第13回 伊勢街道 (古市参宮街道) 外宮 - 内宮  2003年4月23日

  大神宮参詣

 内宮(ないくう)と外宮(げくう)の間には古市があり、尾部坂を通る。ここは
間の山(あいのやま)とも言われ、かつては三味線の音も聞かれた賑わった場所
だった。

朝から小糠雨のそぼ降るあいにくの天気だったが、まず麻吉の資料館を見学し、
内宮へ参拝、のちに間の山を戻り外宮へ向う。
外宮から内宮が参詣の順序とするものもあるが、膝栗毛では内宮から外宮の
順序で参詣している。





古市 ・ 麻吉旅館資料館

麻吉の前景
内宮と外宮の間は丘状になっており、その中間の古市が岡の上
にあることが分かる。

上下の写真は鴨居に掲げてあったもの。
下の写真には「伊勢古市 旅館 あさ吉 電話 242番」とある。
玄関脇には人力車が2台、車夫とともに写っている。
大正から昭和初期のものか。
下右は現在の姿。
外観もよく保存されている。

















 朝食。ボリュームもあり昼食分まで食べる
食後に蔵(資料館)を開けていただき、さっそく見学へ。


麻吉は江戸時代には料理屋だった。その後旅館に
営業替えをしたが、料理屋の当時からの什器なども
多く残っている。
部屋を出て玄関の広間から階段を下りて進む。






台所。竈(かまど)の後ろは井戸。滑車が見える。
現在は使われていない。資料館(蔵)は奥の入り口から入る。
かつてはそこに什器が収められてたのだろう。
台所の広さといい、什器蔵といい規模の大きさにかつての古市
の賑わいを見る。

下左)左奥にビールケースのように見えるが、朱塗りのお膳。
天井の梁も太く、造りの丈夫さを感じさせる。
その奥が蔵になっている。

下右) 印半纏。 「麻吉」の文字があしらわれている。
玄関にはこれを羽織り下足をとったり案内したりしたのだろう。

















左) 梁が立派。丁斧(ちょうな)で荒く
削った跡が力強い
奥のケースには重箱が陳列されている。

右) 蔵の中は階段があり3層に分かれ
ている。
現在は旅館では建築基準が厳しく、
こういった複雑な構造の建物は新しくは
作れない。
しかし、個人的には、次の扉の向こうが
どうなっているのかわくわくさせる建築が
大好きである。
屋敷探検の途中で、宿のご主人と会って
話をしたが、「旅館としてお客様の安全
を第一に考えています」とのことだった
が、こういう貴重な構造を極力残して
くださいとお願いした。

麻吉の建物としてのすごさは、蔵の地上階から数えて本館まで木造5階建てという点であり、また屋外の階段を
挟んで別館と木造の橋で渡してあるというのも非常に珍しい。
古い建築に興味のある人ならば、見るだけでなく宿泊もできるこの麻吉はきっと気に入るに違いない。

屋外の階段を渡る橋。
新しく作り変えられているが、風雨にさらされるので傷みやすいのだろう。
ビニールカーテンで保護してあったが雨だったし、これは仕方ない。















多くの収蔵品を鑑賞し、宿を辞した。 入るときは鈴鹿駅方面から伊勢自動車道をまたいで、階段を
上ったが、出るときは玄関を出て右手へ、街道沿いの道へ出る。


古市・参詣街道














街道沿いの家は、切妻・妻入りが続き、他の街道風景とは違った伊勢独特の街並み。
神宮神殿が切妻・平入りなので、遠慮をしてこの形式になったと言われる。
上右) 伊勢古市参宮街道資料館
あべ静江が古市を案内するビデオを見せてもらった。
下段左)昭和初期の錦絵。 「伊勢古市 備前屋 踊之図  櫻花楼」
下段右) 麻吉に有った写真 「伊勢古市 びぜんやおんど」
錦絵を説明していただいたが、お相手を決めるための顔見世の踊りであり、
これくらいの規模の場合、昭和初期で5円、現在の貨幣価値にすると30万円
程度の費用とこのと。 いくら当時は人件費が安かったとはいえ、まさにお大尽
遊びである。
こういう遊びが存在すると、そりゃ旦那衆でも店を潰しかねない。
江戸時代から戦前にかけて、遊びで身上(しんしょう)を潰す話があるが、こういう
資料を見るとなるほど納得できる。
いずれにしても100%ピュアな庶民である私には縁のない世界である。
















ちなみに、備前屋は大手の遊郭のひとつで、この他に杉本屋、歌舞伎
「伊勢音頭恋寝刃」で有名な油屋が古市の三大遊郭として有名だった。
全盛期には妓楼70軒、遊女1000人の町だったとあるから、往時のパラダイス
ぶりが偲ばれる。
「伊勢参り 大神宮へも ちょっとより」 という川柳には本音も窺えちょっと笑える。

高度成長期に日本人の海外買春ツアーが問題になったが、はるばる長旅の先で
こうやって羽目をはずすのは日本人の伝統的な行動パターンなのだろうか。
時代は変わっても民族的な癖が再現されるのが興味深い。


伊勢音頭恋寝刃
(いせおんど
こいのねたば)
遊女お紺と孫福斎
の刃傷事件、
油屋騒動を題材
にした歌舞伎。

いつの時代にも
この手の事件は
ありますな。
実話に基づいた
事件物は現代でも
テレビでやってます。



おはらい町通り (旧参宮街道)


 さて、資料館を過ぎて妻入りの家並を見ながら
すぎると牛谷坂の手前に大きな常夜燈がある。(大正3年)

道を下って左へ折れるとバス道路があり、そこからは
内宮もすぐ。

まず、みやげ物屋などが並ぶ街並み現われ、
「赤福本舗」の前には「おかげ横丁」が新しい。
「赤福本舗」は宝永4年(1707年)創業。
白い餅が五十鈴川の川底の石を、三筋の指の
跡が付いた餡が川の流れをあらわす。
店内では、3個入り230円でお茶付きでいただける。


































神宮内宮

五十鈴川と内宮を結ぶ宇治橋
河原では竹の先に網をつけ、参詣人の投げる銭を決して落とさず受け止めるという、
乞食とも芸人ともいえる人たちがいた。
「東海道中膝栗毛」にも出てくる。同行の京者が弥次さんに「小銭があれば、ちくと かさんせ」と
借りては投げるがみんな下で受け止める。京者は「ゑろふ おもしろいな。 よふけもうけくさる。
もちっとほってこまそかい。」と弥次さんにもっと貸せと催促すると、弥次さんは「コレ京のお人
おめへ 人のぜにばかりとってなげる。 ちとおめへの銭をもなげなせへ。」と断る。
京者はここで吹聴を始める。 「わしが此まい、参宮したときわな、ここで銭五貫か、拾〆ほったわいの。
網やぶってこまそと、ふところに丁銀が一枚あったを ほったらやっぱり網で受けくさった。」
と悔しがりどうして重い丁銀でも網に止まると言うと、下の奴等が「ソリヤとまるはずじゃ。ハテ網の目に
かねとまるじゃ」と茶化される。

古今集の「人の心をいかが頼まん」という句に、紀貫之が「網の目に吹き来る風はとまるとも」
とつづけた。その諺「網の目に風とまらず」を「網の目に金とまるじゃ」とパロディ化している。
書き手の素養もさることながら、江戸時代の読み手の古典に通じた教養の高さに驚く。

ここでの一首は 「なげ銭を あみにうけつつ おうらいの 人をちゃにする 宇治ばしのもと」




現在の宇治橋
長さ役102mの総檜作り。
真ん中は神様の歩く道とされるので歩かない。
普通神社でも石畳の中央は神様の道であり、
人は端の方を歩く。


下の内宮宮中図では、左端真ん中に宇治橋が描かれている。

内宮宮中図は順路として其三から其一まで番号とは
逆の道順となる。
順路としては、宇治橋をまず渡り右へ曲がり、一の鳥居をくぐり角の
手水場で五十鈴川で禊をする。




































左)宇治橋の鳥居
図会左端。
橋のたもとに編受け
人が描かれている。


右)一の鳥居
図会の中心やや
下の鳥居







手水場(ちょうずば)
川に面した石段
図会では右下の
階段。五十鈴川に
面している。

左)図会のアングル
で撮影

右)川べりから上流
方向を撮影



其二では、順路は左の方から右の方へ進む。図の右下に橋が架かっているが現在は存在しない。


































左)二の鳥居
図会左下の鳥居

右)御餞殿
図会では二の鳥居
のすぐ先の末社が
二つ道を挟んでいる
が、その右手の一角
に現在は御札授与所
があり、その隣に
御餞殿がある。





図会中にはその正面、道の右手に屋敷があるが、これは子良館
(こらがたち)。

朝夕の御餞を奉る童女子良と、その父、物忌の父の宿館である。
明治5年に撤去されて現存しない。

左写真はそのあたりの現在の様子。

図会ではそこを川の方へ行くと橋が架かっている。
橋を渡った道が僧尼道であり、そのすぐ左手に風の宮がある。
現在は、それぞれ、風日祈宮橋、風日祈宮 となっている。




写真左)正殿への石段の手前の様子
図会では順路として、突き当たり手前の場所。
中段右のあたりの様子。

ここを曲がると
写真右) 正殿への石段
カメラでの撮影はここまで。










宇治橋を渡ると神域である。 玉砂利はよくならされ、巨木が立ち並び非日常の空間を
形成している。 雨が降るか降らないかという程度の湿り気で、杉の香りがあたりに立ち込め
まさに清浄そのものという空気を感じる。
お伊勢参りのゴールでもあり、石段下で道中を振り返りしばしたたずむ。
写真も撮れないので、よく脳裏に焼き付けるように注意深く見る。
石段をあがり鳥居をくぐり、神妙に二礼二拍手一礼。 正殿は直接見えないようになっている。
現代では人の目を見て話すのは礼儀だが、かつては貴人など目上の人と対するとき
直接見てはいけなかった。貴人の住まいでは御簾で直接見えないようにするなど、直視することは
畏れ多いという感覚がある。 皇室の御先祖、天照大神を祭る内宮では、建築でさえ畏れ多いとし、
貴人に対する礼をとる。
「畏れ多い人(あるいは物)には視線を外す」というのは、日本人の独特な感覚で、それが今なお存在
するのは興味深い。


東海道中膝栗毛の弥次さん、喜多さんらはどのように参詣したのだろうか。
『すべて宮めぐりのうちは、自然と感涙肝にめいじて、ありがたさに、まじめとなりて、しゃれもなく、
むだもいはねば・・・』と ごく神妙にしている。同感である。
現代に至るも、そういう気分にさせてしまうところが、大神宮の偉大なところだろう。
まあ、今回は特に3日がかりで歩いて参詣に来たことだし、ありがたさもひとしおであった。

御札授与所を覗いてみると、¥1,000の神棚が置いてあった。御札は¥1,000からである。
信心の度合いに応じて、最も安い神棚をいただく。「御札は別ですよね」と言わずもがなの念押し
をする。 「二千円をお納めください。」という。御札は買うのではなく、献納のお返しなのである。
『天照皇大神宮』の御札と、遷宮の時に利用した木材で作られた檜の文鎮をお土産にした。

休憩所ではビデオで神宮の建築などのプログラムを見学できる。
式年遷宮のときに正殿の柱は、境内の鳥居となり、鳥居はさらに別の神社の鳥居などに使われる。
手斧(ちょうな)など古くからの道具の使い方など、専任の職人集団があり、その技術は現代でも
伝承されている。

おかげ横丁

内宮を後にして、おはらい町通りで昼食にする。
松阪牛丼。ステーキ定食をどんぶり飯の上に
乗せたもの。¥1,380
松阪の焼肉屋では松阪牛を食べ損ねていた
ことが気にかかっていたので、たまり醤油の伊勢うどん
を食べるつもりが、ついついここへ入ってしまった。

味の方だが、うまかったものの、松阪・牛丼なのか
松阪牛・丼 なのかいまいちピンとこなかった。
やっぱり節約して伊勢うどんにと思いながら雨も
本降りの中をおかげ横丁へ立ち寄った。





おかげ座のお伊勢参りの人形ディスプレイはメンテナンスのため
お休みで、軒先を見物。
煙草屋には、200円でキセルを使って一服できる。
キセルも売ってあり買おうかどうか迷ったが、買っておけば
よかった。今度行ったら絶対に買うつもり。

← こんな笠と羽織もあれば、キセルとばっちりコーディネート。
でも、ワラジで長距離は無理だなあ。








古市・間の山(尾部坂)

近鉄線の線路が古市を横断するその場所に「油屋」の跡地があった。
現在は住宅地となっており、かつての遊郭の賑わいを彷彿させるものは
ない。













尾部(おべ)坂。
 間(あい)の山とも言う。

写真(右)
「間の山 お杉お玉」
間の山には芸人が軒を
並べ道行く人へ芸を披露
した。







お杉とお玉は、膝栗毛にもでてくる当時の有名タレント。
三味線を弾きながら、見物人が銭を投げさせ、それをバチではじくという芸。





























膝栗毛には『いにしてのお杉お玉が、おもかげをうつせし女の二上がりりてうし・・・』
とあり、お杉お玉は人物名からこのような芸の代名詞となっている様子が分かる。
弥次「あっちの新造がゑくぼへぶっつけてやろう」と銭二三文投げるがちゃっと避けて当たらず、
「ベンベラベンベラ」と弾く続ける。平然と銭を避けるので、両人とも熱中し、小銭を使い果たす。
喜多八はあんまり面がにくいと、小石を拾って投げつけると、ばちでちょいと受け投げ返せば
弥次郎の顔へぴしゃりと当たる。痛がる弥次郎に喜多八は大笑い。

 とんだめに あいの山とや うちつけし
 石かへしたる 事ぞおかしき


小田の橋

 小田の橋
下の図では橋の手前にもうひとつ橋が添っている。
これは仮屋(かりや)橋とよばれ、「触穢および月水(メンス)
の女の通るもの」とされた。
宮川の内側、山田と宇治の市中は神都とされていたため、
触穢についての禁忌が厳しかった。
穢れには死穢、産穢、月水があり、いずれも血に
かかわるものである。
現代でも血が付くと「穢れ」とまではいかなくても
血液を「汚れ」と感じる感覚は残っていないだろうか。







御贄川
(おむべがわ)

小田の橋






















小田橋を過ぎると線路があり、その先はすぐ宇治山田駅がある。
道なりに進むと外宮の高倉山が見えてくる。


神宮外宮

勾玉池の舞台を臨みながら休憩所で一休み。

外宮は内宮の祭神、天照大神の食事を司る
豊受大御神を祭神とする。
そこから、衣食住など産業の神様される。










































外宮宮中之図

右中の火除橋の右手の館があるあたりは現在はロータリー。

勾玉池はその右下の場所に相当するが、図会には入っていない。

参詣のコースは館のある広場(現在のロータリー)から火除橋を渡り、清盛楠を過ぎ一ノ鳥居をくぐる。
(いずれも現存)

つまり、下段右から左へ進み、其二の下段右から左へ正殿へ続く。
外宮宮中之図 其二

参道は右下の二ノ鳥居(現存)をくぐり、右下から左上に斜めに描かれている。
十字に交差する場所に「三石」が小さく描かれており、これは現存する。
(写真右下)

遷宮のときに河原祓いを行うことろ。

突き当たりの柵を右の鳥居へ曲がり正殿へ続くが、現在はこの鳥居までしか参詣できない。 
(写真左下)



写真:左正殿
参詣・写真撮影も
ここまで。



写真右:三石


























神宮徴古館・神宮農業館
* 古市を通る旧参宮道の北東側に位置する。 今回は時間・体力切れのため行ってません。次回のお楽しみ。

お伊勢参りまとめ

(初瀬街道・伊勢街道・伊勢参宮道の旅程のまとめ )
1日目: 長谷寺 - 阿保宿    約10時間   48,106歩 (1,937Kcal)
      自宅から近鉄長谷寺までの電車代、おにぎり(¥380)、名張で地酒(¥260)、
      伊勢慶旅館(1泊2食+ビール)(¥7,455)

2日目: 阿保宿 - 松阪     約10時間    56,223歩 (2213.2Kcal)
      おにぎり・アクエリアス・タバコ(¥650)、バンテリン・リポD(¥988)、伊勢中原-松阪電車代(¥200)、
      夕食焼肉(¥2,360)、スーパーホテル松阪(1泊朝食)・コインランドリー・ビール・ジュース(¥5,740)

3日目: 松阪 - 伊勢・古市   約8時間40分  39,726歩 (1、592.2Kcal)
      松阪-伊勢中原電車代(¥200)、商人資料館(¥200)、ペン・おにぎり・アクエリアス・タバコ(¥650)
      宮町-五十鈴川(¥210)、麻吉(1泊2食+ビール)(¥12,121)

4日目: 古市、内宮-外宮     約6時間半  18,335歩  (681Kcal)
      牛丼(¥1,380)、御札・神棚・お守り(¥5,300)、近鉄特急伊勢市-上本(¥3,030)、
      ビール・おつまみ(¥350)

合計:   162,390歩  費用 41,474円
      3泊とはいえ、徒歩旅行なのに結構な費用がかかってしまった。




4月24日16:10伊勢市駅発の近鉄特急で大阪へ。

近鉄線は街道からも見えることが多かったが、トンネルも多く、
スピードも出している。
しかし、乗車してちょうど1時間目の17:10ごろ、この旅の出発点
である長谷寺駅を通過した。
歩けば3日かかるが、近鉄特急は1時間で行くのである。
うーむ。 早すぎるし、安すぎる。
それでも、徒歩での旅行は電車や自動車での旅と違い、風景の
見える視点も違えば、視線の高さも違う。
同じ旅程でも、スローテンポの歩き旅には、従来の旅では味わえない
余韻を残した。





更新: 2021/5/25 リンク切れ修正