第18回 山陰街道(篠山街道) 亀岡市馬堀 - 篠山市京口橋  2003年10月31日

        駅跡が残る古代からの道 山陰道を歩く

  律令体制が整えられる飛鳥時代、全国は五畿・七道に行政区分
 が分けられた。この七道は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道
 ・南海道・西海道で、本来は地域をさしてる。
 前回、京から馬堀までを歩いたが、今回は馬堀から篠山までの約40km
 を一気に歩く。所要時間は休憩を20分ほど入れて約10時間だった。 

  秋晴れの朝の中を京都へ向う。JR京都駅で山陰線へ乗り換え、本日
 のスタート駅、馬堀へ到着したのは7:10だった。
 小倉山のトンネルを越え、保津峡にでると既に霧が立ち込めて、降り立った
 馬堀も霧の中にあった。
 県道402号線を亀山城の方向へ進む。
 亀岡市篠町馬堀


  西川橋手前の道標2基。

 左上は 寛政年間のもの。
 いずれも 「愛宕山」 と彫ってある。 このあたりは愛宕山に近いので道標としての
 意味もある。 伊勢参宮の道でよく見かけた「大神宮」の道標と同じ使いかたである。
 しかし、奈良でも「愛宕山」と彫った道標があるので調べてみると、中世に愛宕山信仰
 が修験者によって各地に広められたとある。
 詳しくは 京都愛宕研究会の「愛宕山と愛宕信仰」を参照。


 西川橋を越え、年谷橋をすぎる
までにも虫籠窓、蔵のある旧家が
街道沿いに並ぶ。










  亀岡城のお堀から城跡を望む。
 天正10年6月朔日亥の刻、明智光秀はここから本能寺へ向けて軍勢を発し、翌二日
 に本能寺で主君、織田信長を討った。
 この後江戸期に入り、亀岡城は丹波亀岡藩の城として天守閣が設けられた。
 亀岡城について、日本の城郭史研究の第一人者で、広島大学教授の三浦正幸先生が、
「丹波亀山城は安土城に代表される望楼式の天守から、層塔式にかわった日本初の
天守で、のちに築かれた江戸城や復興された大坂城などのモデルの城。現存すれば
間違いなく国宝級の城だ」 と発表し注目されている。

しかし、残念なことに亀岡城も明治の御一新(明治維新)で他の多くの城と同様に破却
されてしまった。 払い下げとなり幾度か持ち主が変わり明治中期に教派新党系の
大本教が買取り、現在は天守閣跡などの史跡は大本教の敷地内にあり自由に入る
ことはできない。  (大本教についてのリンク
なお、丹波篠山街道 として、司馬遼太郎の「街道をゆく4 郡上・白河街道 堺・紀州
街道ほか」 の中に収録されている。




 それにしても、明治維新で政体が大きく変わったという事情は当然考慮するにしても、
全国の多くの城郭が民間に売却され、破壊されたことは惜しくてならない。
城郭の無い「城跡」は多く存在して、たいていは学校や公園となっている。
これはてっきり大東亜戦争末期の空襲によって焼かれたものだと思っていたが、
ざっと調べただけでも米軍による日本焦土作戦の被害で焼失した城郭よりも
多くの城郭が明治維新後に姿を消している。

 近世以降、日本人を大きく変えたのは明治維新と大東亜戦争の敗戦、このふたつ
だと思っている。 政治体制の変革にとどまらず、庶民の暮らし、意識までも含めた
変革をもたらした二大事件
 日本人は、ある条件がそろうとそれまでの文化を、実にあっさり捨ててしまう。
こうした観点から、いずれ日本人のメンタリティについても調べてみたい。
この150年の間にすでに2回やっているので、なぜそうしたかを探り、自覚することは
3回目を防ぐことにつながると思う。


 亀岡市役所の手前にある道標。 「すぐ穴太寺」




国道9号線を渡り、
平和台公園北側を
行き、京都縦貫道
に出たところで、
高速道路沿いに北上
する。
10分ほどで国道372
号線が西側に出会う。







 
 国道372号線
篠山街道をここでは
灯篭街道」と名づけている。
ちなみに篠山市よりでは
「デカンショ街道」と謳う。
亀岡運動公園・陸上競技場を
南側に見ながら通り、犬飼川を
渡る。
このあたりは歩道も整備されてる。
朝霧がまだ残る風景。
畑のコスモスが霞んで見える。




嵯峨までは晴れていたのに、保津峡を越えてから霧が出ていた。
亀岡のあたりが盆地性の気候であることがよくわかる。



















 稗田野神社 (ひえだの)(09:00)
街道から東側に100mほど入ったところにある。流造り(切妻平入り)の本殿。庇が一方に張り出した
この様式は寺院建築の影響。一見前殿、後殿を伴った八幡造りのようだが、前殿は後の建築に見える。

神社の説明板より------------------------------------------
       延喜式内 稗田野神社
 当神社は和銅2年(709)の創建でその後平安時代
には延喜式(927)に記された古社。御祭神は保食命
(うけもちのみこと) 大山祇命(おおやまずみのみこと)
野椎命(のづちのみこと)の三柱で五穀豊穣の守護神。
鎮守の森中央の土盛は弥生時代以来の祭祀跡。神殿南側
堀内の京式八角石燈篭は鎌倉時代の作品と言われ旧法で
国の重要美術品の指定を受けていた。8月14日に行われる
4社合同の夏祭りは、「丹波佐伯郷の燈篭祭り」と呼ばれ
食物の豊作を祈願する平安朝以来の大祭として伝えられている。
平安時代に御所より当社に下賜された「五個の神灯篭」は
当時の稲作の様子を五場面に表わし神輿や大太鼓とともに
五穀豊穣祈願の神事の中心となり燈篭祭りと呼ばれる所以である。
また、背丈30cmほどの日本最小の串人形で浄瑠璃が
演じられる。京都府より無形文化財の指定を受け国の
無形文化財記録保存の採択されている。
 尚当神社は鎌倉時代より神宮寺として栄え稗田八幡宮
とも称し疫病退散・健康長寿の霊験あらたかな社として
称えられ又女性の守り神として若い女性の参拝も多い。
最近は悪病退散・癌封じの社として全国より参拝者
も多い。
(保食命は別名豊受大神で伊勢の外宮と同じ御祭神)
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 稗田野町佐伯の交差点。ここで国道372号線から湯の花温泉街へ
アーチをくぐる。
 湯の花温泉は10軒程度の比較的大きな旅館が道沿いに建って
いて温泉旅館の他にこれといった遊戯施設もない。
ここにも大江山の鬼伝説か、桜石伝説として鬼が町のキャラクター
になっていた。 「節分の豆まき」はこの伝説を本に地元名産と相まって
全国に広がったものと云われる。「豆まき」発祥の地。
 温泉スタンドは車で温泉を持ち帰ることができる。
(専用コイン(100円)で100リットル。
コインの販売は湯の花温泉各旅館で購入できる。)
 懐かしいボンネットバスは現役で、「すみや亀峰庵」の送迎バス。
温泉街は歩くだけでもなにやら心楽しい。





アーチをくぐって旅館の
仲居さん風の人とすれ
違い、挨拶を交わす。

 田の畦に入り、途中で
買ったサンドイッチで
朝食とする。5分休憩
























 温泉街と国道372号線が合流する交差点にある道標。
燈篭は火袋の部分がなくなっており連弁の上にすぐ笠
が載っている。
 うまくマッチしており燈篭とは気づかなかった。

ここから100mほど進むと国道と府道731号線の
分岐があるので、北側の方(国道372)へ進む。

通過したのは午前10時前。温泉街を過ぎるころにようやく
霧もなくなり晴れ間が射してきた。







 宮前町の風景
藁干しも終わったあとの静かな田園風景がのどかに広がる。
さわやかな秋空と、眺望の開けた街道が気持ちよい。

 この先写真右手の山裾に明智光秀の首塚を祀る谷性寺がある。
街道から少し外れるので寄らずに先を急ぐ。

























 宮前町宮川
南へ曲がると川西方面へつながる国道477号線。
篠山街道はこのまま直進。
左手の低い山は 半国山
 標高774mで、播磨、丹波、摂津の3国がそれぞれ
半分ずつ眺めることができることから名づけられたという。
春は特にツヅジが美しい。
街道は半国山の裾野を回り込むようにしてい進む。

 このあたりから国道372は旧道と新道に分かれる。
街道はもちろん旧道の方で、新道(整備された直線の
多い道路)の南西側にあたる。




蔵があったり、昔の
住まいを改造した
懐かしい商店が
あったりで、おなじみ
の街道風景がうれしい。

しばらくすると集落も
途絶え両側に木が茂る
さびしい道になる。







 富家稲荷神社
説明板には創建年はないが、稲荷信仰が活発だった江戸期
より遡ることはないと思う。
本殿の唐破風の懸魚など装飾も凝っており、かつてのこの村
の繁栄をしのばせる。

 苔むす燈篭。
杉の青葉の木漏れ日に映え、しっとりとした苔色が
火袋の赤と対比して美しい。






 説明板より---------------------------
 祭神に五穀豊穣、商売繁盛、長寿延命、交通安全を
掌る宇迦之御魂(うかのみたま)大神、佐田彦大神、
大宮能売(おおみやのめ)大神、田中大神、四大神
(しのおおかみ)の五社をお祀りする富家稲荷神社は、
稲荷大神を崇敬する近郷の人々により創祀建立されました。
当社本田、拝殿等の建築に際しては、造成にあたり
巨岩が出てきたり、篠山街道の改修工事が重なったり
して困難を極めたようで、竣工が十一ヶ月ほど遅れた
ということです。
明治三十六年九月には冷泉為記伊勢神宮大宮司が
玉串料献納されるなど近郷の人々だけでなく多くの人の
崇敬をも集めています。
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 現在は訪れる人もほとんどない様子で、奉納殿、本殿ともに
傷みが進んでいる。
 鳥居の前には立入り禁止の意味か、竹さおがさえぎるように
横に通してある。
 農業という地縁的な経済基盤を共有していた頃には
こうした各地の村の鎮守も、共同体の中心として機能していた。
近現代の産業構造の変化は、こうしたうち捨てられた神社にも
現れている。

 しばらく人が立ち入った気配のない境内は、うすら寒く、妖気
すら漂ってきそうな雰囲気であり、お参りもそこそこに退散
する。
(10:52出発)




 10分ほど歩くと街道沿いに鳥居があり、街道からすこし
入ると神社があった。 (11:06)
説明板----------------------------------
 日慈谷神社
 半国山の東麓、旧山陰道沿いに鎮座する日慈谷神社
は伊射奈岐命、伊邪那美命の二柱をお祀りしています。
当社の創建は不詳ですが、社伝等によると鎌倉時代の寛元
元年(1243)に本殿を造営したと伝えられています。
江戸時代の享保七年(1722)に時の神祇官卜部兼敬が
天皇に奏上して「小一位日慈谷大明神」の神階を賜っています。
現在の本殿は江戸時代後期に建立された一間八代流造柿葺の
建物です。




また、元禄十六年(1703)に境内社として八幡宮が建立
されました。
さらに本殿の三方を囲むように十二の自然石が立てられて
いますが、これらは春日神社、神武天皇、金毘羅神社、
八坂神社、塞神社、秋葉神社、出雲神社、北野神社、大原
神社、稲荷神社、愛宕神社、天照皇太神宮を勧請しお祀り
されたものです。
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 「屋上屋を架す」というが、これは文化財修復費用が行き
渡らない状態。まだ屋根掛けしてあるだけでも良い方だろう。
こういう神社にはお賽銭を奮発したい。





 拝殿正面の石
お百度石だろうか、それにしても意味ありげな形をしている。

街道に面した鳥居には「享保十一年」と彫ってある。











 東本梅町中野をはさんで1kmほど府道452号線と重なる。
写真左手が半国山、右手には田園が広がり、集落がいくつか
続いている。
歩いていると太鼓の音が遠くから聞こえてくる。
秋祭りの練習だろうか。
 しばらく行くと、 街道沿いの家屋を撤去した空き地で、幼稚園児
が手作りの神輿でお祭りをやっていた。
あどけないお祭りだが、村の祭りが本来の姿だった頃のことを想像
する。
 熊本の山鹿灯篭祭りを20年前にことがあるが、観光客が多いのに
祭り本来の姿を留めている貴重なものだと思い起こす。
若い女性は頭に紙製の燈篭を載せ、町ごと辻ごとに思い思いに夜通し
踊り、淡い燈篭の明かりが幻想的で姿もあでやかで、往時の男衆は




はたしてどんな思いだったであろうか。
 こうした祭りは非日常のいわゆる”ハレ”の空間を作り出す。
農本社会であった往時では、日々の地道な農作業と打って変わり
若者はエネルギーを発散させる。参加することで地域共同体の上下、
横のつながりを固める。
 サラリーマンの住む住宅地ではしょせん祭りの真似事しかできないが、
今なお、農業を基盤とした健全な農村では祭り本来の機能が生きて
いるに違いない。

この園児たちも祭りを身近にして育ち、いい伝統を受け継いでもらいたい。






 街道は亀岡市から園部町へ入る。
ふと思ったが、現在進行中の行政改革の流れで、このあたりの市町村
も合併すると聞く。
祖先から受け継いできた村落の地名は、絶やさずに後の世代にも引き
継いで欲しいものだ。











 農業用ため池と思いきや、「山陰道 野口駅跡」の石碑があった。
飛鳥時代(7世紀)、律令国家として地方にも行政が及び、駅馬、
伝馬が中央からの役人の往来に使われていたころのあの「駅」である。
もちろん伝承だが、篠山街道、山陰道の歴史の厚みを感じさせる。
 この道を租・庸・調として米や山の産物、日本海の海産物などを
運んだのだろう。

 この税制を基礎とした律令体制だが、ちなみにいつまで続いて
いたか。 律令体制という私有財産を認めない制度は、有力貴族により
荘園制度で骨抜きにされ、貴族の私兵が実力を持ち、武士の世の中
へ実権が移っていくが、なんと律令制は制度的には明治政府ができるまで
残っていたとは。
( これは 井沢元彦著「逆説の日本史」で教えてもらいました。)



 タイトルからすると突飛な仮説満載のトンデモ本だと思っていたが、
人に薦められて読んでみたら、「目からうろこ」の連続。
歴史ファンなら必読の書。 歴史は懐古趣味ではなく、現在を分析し
将来を予想する生きたものになること請け合い。

 それにしても、社会体制が変わって実情と合わなくなっても律令が
残り続けていたというのは、GHQに下賜された現憲法に手をつけら
れない現代社会とある意味で構造が変わっていないのではないか。
あらためて驚いてしまう。


 船井郡園部町埴生の街道風景




 左写真の標識は
 ↑(篠)山
 殿(谷) →
と読める。
新道が通り、もともと生活道路
だった旧道を自動車が通らない
ように「篠」を削ったものだろう。
この後の標識も同様に「山」
となっていた。
確かに直進すると小さいが「山」
がある。
撤去せずに「山」の標識を残して
あるのが心憎い。

ということで、歩行者は堂々と標識に従い旧国道を通る。
このあたりでちょうど12時になるところ、まだ休憩は取らない。





 南八田の集落
埴生の郵便局の先で200mほど国道372号線と
合流し、また南西方向へ分岐すると、集落があり、
瀟洒な街道風景が残っている。

この先から瑠璃渓へ向かう府道453線が
南方向へ伸びる。(約5kmの道のり)


 左写真
 「清酒 瑠璃乃誉 平田酒造場」
この左隣に酒造場の蔵が二棟建っている。









篠山街道は瑠璃渓へは曲がらずに、街道を道なりに進み
再び国道372号線と合流する。

常夜灯


 集落を過ぎて国道へ入ると民家も途絶え、しばらくは整備された
自動車道になる。

左下写真: 瑠璃渓へ分岐する道を南に見る。
街道は写真右手の方向へ進む。







篠山まで23km。














 園部町 南八田

 国道は山道に差し掛かると車線が減ったり戻ったりする。
この先で道路工事があるため大型トラックの通行がある。

 天引峠へはゆるい傾斜の続く登坂で、カーブが多い。









 天引峠
13:30ごろ到着
ここまでの歩数は
 34,416歩












 峠を下るとすぐに完成間近の新道があり、旧道は通行止め
になっていた。工事中の路肩を歩く。

 左下写真: 西野々 で国道と街道は分岐する。左手が街道。
 右下写真: 原山口バス停の小屋
 バスの本数は少なく、時折地元の人が前を通るくらいで、車両も
ほとんど通らない。
バスは篠山方面からこのあたりで折り返すものが多く、馬堀方面から
は期待できない。バスを利用するなら篠山から歩いて原山口バス停
から戻るか、その逆にするかで、別の日にここから馬堀方向へ歩くなど
二日に分けるほうが無理がない。 とりあえず今日は強行軍で行く。
出発地の馬堀駅側のコンビニで買ったおにぎり弁当で昼食をとる。
 13:52〜14:07 昼食休憩




分岐してすぐに
バス停がある。

西野々から福住に
かけて集落が続く。















































 安口、川原の集落風景
右上写真:
 藁葺き屋根をトタン屋根に改造した家屋は多いが、
そのまま藁葺き屋根を保存しているのは珍しい。

左上写真:
のどかな街道風景になごむ。国道は写真右奥に街道と併走する。


 丹波黒豆を玄関脇で天日干しする風景が多く見られる。
丹波の黒豆は有名だが、ポリフェノールが多く含まれるということで、
最近は大人気。




福住に入ってすぐ、篠山産業高校東雲分校前にある住吉神社。
 説明板より----------------------------------------
 住吉神社
 平安時代の永保元年(1081)丹波国司大江匡房が堺の住吉
神社からご分霊を勧請したものと伝えられ、現在、大阪の
住吉大社は、国家鎮護・航海守護・和歌の神として広く
崇敬されています。
 川筋に出来た村の繁栄を水の神に祈り、匡房が歌人でもあり
お祀りしたと思われます。
都から一品(いっぽん)式部卿邦高親王が参詣したのをはじめ、
仁木城主、籾井城主や歴代篠山城主も深く尊崇しました。
第四代城主、松平康信は、総欅造りの鐘楼を寄進しています。




 左: 境内の紅葉

 右: 鐘楼


















 説明板より--------------------------
 福住の一里塚
徳川秀忠が江戸日本橋を基点にし、東海・東山
北陸三道の一里ごとに道路の両側に塚を設けて
榎や松を植え、里程と休息場としました。
そこで各藩でも、江戸・京への距離を示す一里塚
をつくるようになったのです。
 篠山藩では築城に際し、京街道に沿って大手門
から一里ごとに土を盛り松を植えて道標としました。
ここは三里目の塚で、少し行くと亀山藩領でした。
最近まで両側に松の大木がありました。
補植し史跡を伝えます。 篠山市
 (14:50通過)



 一里塚というのは徒歩旅行者にとって実に役に立つ。
一里が約4kmなのでおおよそ1時間の道程を示す。
福住の一里塚で篠山城大手門から3里なので、あと
3時間の行程を残していることが分かる。
 到着時は日も暮れているはずで、街灯のない昔には
月明かりだけが頼りの道行きになる。
 さらに太陰暦だった明治以前には、月の満ち欠けと
日にちが関連しており、3日なら何月でも三日月、15日
なら十五夜で満月という具合に、電灯の明かりのない頃
には暦は今より実用的な意味があった。






説明板より-----------------------------------
 安田の大杉
 この杉は通称「甚七森」といわれる杉の大樹で、
川原の住吉神社の末社貴船大明神の境内を覆い、
遠くから見ると森のように見える。
高さ33m、根廻13.2m、推定樹齢700〜800年
樹勢旺盛で学術的にも価値が高いと言われている。
                   篠山市教育委員会

根元には注連縄が巻いてある。

街道と国道372号線が再び合流する地点にある。
向かい側にコンビニがあり、そこで「丹波黒豆パン」を買った。

200m先の小野新交差点で国道173号線との分岐があるが、街道は
国道372号線を左手に進む。




 小野新のあたりから「デカンショ街道」の標識が点在する。
篠山市の景観条例で街道風景保全のためにデカンショ街道
は保護されている。
 しかし、虫籠窓のある古い民家は少なく、むしろ福住近辺の
方を街道として保護した方がいいのだが、行政組織が違うの
だろう。
 古い家屋は維持にも費用がかかり、また現代風の住宅と
くらべて快適性でも違いがある。
街道風景の景観に貢献する古民家は、固定資産税を軽減する
とか、補助金を支給するなどの積極的なバックアップがないと
このまま消滅していくと思う。
 財源は日ごろ便利な生活を享受し、田園風景でリフレッシュする
都市部在住者からの税金を当てるのが妥当だと考える。



 有名な神社仏閣だけが文化財ではなく、庶民の暮らしの推移も
脚光を浴びることは少ないが、これも立派な歴史だと思う。
 昭和の風情を残す町へ観光客で集まったり、ビルの中に資料館
として、あるいは集客施設として昭和の懐かしい町並みが再現
されているのを見るにつけ、失った光景への人々の郷愁に共感
する。
 昭和40年代までの日本映画には、一里塚のあるような街道風景
がまだスクリーンの背景に映っていた。
高度経済成長期以後、街道は人が歩く道から自動車道路へと日本の
端々までもアスファルトで覆われ、拡幅により路傍の道標や常夜灯は
半ば埋められたり破却されたりした。
 便利さと経済性優先の陰に、日本人の生活文化までもアスファルトの
下に埋めてしまったような気がする。 このままでいいのだろうか。



説明板より------------------------------------
 山陰道の小野駅跡
小野の地は、古代に小野氏の領地と伝えられています。
平安期に制定の延喜式(律令の施行細則)により、
付近を通っていた山陰道に小野駅(駅馬八頭)が
あったのです。
 駅は古代の三十里(約16km)ごとに設置され、
京都から大江・野口を経て小野に至り、長柄・星角
を通って佐治から但馬・丹後と続いていました。
それぞれに五〜八頭の駅馬が置かれ、駅田を領有して
運営し、官用の駅使のために休息・宿泊や乗り継ぎ等
の便宜を図っていたのです。    篠山市




説明板より---------------------------------
 波々伯部神社 (はうかべ)
ご祭神は、もと祇園天神・牛頭天王で、現在は
素戔嗚尊ほか二神であります。
承徳二年(1098)波々伯部村が京都の祇園社へ
寄進され、荘園・波々伯部保となりました。
そこで祇園社のご分霊を勧請したもので、
丹波の祇園さんと呼ばれています。
八月四日・五日がお祭りで、八台の山車の宮人
と神輿三基の渡御があり、七年毎に二台の胡瓜型
の曳山を造り、十二体の木偶(県民俗)と呼ぶ
繰り人形の奉納があります。
文楽の原形で大変貴重なものです。  篠山市



説明板------------------------------------
 日置の一里塚
 (福住の一里塚と前半同文)・・・
ここは第二番目の塚があった所です。
旅人たちは、神社にもお参りして、道中の無事を
祈ったことでしょう。  篠山市

篠山川の南岸に平行して国道は続く。
このあたりで16時になり、はっきり日が傾いてきている。
篠山入りまであと二里。
日置の手前の上宿で国道と旧街道は分岐する。
国道と別れ、南側の旧道へと進み日置へ入る。




日置の町並み

辻の道標
 左西京
 右大阪
大阪の文字から大正期前後
のものか。











磯宮八幡神社の参道(常夜灯二基)を左手に見るが、
夕暮れが迫り先を急ぐ。

16:30 万歩計カウンタ 48,000歩













 八上の一里塚
日置から2kmほどにある。
あと一里までやってきた。

南側(写真左手)に小高い山(高城山)に八上跡がある。










説明板より--------------------------------------
  市指定文化財 重兵衛茶屋
 ここは江戸時代、京都から亀岡篠山を経由して但馬方面へ
ぬける山陰街道が通貨していたところで、さらにここから小枕
を経由して播州方面へ向かう播磨街道との分岐点にもなっていた。
 こうした関係から重兵衛茶屋は江戸時代、大名の参勤交代の
時や一般旅人の休泊所として利用されていた。
 現在の山陰街道にあたる国道九号線は、但馬方面まですべて
京都府下を通過しているが、この建物はかって市内を通過していた
山陰街道の名残を伝える江戸時代の貴重な文化財である。
                        篠山市教育委員会
日置からここまで2kmほど。重兵衛茶屋で道はカーブし、国道に
合流する。



17:16 夕焼けを見る。夜はそこまでに迫っている。
秋の夕日はつるべ落とし。
車に轢かれないように懐中電灯をヘッドライト代わりに手に持つ。

なだらかな山あいに落ちる茜色の夕日。
篠山街道は重畳と続く低い山々の山裾や峠を越える道だった。
篠山方面に向かっても同じように山々が続く。
こうした変化に富んだ風景は、日本では当たり前だが、海外と比較
すると貴重な風景であることに気づく。







 とっぷりと日は暮れる。
八上小学校の木造校舎。コンクリートの学舎とくらべてやはり趣が
違う。せっかくの写真もご覧のように窓からの明かりしか分からない。













篠山川にかかる京口橋。
橋を渡るとすぐに篠山城址がある。
17:44到着。 万歩計カウンタは54,487歩。
お伊勢参り2日目の道程(57,000歩)に次ぐ記録だった。

写真右中の明かりは王地山公園 ささやま荘
シングル一泊6,000円で、行き倒れそうならここに泊まる予定だった。
さらに歩を進めて篠山市街を歩く余力もなかったが、行き倒れるほど
疲労しているわけでもないので、ここからすこし戻ったとこにある
バスセンターからJR福知山線・篠山口駅へ行き、帰宅することにした。
篠山市街の散策はまた別の日にとっておく。




JR篠山口駅から快速電車に乗り、尼崎乗換えで新大阪まで、乗車時間は1時間10分あまり、運賃は¥1,110。
梅田あたりなら通勤も可能圏内であるほど、篠山は意外と近かった。(歩いたらすごく遠いけど。)

篠山街道のウォーキングはこの篠山口から、あるいは亀岡を起点にするが、どうしても中間地点の交通の便が
悪いので、今回のように一気に歩いてしまうのがよい。
道中は市街地以外にタクシーは見かけなかったし、集落が途切れることも多い。
ハードな反面、国道と併走する旧道(篠山街道)もよく残っており、街道風景を楽しめる。
篠山街道はやはり収穫の秋に歩くのがいいと思う。



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