第 19回 長尾街道  堺東(北花田口) − 香芝・二上   2003年11月2日  (更新:2005/11/07)


 長尾街道は古代の大津道と比定されている。
堺から東方向へ向かい奈良へ入る道で、大和街道、奈良街道
とも呼ばれていた。
起点は堺市戎之町、紀州街道と交差する花田口で、現在では左
の写真のように大通りを跨ぐ陸橋、府道12号線の高架が交わる。

当日はスタートが遅く、11:10に南海電鉄堺東駅からスタートした。
駅前の府道30号線を150m程北上すると、北花田口の交差点に出る。
ここから東へほぼ真っ直ぐに進んでいく。

 ちなみにこの地点から南南東1kmに仁徳天皇陵がある。



















交差点から200mほどで方違神社に出る。
方違は平安文学では「かたたがえ」と読ませるが、この神社では
「ほうちがい」神社と読ませている。
神社の裏手には百舌鳥耳原北陵(反正天皇陵)の前方後円墳がある。
この日は七五三の参詣が多く賑わっていた。

 このあたりは「三国ヶ丘」というが、これは律令制国家時代の摂津、
河内、和泉の三国の境界に接するところから付いた地名であり、
方違では陰陽道の説により、天一神・金神のある方角を避けるために
その方角へ向かうときには、前夜に他の場所で一泊して方角をかえて
行く。この三国に境界を接する特長から、この地が方違に便利で
あったのだろう。





































−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 御祭神 (四座)
八十万魂神 (天神地祇)
素戔嗚尊
三筒男大神 (住吉大神)
息気長足姫命(神功皇后)

  由緒
崇神天皇の朝、物部大母呂隅宿禰をして、此地に素戔嗚命を祭らせ給ふ。神功皇后三韓より
御凱旋し給ひし時、住吉大神の御神教に依り神武天皇丹生川上御斎祷の故事に倣はせ給ひ、
此神地に於いて親しく天神地祇を祭り、皇軍の方忌除を祈り、忍熊王等の賊兵を平げ給ふ際、
菰の葉に植土を包み粽となして奉り、方違の祈祷をなし給ひし霊地なり。
後、応神天皇の朝、素戔嗚命、住吉大神、神功皇后を合祀し給ひ、方違宮と称せらる。
以上の如き御由緒に依り、当社は昔より方災除の神として崇敬者全国に遍く、普請、転宅、旅行
等の場合、当社の神符及び粽を受け、方除祈祷の修祓を望む者多し。

 方違神社
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 JR堺市駅の南側
を通り、商店街を抜
ける。












 街道沿いに銭湯発見。金岡温泉。

生活感のある商店街を抜ける。































−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 長尾街道
 堺のまちでは漁港を中心としていたころ、魚などと農産物とを交換していました。その後南ばん貿易
などで日本一の港町として栄え、商業の中心地に、摂津、河内、和泉、大和、紀伊へと通じる街道が
発達しました。
 長尾街道は、古代には大津道、江戸時代は大和街道ともいわれていました。起点の花田口を東へ
すすむとゆるやかな坂道の三国の坂があります。この地名はこの付近が摂津、河内、和泉の国境に
あたることに起源をもつもので、さらに、方違神社、新堀、蔵前を経て、長尾村(奈良県當麻町)に至り、
竹内街道と合流します。堺と奈良の交易ルートとして利用されました。
                                    平成十二年四月  堺市
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誰に遠慮してか「蛮」の字をひらがなで、「南ばん貿易」と表示してあるが、歴史用語なのでちゃんと
記すべき。 これも一種の言葉狩りか、いぶかしい。


 蔵前町の様子。














写真:左) 蔵前町の愛染院
そこを過ぎると、府道28号線を架かる陸橋
から東方向を望む。
北側(写真右手)が船堂町、南側が蔵前町。

 長尾街道は起点より藤井寺市までは、ほぼ
直線の道をたどることができる。








 堺市南花田町。
 道ばたに道標が移動して二本まとめてある。
大泉緑地の北500mにあたるが、ちょうど松原市
との境界線に沿って街道は延びる。
ちなみに大泉緑地のすぐ南側は竹内街道。
長尾街道と1.5kmほどの間隔を保ち、藤井寺市
までほとんど平行に伸びる。



写真:下)
道標 明治三五年のもの




























 南花田町

写真:右) 常夜燈の崩れたもの。
火袋の上半分が無くなっている。


写真:下)
南新町五丁目で堺市から松原市に変わる。
線路の北側は、近鉄南大阪線・布忍(ぬのせ)
駅。
駅の東西には小規模の商店街がある。



















写真:左)
松原市文化会館と手前のため池。

写真:右)
松原市役所の案内標識。
ここから約300m先の一本南側の道沿い
に近鉄南大阪線の河内松原駅がある。







−−−−−説明板より−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 長尾街道は、古代、大津道と呼ばれ堺の大小路から松原市、藤井寺市、柏原市をへて、
竜田越えで大和に通じ、竹内街道とともに古い大道です。この街道を基点として丹北郡の
条里が展開していました。平安時代には南海道となり、道筋は栄え、布忍には駅家が設け
られました。大正十一年、大阪鉄道(現近鉄南大阪線)が開通するまで堺と大和を結ぶ物流
の道でした。

 この辺りは、上田町遺跡と呼ばれ弥生時代から中世にかけての集落遺跡です。
その範囲は、阿保、上田、田井、城などの地域に及び、新在家流小宇に当時の地名が今も
残っています。
丹比野と呼ばれたこの西除川流域の平地に、古くから人々が住んだ証となった遺跡です。
南に隣接して反正天皇(五世紀)の丹比柴籬宮址と伝えられる柴籬神社があります。
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松原市上田1丁目のあたり


 タイルできれいな散歩道に作ってあり、往時を偲ぶ古地図を写した
プレートが設けてある。
村々の水利がからみあった用水路がかつて流れていた場所にも
記念碑が残されている。
 稲作が産業の中心であったころ、水利は時に村々が対立するような
まさに「おまんまの食いあげ」に繋がる切実なものであったことを
想起させる。

















































松原市場を過ぎ、河内松原駅の北西50mほどの位置で、長尾街道は
中高野街道と交差する辻に出る。












































辻の様子。
街道が交差する場所に
阿保茶屋があった。

忠魂碑も健在だ。

写真:左)
長尾街道を進行方向
(東側)に見る。

写真:右)
中高野街道方向(南側)
を見る。



 上田の辻を東進すると、阪和自動車道の
高架が見えてくる。

高架下をくぐりさらに東進する。
















写真:左)
西野々の銭湯、常磐温泉。
(13:54)

さらに東進し、一津屋へ入る。













 東除川を渡ると、藤井寺市へ入る。

 橋を渡り700mほどで、あの倭の五王、武と云われる雄略天皇の
御陵が南側にある。










 雄略天皇陵
円墳

街道の北側は住宅街
がつづく。










昼食を摂るにも適当な公園はこれ
までなく、雄略天皇陵を見ながら
立っておにぎりを食べる。

 ここを過ぎるとすぐに羽曳野市に
なる。































 藤井寺市小山でこれまで直進していた長尾街道はT字路に出る。
左写真の電柱の左下に地面に半分埋まっている道標が上の写真
(中・右)である。
慶応三年の銘がある。

写真の右側へ曲がる(南進)。






















岡1丁目の様子。
町内会の祝儀・不祝儀
の金額を張り出した
掲示板。
泉南の孝子越え街道
でもよく見かけた。








 長尾街道は岡一丁目で南進の後、藤井寺
市役所の角を東へ曲がる。

しかし、このあたりは街道の道筋がはっきり
しなかった。
道なりに進んでいくと、藤井寺駅前北商店街
に出た。
藤井寺工業高校の南側を通り、沢田一丁目に
出てしまった。

たぶんこの道は長尾街道からはずれている
と思う。
この近辺には、誉田に応神天皇陵、仲津媛皇后陵
があり、長尾街道、土師ノ里駅を挟んで、允恭天皇
陵がある。




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*教えていただいたルートを昭文社・近畿圏3万分の1・文庫版地図の
自分の引いたルートと比較すると、藤井寺市役所のあたりの長尾街道が
まず、はっきりした。
さらに、近鉄南大阪線・土師ノ里駅の先、石川橋を渡ってすぐの道が府道
12号線ではなく、北側に100mほど旧道が残っている。
ナショナル自転車の南の府道12号線がカーブするところで、旧道は直進し、
すぐに直角に北上し、府道を横切り、府道の北側の道を進み、近鉄大阪線
の線路を渡り、国豊橋の南たもとまで続く。



澤田八幡神社

境内を進むと、境内の
途中で踏み切りがあった。
近鉄南大阪線の踏切。












藤井寺インターチェンジの南側で、長尾街道
を見失ってしまったが、史料では、府道12号線
に出て、西名阪自動車道、藤井寺インターチェンジ
の南側を通り、林二丁目、四丁目へと進む。















 允恭天皇陵
 この先、国府(こふ)、土師ノ里駅の東100mほどの辻で、
長尾街道は東高野街道と直交する。












石川に架かる、石川橋
を渡る。
(15:09)
対岸は柏原市。
このまま府道12号線
を東進し、近鉄大阪線を
越え、国道165線と合流
し、河内国府駅の東側
を南下する。
写真:下)
近鉄大阪線・河内国府
駅前にある石碑。























 国道165線を進み、
西名阪道の高架をくぐる。













地図では、大阪教育大学の北東で、
奈良県香芝市との境界のあたりで
細い道が記してあるのだが、先へ
行けず、街道は消失していた。

この、ほとんど歩道のない危ない道
を歩く。
ガソリンスタンドの先で、国道から
北側の細い道へ降りることができた。






 近鉄大阪線の北側
の道。
香芝市田尻。
すぐ南の地名が穴虫で
ある。
「穴虫越え」というのが、
竹内街道資料館の
パネル写真にあったが、
もしかしてこの道は、
違っているかも、と疑問
を抱きつつ歩く。




関屋に入り、関屋駅を
すぎると坂道になる。
倉や家並みに街道風情
を感じる。

八幡神社





























穴虫の地蔵
と道標。













 穴虫のこの先は開発で、急に広い道路があったりと、様変わりしており、
さらに事前調査の資料が不十分で、街道を特定できなくなった。
追い打ちをかけるように日も傾き、本日の街道歩きは最寄り駅の二上駅
で終了とした。
 この場所から東へ1kmの香芝市市役所の近くに二上山博物館がある。
長尾街道についてさらに調査をした上で、この続きをたどることにする。
竹内街道資料館には、このあたり一帯の街道を立体模型にマメ電球を
並べてディスプレイしてあった。
もういちど竹内街道資料館へ行く必要がある。

本日の歩数 29,656歩  1、184.5Kcal

(17:10)



(おまけ)

2005年5月3日に家族ドライブに、竹内街道資料館をコースに入れて、
資料館を再訪した。

例の立体模型。
ライトが点灯している道が、長尾街道。
奈良のでか字まっぷにルートをすばやく書き込む。

本日のコースはおおむね間違ってはいないようだ。
香芝市の平地で2箇所直角に曲がる箇所があるのが特長。




更新:2021/5/25 リンク切れ修正