第12回 伊勢街道   松阪市・六軒 - 伊勢市・古市  2003年4月23日


       かつての憧れの場所、古市に泊まる

 伊勢街道は現在の四日市市追分、日永(ひなが)の追分から内宮までの
区間であり、日永の追分で東海道と分岐する。地名に追分とある
場所はかつて街道の分起点であった。
 そこから伊勢へ向うが、途中、六軒で初瀬街道と繋がる。
この日はその六軒から外宮の手前までを歩き、かつての日本三大遊郭の
ひとつ、古市へ行き、創業二百数十年という老舗の麻吉へ泊まる。








 「東海道中膝栗毛・五編下」はこの日永の追分から始まる。
東海道を上ってきた弥治郎兵衛と喜多八のコンビは途中で出会う人
たちを茶化したりしゃれのめしたり、また反対にやり込められたりする
様子を、軽妙洒脱な文体で記してある。要所に混じった狂歌は古典の
パロディであったり、掛詞(駄洒落ともいう)を交えて、現代人が読ん
でも楽しめる。

当時の街道風景や風俗がうまく描写されていて興味深い。
 当時、江戸から京、大坂方面へは「上る」と言った。
さすがは京。やはりこの間まで日本の中心であったのだと思い出す。



「馬」は「おま」と読み仮名が振られている。
街道には駕籠や馬が通っていて、徒歩だけでなく、よく利用されてい
たようだ。
 馬の背に駕籠を横に渡し二人乗りすることを、「二宝荒神」で行くと
いい、3人乗りは「三宝荒神」と言った。
料金の交渉も描写され、帰りの馬は安く「もどりなら乗るべい。
二はうくはうじんで百五拾やるべい」など当時のタクシー(?)の料金
体系が想像される。










「みえの歴史街道」 初瀬街道マップ


さて、それでは昨日の続き・・・・・・・・
 翌日、近鉄松阪駅から戻り昨日の伊勢中原駅に降り
立つ。 (9:16)
霧雨の降る中、傘をさしてデイパックにはレインカバー
を付けて歩く。 雨具には本当はポンチョがよさそうなの
だが、そうすると、地図を頻繁に取り出したりデジカメを
撮影するのに雨がもろにかかってしまうし、手も濡れて
しまう。

 ただ歩くだけならポンチョの方がいいが、こういうケース
には傘で正解だった。
筋肉痛は感じずどんどん歩けそう。
<万歩計を0にリセット>


伊勢中原駅の踏み切りを東へ渡り、100mほどではじめの
常夜燈に出会う。

5)常夜燈  明治28年 (9:227)

街道はその手前の道を南へ曲がる。
住宅街があり、その向こうには田植え中の水田が広がる。
JR紀勢本線と近鉄山田線がY字型に交差し、地図の線路
を目標に歩いていたら元の伊勢中原駅に戻りかけてしま
った。
街道は水田に消えてしまっているので、迂回する。
JR紀勢線の手前で三渡川を渡る。




三渡川の南側が街道。
当時この川には3箇所の渡しがあったという。
川の名前の由来もそこにあるのだろう。
JR線の踏み切りを越えると150mほどで伊勢街道との合流
点に到着する。

(9:46)








(9:49)
 六軒町に到着。ここが初瀬街道の終点であり、ここからが
伊勢街道に入っていく。
 
左が三渡川に架かる三渡橋。

渡る手前に道標
道を渡った川側に常夜燈、その向いにかつての旅籠で
あった「いそべや」があり、ここには講札が多く保存され
ている。現在は建替えられ、スーパーマーケット。
 講札は見学者が多いのでこの建物から路地へ入った
ところにまとめて見学できるようにしてあるらしい。
(未確認)



1) 常夜燈

3) 道標
「いがごへ追分」
「やまとめぐりかうや道」
「右いせみち」













 ついに、初瀬街道を踏破。 しばらくこの追分交差点でたたずむ。
この後六軒町の資料館で聞いた話では、このあたりは三渡川上流の住宅地
拡充の影響で川幅を広げる工事が近日始まり、三渡橋は架け替えとなり、
アーチ型の橋がこの常夜燈や道標のある場所の上を通るらしい。
 初瀬街道の起点・終点となるこの場所が車道橋の下の日陰になってしまい、
また街道風景がひとつ無くなってしまうことは悲しい。
六軒の街並みは地元の人たちがボランティアで資料館を運営するなどすばらしい
取り組みがされており、建物といい街道といいよく保存されている。
そのど真ん中にアーチ型の橋を架けるというのはいかがなものだろうか。



「みえの歴史街道」 伊勢街道マップ
(19)六軒-B  (三雲町中道 〜 市場庄)

















































六軒の街並み。
伊勢音頭に「明日はお立ちか、お名残おしゅうや、
六軒茶屋まで送りましょう。六軒茶屋の曲がりとで・・」
と歌われた町。

各戸に屋号が掲げてあり、往時を偲ばせる。
右上の写真は六軒郵便局(今は営業していない様子)。
軒の注連縄(しめなわ)が面白い。

 これは一年中飾られ、中央には「蘇民将来孫之家門」
と墨で書いた木の札がある。
鎌倉中期以降に流行した蘇民信仰の影響で、次の伝承
に基づいている。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 スサノオノミコトが旅の途中、日が暮れたのである村に
立ち寄ったところ、裕福な兄の巨旦将来は宿を断ったが、
弟の蘇民将来は喜んで宿を貸した。スサノオノミコトは
茅の輪と蘇民将来の家であると玄関に書いておくことを
蘇民に言いつけた後、疫病と災厄を村に降りかけて巨旦
一家を滅ぼしてしまった。
 それ以降この地の人々は、玄関に蘇民の子孫である
としてこの注連縄をかけ続けている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 「いちのや」看板の家は、町内の有志による無料資料館
として運営されており、軒先の資料を読んでいたら、
「どうぞ、中で休んでいってください」と声を掛けてもらった。
(10:06)



















 ステッキを見て「どこから歩いてきたんですか」と問わ
れ、それをきっかけに話が進む。
 連子格子は街道沿いの家に特長的で、人通りの多い
通りに面しているので、打ちこわしなどを防ぐシャッター
の役割を果たし、それでいて写真にあるように十分に
外光も取り入れる、と教えていただいた。
 「田植えの時期で、今日は私しかいませんが、いつも
は湯茶の接待もしてます。」 と、こちらが恐縮してしまう。
台所は昔ながらもので、床は三和土(たたき)になって
いて、年配の方など昔を懐かしむ人も多いという。
(10:30)「今日は古市まで、先を急ぐので」と、ここを
辞する。
このあたりは街道の面影が多く残っていた。


(20) 久米 - A  (三雲町市場庄 〜 松阪市塚本本町)

244)道標
宝暦元年 (1751)
「忘井之道」
このあたりから伊勢までは七里。
一里が約4kmで、大人の歩く速度が時速4kmくらいなので、一里に
かかるのはおおよそ一時間の目安。
徒歩を基準にすると”km”よりも”里”の方が便利。

忘れ井 : 斎王(伊勢神宮や賀茂神社に奉仕した未婚の内親王または
女王。いつきのみや。)の一人、恂子内親王が一志頓宮のあたりを通り
かかった際、お付きの女官が読んだ和歌(千載集)にある。
 「別れゆく 都のかたの 恋しきに いざ結び見む 忘れ井の水」

久米で近鉄線の高架下を10:39に過ぎる。
そのすぐにこの「忘れ井」がある。 (現在は埋まっている)





(20) 久米 - B (三雲町市場庄 〜 松阪市塚本町)

(10:45)

257)行者堂
258)庚申堂
259)山ノ神二基
260)道標  「左さんぐう道」
261)道標 いおちかんのん
262)常夜燈 嘉永5年(1853年)

ここで左右に道が分岐する。道標に従い左へ曲がる。
今も道標はこうして役に立っている。
曲がった後はすぐに右へ曲がり南方向へ道なりに直進。




(10:52)
また道が分岐しているが、左へ道なりに進む。

264)庚申堂












(10:57)
266) 古川水神常夜燈
万延2年(1861年)建立

先に見えているのは県道56号線の高架。
ここ、塚本町で高架下をくぐる。










(11:06)
百々川に架かる橋を越えた
ところに常夜燈がある。

269) 常夜燈
嘉永5年 (1852年)










(21) 松阪  (松阪市船江町 〜 京町)


薬師寺 仁王門

薬師寺は
承応2年(1653年)の建築











(11:18)
272) 連子格子の家

この家に突き当たり、向って左側に曲がり、道なりに
右に曲がっていく。

このあたりは大きく鍵型に曲がっている。









(11:20)
100mほどで交差点に出る。
そこを左へ曲がる。
左の写真の向こうに伸びているのが街道。
県道24号線。

約1km直進すると阪内川に架かる松阪大橋に出る。









西町。説明板によると・・・
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 大橋から川井町までの参宮街道約500mの道筋の
町名。現在は極楽町、百足町等も含む。近世の地誌は
西之庄町を省略して西町と呼ぶようになったとしるし、
また、堀江、山村、岡本、堤、小津といった江戸店持ち
の有力町人が集住していいたとも記す。
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 懐かしい郵便ポストは現役。
やっぱりポストはこうでなくっちゃ。





(11:33)
松阪大橋。
ここを渡るとすぐに「松阪商人の館」資料館がある。
橋の向こうからは県道60号線と変わる。












「松阪商人の館 (旧小津清左衛門住宅)」 資料館
(11:35)  入館料200円。
入り口右手で受付のおばあさんに「どこから歩いてるん
ですか」と聞かれ、それをきっかけにこのあたりの歴史
など話が弾む。
絶えずにこやかに話をされる。
お客が途中で途絶えたときに、街道資料のパンフレット
を納戸から探しだして渡してくれた。
小津安次郎の映画資料館の場所を教えて「若い人は
知らんやろうけど、わたしら昔はよう見たもんです。」
というけど、私もCS放送で何本か見ている。
笠 智衆は好きな俳優だし、岩下志麻が20代とぜんぜん
変わらないのに驚愕する映画もある。



















写真・上左:
 入り口の受付

写真・右:風呂

写真・下左:
調理場が広い

写真・下右
親切な受付のおばあさん。
ついつい、長居(40分)して
しまった。



















語ってもらったところでは、松阪は紀州藩の飛び地であったということだ。
紀州は御三家であり、江戸徳川家との結びつきも強く、政治、経済に松阪藩が
その恩恵を被ったこともこの地の発展と無縁ではないだろう。
また、松阪に限らず伊勢地方は関西弁に近く、道中は関西地方とまったく違和感
が無かった。 伊勢神宮と京との結びつきのためかと思っていたが、人的交流は
紀州藩とのものが色濃いものだったのかもしれない。
 言葉は関西風、味覚は味噌タレで発見したが名古屋風という面白い組み合わせだと思う。

 蔵にも資料が並べられ、目を引いたのが、明治政府発行の書状だった。
1968年明治元年、政府に 「壱萬五千両提供し御褒美として米百五拾俵被下候事」とある。
そして同年、 「苗字帯刀申付候事」とある。
 徳川寄りと見られないようにとの配慮というのは穿っているだろうか。
 できたばかりの明治政府に松阪商人が献金をした資料。政府がそのお礼に米を
出し、またそれでは足りないと思ったのか、苗字帯刀を許したというところが、つい
この間まで江戸時代だったことを実感させる。
その9年後の1879年には廃刀令が出ているので、この特権も長くは続かなかった。

(12:24)
275) 三井家発祥地
小津清左衛門住宅の並びにある三井家発祥地の
家屋。
ここから、あの三井財閥が発展していった。

この先から道幅は広がる。

この近くに本居宣長旧宅、鈴屋があったが、現在は
松阪城跡に移されている。






(12:33)
516) 道標
参宮街道と和歌山街道との
分岐点。
「右わかやま道」
「左さんぐう道」

左の写真で右の道が
和歌山街道、直進が
伊勢街道(参宮道)
この交差点を左折すると
松阪駅へ直進する道。



(22) 垣鼻町 (松阪市日野町 〜 大津町)

(12:44)
小津安次郎の資料館、 青春館
そうそう、岩下志麻出演の小津作品初のカラー映画は、
「秋刀魚の味」だった。 東京物語も戦後しばらく経った
当時の様子がよく分かる映画だった。
古い映画は今はおじいさん、おばあさんになってしまった
俳優たちの若い頃の姿を見ることができる。
知っている俳優があると、「おお、これがあの!」と
オドロキとカンドーを感じるという見方をしたりする。
また、高度成長期に育った世代としては、それ以前の
時代の名残がまだ周囲に残っていた記憶がかすかにあり、
映像の中にそういった町の景色とか、身の回りのものなど
を発見してはヨロコんでいる。  この日は休館だった。



(12:54)
那古須川を渡る。
橋の向こう右手に













288) 閻魔堂

写真・左下: 常夜燈
三重県のサイトに載っていないもの。

写真右下:
 神戸神社 (かんべ)と読むのではないだろうか。




























(12:56)
291) 常夜燈
文政12年(1829年)
江戸千鰯問屋等の寄進によるもの。

写真・上右に同じ













(23) 上川町 (松阪市下村町 〜 豊原町)

13:16にJR徳和駅を越える。

(13:21)
292) 常夜燈
天保2年(1836年)











295) 女人の供養塔
明治13年。 街道から4m入った用水路の堤防上。














(13:35)
298)道標
「従是外宮四里」
後4時間で着くのかと思う
一方、普段から故障ぎみの
左股関節足がだんだん痛ん
できた。

連子格子の街道風景が
慰めになる。






(13:53)
道自体は特別なものではないので、道標や常夜燈が
しばらく続かず、連子格子の家が途切れると道が
合っているかふと心配になるが、ときどきこうして
「伊勢街道」という標識が電柱にあって安心する。










(24) 櫛田川  (松阪市豊原町 〜 明和町竹川)

(14:10))
櫛田川の手前で37号線と合流する。
街道は橋の少し下流を渡っていた。
橋の手間にコンビニがありそこで昼ごはんのおにぎり
2個と、落としてペン先がつぶれたボールペンを購入。

櫛田橋は架け替え工事中で仮設橋を渡り、川原に
降りる階段で腰を下ろして小休止。
おにぎりを食べる。
霧雨も止んでおり傘を畳む。
10分ほどで出発。






(14:26)
307) つる家
今も営業しているらしい。


街道はこのあたりでは
県道428号線となる。








(14:38)
311) 六字名号碑
文化14年(1817年)
梵字が刻まれている。



写真・下左右: 祓川橋
(14:43)
祓川は稲置川、多気川ともいい神宮の近境と
される。














































 「伊勢参宮名所図会」 より、稲置川(祓川)の様子。
中央下の筵小屋は橋銭を徴収するところ。
川の中ほどに舟を固定し、両岸から板を渡して橋にしている。
川を渡る馬の背に三宝荒神(3人乗り用)の鞍が置いてある。
橋を左手から渡ってくるのは女性の二人連れ。右手から走っていくのは飛脚。


(14:45)
313) 道標
弘化4年(1847年)
「従是外宮三里」

 あと3時間ほどで外宮に到着予定かぁ。
しかし急がないと麻吉旅館へは18時ごろの到着と伝えて
あるので間に合わないかもしれない。
旅館を予約すると、食事の時間に制約されてしまうのが
つらいところ。
 昼過ぎから既に足全体がつっぱりだしていたが、今は痛みに
変わってしばらく経つ。 その苦痛を我慢して歩く。
 地図をときどき参照しながら、道標、常夜燈があれば
すばやく撮影してまた歩き出す。
歩きながらほとんどものは考えない。
ゴールを目指して歩くというより、一歩一歩足を前に出すことだけを
考えていた。


だいたい街道歩きをしているときは、ほとんどモノは考えずに
道を間違わないように頭の片隅で気をつけているだけで、
ひたすら右足を前へ、左足を前へと同じ動作を繰り返している。

ふと、思ったのだが、これって人生に似ていないか?
というか、こういう人生というのもアリではないか。
 現代は情報過多で、それはそれで日ごろ恩恵を受けているのだが、
そのせいか、何かしなくちゃ人生を送っていないような心配を抱かせ
られていないだろうか。



 「人生」に意義を求める、つまり「何のために生きているのか」とか、
何か大きなことをしないと人生とはいえない、などといった一種の強迫
観念にとらわれることはないだろうか。
こうして昔の人と同じように歩いていると、歴史にも出てこない名も無い
人々が、かつてどんな暮らし向きで、何を考えて生きていたのかが、
少し分かるような気がする。
おそらく目の前の日常を一日一日、淡々と寿命が尽きるまで歩いて
いたのではなかったろうか。



それでいて現代からすると些細な楽しみをも、きちんと喜びに感じて、
結構楽しく生活していたような気がする。
 実際、100kmを越える街道をお伊勢参りに歩いて行くのは現代では
伊達や酔狂でしかないかもしれず、普通の人は大阪からなら近鉄特急
で行くものだ。
しかし、鉄道や自動車の車窓からは見えないものが歩行者の目線と
速度で見えてくるのも確かで、景色だけでなく音や光も歩行者だから
こそ感じ取れるものがある。
 街道歩きは頭を空っぽにして、無心の状態にしてくれる。
「ご飯が食べられて、歩けたら幸せ」と言う具合に欲望が些細なものに
ミニマイズされるのである。 「ああ、歩けて幸せ。 足、痛いけど。」


(25) 斎宮 − A (明和町竹川 〜 上野)

(15:02)
斎宮の通り

下の「伊勢名所図会」では右下の人通りの多い通り
にあたるのではないか。
斎宮はこの通りから800mほど北側、斎宮駅の北西で
発掘され、現在は いつきのみや歴史体験館 がある。
ここ斎宮では、かつては伊勢神宮に奉祀する斎王を
中心に500人近い人が使える斎宮があった。
時間が迫っているので寄らずに直進する。

下の図は、「例幣使和泉屋に休(いこ)ふ」とある。
駕籠、荷物などが玄関前にあり、村役人が挨拶に来ている。































(15:05)
319) 竹神社
野々宮跡。毎年6月初旬に行われる斎王祭りの斎王
行列の出発点。
野々宮神社といえば、京都の嵯峨野にも同じ名前の
神社がある。

京都では毎年5月15日の葵祭りで、斎王が御所から
下鴨神社、上賀茂神社と行列する。






(25) 斎宮 - B (明和町竹川 〜 上野)

(15:14)
321)有明六地蔵
地蔵は永正10年(1513年)。
奥まった場所にあり、寄らずに直進する。

 斎宮は「さいくう」と読んだり、「いつきのみや」と
読んだりするが、地名としては「さいくう」。
ちなみに、外宮、内宮は「げくう」、「ないくう」。







(15:21)
左:327)道標
明治41年
道標の向こうの道
は街道ではない。
街道側から撮影


右:328)山ノ神
交差点にある。
写真の傾きから
そろそろヨレテきて
いることが分かる。



(26) 明星 (明和町上野 〜 新茶屋)

(15:37)
上野のあたり。
昔このあたりにそうめん屋があったことから名づけられた。














5分小休止。
(16:00)
<万歩計:29,443歩>







































「伊勢名所図会」 明星
「明星の茶屋の をなごに よひもあり 又首すぢに あかつきもあり」 の歌が添えてある。
茶屋で遊女まがりのなりをして客をひいていた。
歩く人に混じり駕籠、馬が往来し、往来には茶屋が軒を連ねて賑わっている様子。
茶屋では、茶、餅だけでなく酒や肴もあり、ワラジも売っていた。
軒に下げられているのは参宮の講の名前。@@ツアー様契約店といった意味。
 こういった茶屋がそこかしこにあれば歩く旅には便利であったろう。
現代ではコンビニがこれに代わっている。


(16:08)
333) 道標
嘉永6年 (1853年)
「従是外宮二里」
あと二里だ。

ここの北約500mに近鉄明星駅が位置している。








(27) 相合 (小俣町明野 〜 元町))

































339)老舗 へんばや

相合川にかかる相合橋の手前100mほどに、
へんば餅 があった。 一盆(3個)210円と安い。
3個買った。 他の餅とどう違うんですか?と店の人に
聞いたら、「もち米じゃなくて普通の米で作っています。」
ということだった。
この後歩きながら1個食べたが、噛んだときの歯ざわり
が餅より粘りがなく、さっくり噛み切れる。餡はこしあん。
甘みは抑えてある。

へんば餅は、馬に乗った参宮客がこのあたりで馬を帰して
一休みした茶店から(返馬)餅と呼ばれた。




(16:49)
相合橋を渡り、100mほど先で、旧道は右側の住宅地
へ入る。

このあたりの北の方に、明野航空基地がある。
昔の陸軍明野航空隊であり、活字でしかしらなかったが、
こんなところにあったとは。
現在は陸上自衛隊の航空訓練基地となっている。






(16:55)
340) 庚申堂
安永(1772〜1781)の建立














外城田川を渡りさらに直進する。













(17:16)

札の辻 (和歌山藩の高札場があった)を左へ曲がり、
200mほどで右へ曲がる。
写真は振り返って写したもの。奥の方から歩いてきた。
そこを宮川へ向って進む。

そのあたりは鳥羽藩本陣跡、坂田の橋跡の新しい道標
が建っている。






















(28)桜の渡し−(29)古市−(30)伊勢神宮内宮

(17:22)
宮古橋

先ほどの本陣跡からすぐのところ。
橋の向こう側に緑の土手があるが、その向こうが宮川。
宮川には桜の渡しと呼ばれた渡し舟で渡った。
現在は宮川橋が架かる。

左下の図は東海道中膝栗毛の挿絵
右下が土手から宮川を臨む。
渡し場があったところに常夜燈がふたつあり、そのそばで
物思いにふける女性がひとり。(小さくて見えにくい)
寄り道する気力、体力も萎えかけていたので、右に見える
宮川橋へ向う。


















(17:33)
宮川橋を歩く。
歩道がまったくない。自動車が途切れるのを待って橋に
入ったが、車同士がすれ違うのがやっとで歩行者はまったく
邪魔ものだった。
距離が結構あるので、一息に渡れるものでもない。
足の痛みはひどくなるばかりで、C3POのような歩き方で、
橋はもうそれほど長く歩けないという予感がする。
曇り空も夕方でだんだん暗くなってきた。



































「伊勢名所図会」宮川を渡った東岸の様子。
写真は宮川橋たもとから西岸(左手)から対岸までの現在の様子。 鉄橋はJR参宮線のもの。














































ここから山田の町へ入る。
御師はこのあたりまで出迎えに来ていた。  下の図は「東海道中膝栗毛」より。御師の出迎え風景。






















(17:36)
街道は中河原(現在の地名は宮川)へ入る。

ここには片旅籠茶屋があり、御師の手代が参詣人を出迎える場所
になっていた。
日が暮れて宮川を渡ってきた旅人が宿泊させたり、必要に応じて
御師の斡旋もかねていた。

 「伊勢名所図会」
図の左側、二本指しのお辞儀をしているのが御師、右が参詣人の一家。
その手前では棒に荷物を通して担ぐ浮かれた様子が見れてとれる。







































(17:47)
347) 道標
文政5年(1822年)
「左二見道」「右宮川@場」「すぐ外宮江 十三丁半」
「内宮江 壱里三十三丁半」

麻吉旅館へ予約した時間が迫っている。歩いて行きたかったが、
ここからさらに2時間弱はかかるので宿に迷惑がかかる。
JR山田上口駅を越えて、近鉄山田線・宮町駅へ向い、3駅目の
五十鈴川駅で降りて麻吉へ向うことにする。









(17:55)
近鉄宮町駅。
ここまでで <万歩計: 38,246歩>












(18:36)
五十鈴川駅を降りた。
地図を見るとすぐそばだが、古市は山になっており、
駅とは伊勢自動車道が間に貫いている。
駅の西側は裏山になっており、東にしか出口はない。
いったん下って、すこし山田の方へ戻り線路の下をくぐる。
また階段を上がると、新興住宅地が突然開ける。
住宅街の道路を高速道路に沿って歩くと、夕闇の向こうに
「麻吉」の白い看板が見えた。
周囲は木々が茂り、窓の明かりは見えない。
「まずい、これは初日の旅籠のような部屋かもしれない。」
あの、かつての旅人の憧れの古市が、こんな鬱蒼とした
木々が取り囲み、すぐ裏手を高速道路が通っているなんて。
夕暮れとともに疲労もかさなり、気分も沈みがちに足を運んだ。


高速道路の上を渡り側道を行くとたどりついた。
階段にはフットライトがしつらえてあり、「おっ結構いいかも」と次第に
浮き足立ってくる。 なんといっても200年以上前からの建物である。
これくらい古いと十二分に歴史的価値はあり、その資料館ともいえる
旅館に泊まれるのである。 うれしい。 姫路城には泊まれないが、
麻吉なら泊めてくれるのである。

石段を上がっていく。
階段の上には渡り廊下
が架けられている。

こういう複雑な木造建築が
実は大好きなのだ。

いったい何処から入るの
だろうか、とわくわくしながら
石段をあがる。








































階段を上っていったところに、提灯がならんだ玄関があった。
 この風情がたまりません。
ひと目ではわからない複雑な建築様式と、黄昏た空、そして提灯の明かりが、
「千と千尋の神隠し」の湯屋の周りの町の様子にどことなく似ていないだろうか。
玄関を開けて入る。
















玄関には、スリッパが一組揃えてある。 「すいませーん」と何度か呼んだが誰も出てこない。
いよいよ不思議空間だ。 ここまで来たら慌てることもない、宿の人も都合があるのだろう。
ソファーに座って、上下左右を眺め回す。 有名人の色紙が鴨居にたくさん架けられている。
そうだろう、そうだろう、と雰囲気を味わいながらタバコを吸っていると女将さんが出てこられた。
(麻吉旅館)


玄関をあがってまっすぐの部屋へ通される。
部屋の引き戸を開くと、スリッパを脱いであがる。
障子を開けると二畳ほどの間で、奥がバストイレ、
手前右が部屋になっている。八畳か十畳ほどの広さ
縁側には窓がちゃんとあり、障子で仕切られている。
縁側には椅子と机もある。
そして、なんと、この部屋はとても新しい。
最近手を入れた様子。

一泊2万円する、観光旅館の部屋と遜色ない。
いや、もう最高。
昨日のスーパーホテル松阪もビジネスホテルだが
必要十分な施設で、清潔で新しかったので、ご機嫌
だったが、今晩の麻吉もすばらしい!


他の部屋がどんなものかは分からないが、この部屋は
新しく快適だった。
どうやら、今日の泊り客は私だけのようだ。
清潔で明るい部屋に泊まると、旅館で泊まり客が一人だけ
でも、かえって気兼ねなくていい。

すぐにお風呂をいただく。お風呂へは玄関脇の階段を
降りて曲がって、いったん屋外に出てから湯殿へ行く。
この複雑さがまたいい。
風呂場は一人で入るには広々としており、手足を伸ばして
入浴できた。 今日の汗を流し、浴槽で足を「ごくろうさん」
とマッサージしながら浸かる。
 風呂をあがると既に夕食の支度がされていた。



伊勢海老、てんぷら、刺身、さざえのつぼ焼き、焼き魚、
小皿、漬物、汁、ごはん、いちご寒天のデザート
これが宿泊にセットになっている。
ビールだけ別に注文した。

料理は冷めてはいたが、いや、もう十分です。最高です。
ほとんど平らげた。ゴキゲン ゴキゲン。
ごちそうさまでした。

これに朝食も付くのだが、ちなみに翌日の支払いは、
ビール 500円を入れて、税込みトータルで 12,127円也。
安い。
翌日は資料館として使われている蔵を見学させていただく。
もう、ぜーんぶ込みでこの値段なんだからまったくすばらしい。


古市で遊ぶ弥二さん、喜多さん。
(腕をゆらゆらさせているのが弥治郎兵衛、
扇子を持つのが上方者、北八はあぶれて
浮かぬ顔)

 ふとしたことで知り合った上方者と一緒に
古市に繰り出した。
  弥二さんを上方の大商人の江戸の出店の
ものとして、遊女を相手に大ボラを吹いて
遊んでいたが、上方者は酔うと話がくどく、
うんざりしてきた弥二さん、見初めた遊女と
先に杯を交わして、てっきり自分と・・と思っ
ていたら、江戸とはシステムが違っていた
ようで、上方者はすでに話をつけてしまって
いた。
おもしろくない弥二さんは、帰ろうとするが、
宿の者が、「モシこうしよかいな。これから、
柏屋の松の間をおめにかけふわいな。
 ただし麻吉へお供しよかいな。」となだめる。


翌日の地図をそろえて、どういうルートを歩くか検討して早めに寝た。
明日はまずここの資料館を見せてもらい、内宮へまず参詣し、それから古市を戻り、
外宮へ参詣するというプランにした。
明日へつづく・・・



* お伊勢詣りルート (伊勢神宮 内宮、外宮)へつづく