってすぐに友岡で府道10号線(大山崎大枝線)と府道67
号線に分岐するのが山崎道はじつはここで67号線の東側、調子八角でひとつ東側を通る。


長岡京駅西の神足の町並み。土蔵が残っていたりする。
このあたりは67号線は幅が広くなっているが、西国街道ではないので、
道路標識には「新西国街道」とある。












ここを抜けるとまた交通量の多い新西国街道にでるが600mほどで
小畑川に架かる一文橋へ出る。 (いちばん上の写真が一文橋)
一文橋の由来: --------------------------------------
 京と摂津西宮を結ぶ西国街道に架かるこの橋は室町時代ごろに造られた有料の橋
とも伝えられる。 大雨のたびに流され、その架け替え費用のため通行人から一文を
とり始めたのが橋名の由来といわれる。
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橋を超えると向日市上植野町に入る。

かなりへたってきたが京都市までもう少し。
物集女町を過ぎるとようやく、西京区。ついに京都入り。






西京区に入って2kmほど行くと国道9号線と交差して桂にたどりつく。

このへんに来ると疲労のあまり歴史どころではなくなる。
時間は午後3時半。”ラーメン横綱”に入る
あー、うまかった〜。 また食いたい。






”ラーメン横綱”を出て東へ行くときに、なんと道端でお風呂に入っている女性を発見!
なんだなんだと近づいてみるとガス屋さんのディスプレイでした。
びっくりしたなーも。

最寄の駅は阪急上桂駅ということで探す途中に高い煙突のある建物が路地裏にあった。
 銭湯かも・・・、角を覗いてみると銭湯だ!やった着替えも持ってきているし、これで
完璧だと思いきや、お休みでした。
疲れた足をいたわりながら上桂から乗車。
桂駅で急行に乗り換える。
朝下車した高槻駅まで電車でわずか15分。 乗り物の偉大さに驚く。運賃をもっと払って
もいいような気分。
電車で京都へ行くと、着いたところからさらに目的地を目指すわけだが、今回の行軍では
京都にたどり着くまでで一日楽しめた。こんな日帰り旅行もありだなあ。癖になりそう。
というわけで、次回につづく。


 (西国街道(山崎道)はルートの調査中です。改めて昆陽宿から京までのルートをご案内致します。)


更新: 2021/5/25 リンク切れ修正